普通の日常 その2
そんな話をずっとしていたら、いつの間にか合奏の時間が来てしまった。いつも通りチューニングを済ませて、合奏での自分のポジションにつく。
数分して、先生が来た。他の学校では、講師の先生を呼んでいることが多いが、うちの部活には、そういったことが出来るほど部費が下りてきてないし、そういうことをしようという意識もあまりないので、合奏指導をするのは部活の顧問の先生だ。音楽の先生ではないが、中学・高校時代に吹奏楽を経験していて、一回だけ県大会に行った事があると言っていた。
「さて、今日も合奏を始めるが、その前に、今年も行う、強化合宿のことについて説明しておこうと思う。」
そう言うと、部員は全員歓声を上げた。
崎ヶ原第二高校吹奏楽部は毎年夏休みに、個人技術や、バンド全体としての合奏のクオリティを向上させるために、毎年山の奥地にある施設まで合宿に行く。その施設では、二十四時間好きな時間に音が出せるように配慮がしてあって、やろうと思えば夜中にだって合奏が出来る。山の奥地にあるのはこのためだ。
去年、一昨年とこの合宿に参加して、自分の技術はとてつもなく進歩したと思う。二年前、自分が一年だったときに出していた音は、今の吉の音よりも酷い音で、先輩からは、かなり酷評を受けていたし、自分でも判っていた。どうしていいのか分らずに迷っていたとき、この合宿をやって謎が解けた。おかげで今のような、芯のある音が出せるようになった。
また、この合宿は、楽器と仲良くなれるいいチャンスでもある。『楽器と仲が悪いと、絶対にいい音は出ない。楽器も人だと思って接するべきだ。』というのがうちの顧問のモットーである。実際、それは確かだと思う。それをじっくりと確かめることができるというのも、この合宿の魅力の一つだと、僕は思っている。
また、先生の口からは述べられないが、部員にとってみれば、この合宿を通して、部員ともっと交流を深めようという大きな目的がある。毎年、この合宿には自由時間というものがある。普段縛られた生活をしている高校生は、自由時間というものを取ると、どうも小学生並みに遊びたくなる傾向が特に女子にあるらしい。毎年その騒ぎ様は変わらず、去年も一昨年も、凄いものだった。皆が普段溜めていたストレスを、一気に放出していく様を、まじまじと見ることが出来る、ある意味貴重な時間だ。
そんな自由時間を使って、パートごとに、様々なことをする。山の中の大自然で思いっきり遊ぶパートもあれば、そこらへんの芝の日陰に座り込んで、ずっと色々語っているパートとか、様々だ。低音パートは、去年も一昨年も、川の流れに足を浸しながら、いろんなことを話していた。それはそれで、いいくつろぎになる。きっと今年も、同じような形式でいろいろ語り明かしていくのだと思うと、なんだか急に楽しみになってきた。
今年の合宿は、三泊四日と、いつもより一日泊まる日数が多いらしい。なんでかと後で聞いたら、今までは出ていなかった年明けのアンサンブル・コンテストに、今回は出るつもりだから、少しでも個人レベルを底上げしたくて、無理を言って一日延長してもらったらしい。それだけ今年の合宿に賭ける思いは強いみたいだった。
それに、僕は今年の合宿で、一つ、やらなければならないことがある。それゆえに、僕は今年の夏の合宿が、生涯忘れないものになると思っている。
合奏は、いつも通りに進んだ。大会の曲をとりあえず一回通してみて、そこから細かい指導に入っていくというのがいつものパターンだ。今日もそのパターンだったのだが、台風でも来ているのだろうか。いつもの倍以上合奏に気合いが入っていた気がする。指揮棒を三回も飛ばすから、それはもう面白くて堪らなかった。
だが、曲の方はしっかりと仕上がってきていて、この調子でいけば、大会に間に合うだろう。でも、まだトッピング的な部分が足りない。このままだとストレート過ぎる演奏で、なにも面白みがない。だから、合宿に行ってうまく表現を付けてからコンクール本番に臨む。それがこの部活のセオリーだ。
また、合宿に最良の状態で参加するためには、今は自分の演奏に専念した方が良さそうだ。まだまだうまく指が回っていない所や、音が当たっていない所など、課題は山積みだ。
ちなみに、コンクール本番は、合宿が終わってから三日後。合宿で身につけた技術を、残り一週間でなるべく熟成させて当日に持っていかなくてはならない。なかなか厳しいものだ。
『ありがとうございましたー。』
『さようならー。』
今日の部活が終わった。
