合宿前日
夏の暑さが蒸し返す中、合宿が、いよいよ明日に迫った。明日からの事を考えてしまうから、合奏に全然集中出来ない。それは、僕だけでは無いはずだ。
三日前から、合宿のために支度を始めた。今年で三回目なのに、準備にかなり手間取る。自由時間にどんな事をパートでするのかを考えるのはパートリーダーの役目だ。と言っても、勝手に決めてしまう訳にもいかないから、最終的にはパートの総意があって決まる。低音パートでもいろんな意見が出たが、皆それぞれ主張するものがあったので、結構、去年・一昨年と同じく川辺でトークというところに落ち着いた。と言うよりかは、食い下がって貰ったというのが正確だ。
「でもさ、今年の合宿って一日多いから、あんまり無理出来ないな。」
「無理出来ないというか、無理させないわ。一年生は、合宿が初めてだもの。自由時間にそんなにはしゃぐと、後に響く気がするわ。」
「そうだな。だから自由時間は例年通りにしたつもりなんだけど。」
「当然よ。でも他のパートは、山を歩くとか、敷地内の池で何かするって言ってたわ。どうかしてるんじゃないかしら。」
「僕もそう思うよ。絶対四日目にはバテてるよ。」
「そうね。なんか、いろんな意味で楽しみになってきたわ。」
この時、女は腹黒いと確信した。やっぱり女って怖い。
そんな事を話していると、吉が、
「あの、先輩、僕の為にそんなに悩んで貰わなくても大丈夫ですよ。僕は先輩について行きますから、先輩のやりたいことをやって下さい。」
と言ってきた。パート内の他の一年生も同じ様な事を言っているが、そうはいかない。
「この合宿は、あくまで楽器の演奏力の向上を狙ってやる訳だから、とても体力が要るんだ。だから、演奏者の体力が無かったら、この合宿の意味が無くなる。だから、自由時間で体力を取られてしまってはいけないんだ。」
よく分からない説明に、詩織が付け足した。
「それに、低音パートって、他のパートよりも体力の消耗が激しいの。他のパートが三十分吹いた時の体力の消耗よりも、低音パートが三十分吹いた時の体力の消耗の方が多いから、すぐ疲れちゃう。だから、低音パートは自由時間を休憩時間としてとった方が、ずっと効率よく練習が出来るのよ。そういうことも、一応このパートリーダーは考えてるみたいだから、ここは素直に理解した方が正解かもしれないわ。あんまり押し付けるつもりは無いけどね。」
…助言、ありがとうございます。と心の中でつぶやいておく。
結局、それで論議は終了した。一年生は、もっと活動的な自由時間を頭に想像していたのかもしれないが、残念ながらそれは無くなった。でも実際に合宿所へ行ってみて、その自然の雄大さを見ていれば、川辺で語り合うのも悪くないと思ってくれるだろう。それを期待したい。
それよりも、最近、来たり来なかったりする部員が一人。それがとても気になる。この前まで、あんなに楽しそうに部活をやっていたのに、最近は部活に来るのがとても辛そうに見える。楽器の音もまた弱々しくなってきているし、合奏をやっていてもなんか考え事をしているようで、全く合奏に身が入っていない。合宿には来るらしいが、今日も姿が見当たらない。何があったのだろうか。でも、僕が気にした所で何も変わらない。そんなものだ。だから、無理に触れて事態を大きくするよりも、今はそっとして置いてあげたほうがいい。それは、過去の自分の経験から思ったこと。今は詳しく語らない。ともかく、彼女がこの合宿で、何かしらの毒を出せたなら、それでいいと思う。
コンクールが近づくと、自分では気づかないけど、脳が常に緊張している状態になる。今まではあまり気にしていなかった小さなミスが、急に大きな過失に思えて、自分ってなんでこんなに出来ないんだろう。って悩むことがよくある。いつもなら、その悩みは部活後の雑談で発散していたのに、いつの間にか皆が真剣に自主練に取り組んでいて、話しかけづらい環境になっていた。結局自分はその悩みを打ち明けられずに、どんどん蓄積されていって、精神的に不安定な状況になる。そうすると、今休みがちになっている部員と同じように、部活がきつい。という心境になる。
彼女もきっと、そのような理由で、休みがちになっているのだろう。実際のところは、本人しか知らない。
今はそんな事に首を突っ込んでいる場合ではないのは分かっている。もっと練習しなくてはいけないことも分かっている。でも何でそこまで気にかけているのかといえば、それはつまり、その人は僕にとって特別だから。それだけだ。