今からは、約一時間、生徒が自主的に練習をする時間だ。主に合奏で注意されたところを重点的にやっていったり、個人の技術で足りないと思うところを徹底的にさらったりする。今は、吉と交代交代やっているから、出来るのは二日に一回。でも、十分効果が期待できる。今日は吉が練習する日だから、とりあえずやりそびれていたファイル整理でもしていようか。
と思っていたら、急に背後であまり聞き慣れない声が僕を呼ぶ。
「先輩、ちょっと聞きたい事があるんですが、いいですか?」と言ってきたのはトランペットの二年生、吉原亜由美さん。彼女は、中学からずっと吹奏楽を続けているだけあって、技術は素晴らしい物を持っている。だから、彼女が僕に聞きたい事なんて、あまりないと思うんだけど…。
「先輩って、いつまでこの部活に残るつもりなんですか?今度のコンクールが終わったら引退しちゃうんですか?」
「いや、まだ決めてないけど、それがどうかしたの?」
正直なところ、僕がコンクールで引退してしまおうが、その後も気ままに残っていようが、この部活には影響を与えないと思っている。僕が辞めてしまえば、チューバは吉に交代するだけだ。コンクールよりも後には、そんな重大なイベントがあるとは言えないし。
「先生がさっき言ってたじゃないですか。今年からはアンコンに出るって。だから、先輩もアンコンに出るのかと思って、聞いてみたんです。」
アンサンブル・コンテスト、略してアンコン。夏の全国吹奏楽コンクールと大きく違う点は、夏のコンクールは団体なのに対し、アンコンは少人数だ。そのため、個人の技術が多く問われる。団体だったら許されたミスも、このアンコンでは完全に見抜かれてしまう。また、少人数で行うので、強弱の付け方にも気を配らないといけない。少人数だからこそ、音量の大小は普段の倍くらい差を付けないと、本当に薄っぺらい演奏になってしまう。演奏者全員が息をぴったり合わせて、コンビネーションを大切にしながら演奏することが要求される。
要するに、アンサンブル・コンテストで上の大会に進出するためには、『技術・表現・チームワーク』この三つがどれだけ高められているかがポイントになる。だからアンコンは難しい。
「アンコンか。今はあんまり考えてないかな。残れって言われたら多分残るだろうし。」
僕は高校を卒業したら、大学に行かずに就職するつもりだから、いつまで部活に残っていても問題ない。吹奏楽で名のあるような学校は、進学する三年生でも年明けのアンコンまで残っている生徒もいるみたいだから、決して変なことではないと思うし。
「そうですか。ありがとうございます。」
そう言って、彼女は自分の位置に戻り、またトランペットを吹きはじめた。
自主練の時間も終わり、帰路につく。駐輪場で自転車の鍵が見付からない。あれ、このポケットに入れておいたはずなんだけどな。
必死になって探している時に、二年生の駐輪場から話し声が聞こえた。二年生の駐輪場は僕のいる駐輪場の二階だ。小声だから、なにか入り用な話らしい。一回聞こえてしまうと、つい盗み聞きしたくなるのが男という生き物。どうも気になってしまったから、密かに聞いていた。
「今日、先輩に聞いてみたよ。コンクール終わったら引退しちゃうのかって。」
「で、どうだったの、答えは。」
「まだ決めてないんだって。でも、残れって言われたらアンコンまで残るって言ってたよ。」「へー。そうなんだ。あ、でも、あの先輩は就職するから残れるんじゃない?他の先輩は大学に行くって言ってたし、もしかしたらコンクール終わったら引退しちゃうかも。」
「私もそう思ってたんだ。なんか残念だよね。今までずっと一緒に活動してきた先輩が、一気に居なくなるなんて、なんか今の感じからは考えられないよね。」
「うん。本当に。で、美紅、なんでさっきからずっと考え込んだような顔してるのよ。なんか変だよ?美紅、何かあったの?」
「…別に、なんでもないよ。今日ちょっと頑張ったから、疲れちゃった。」
「ふーん。それにしてもさ、―――――――――
それまでで聞くのを止めた。女子高生の会話は基本長い。放課後や部活後の、今から帰るという時の会話はもっと長い。平気で二・三時間、話題を途切れさせることなく語り続けているらしいから、信じられない。女っていうのは、こういう生き物らしい。
やっと鍵が見つかった。手持ち鞄の、奥底に落っこちていた。気がつけば、もう夜七時近い。部活が終わった瞬間から、僕の腹の虫が引っ切りなしに鳴っていたのを忘れていた。僕は、鞄から乱暴に出された教科書や参考書を、また乱暴に鞄に戻し、自転車の前の籠に入れた後、いそいそと学校を後にした。
翌日の部活の時間、そこに織部美紅の姿は無かった。