合宿四日目 -2-
高速道路を走るバスは、周波数の低いエンジン音を発しながら学校への帰路を辿っている。正直言って煩い。でも、その音は多くの人にとって子守唄の代わりになるらしく、実際八割以上の部員が目を閉じて眠っている。
僕だって、ちょっと眠りたい。でも、色々と考えているとどうしたって眠れない。考えていることは、言うまでもない。
合宿をする前に抱いていた混沌とした感情は、もはや微塵も残っていない。抱いているのは、充足感のみ。
勇気が無かった。美紅に、想いを伝えるだけの勇気が。結局、話を切り出したのは美紅の方だった。何か行動を起こしたのも美紅が多かった。何回後悔しても後悔しきれない。
ふと、制服の右ポケットに違和感を覚える。手を突っ込んで引っ張り出してみると、一枚の写真。橋田に貰った、美紅にはぜひとも隠しておかなくてはならない写真。合宿中に処分しようかとも思ったが、せっかくの写真が勿体ない。家の自分の部屋に、内密に保管しておこう。
でもきっとしまったらそれ以後、再び出すことは無いだろう。だって、僕の隣にはいつだって美紅本人が居てくれるから。
楽器の手入れの時間以後、美紅はマシンガンの如く飛んでくる質問に答えるのに忙しそうで、バスの中でさえ休めない様子。その一方僕の方には何も質問に来ない辺り、未だ僕と美紅が付き合っているということを信じていないようだ。
ちょっとだけ、優越感に浸る。そして今、絶対自分の顔はにやけている。誰が何と言おうと、美紅は僕の彼女。他の誰にも渡さない。
ただ、拘束するつもりは毛頭無い。それは、一種の暴力。だから、飽きられたら飽きられたで、僕が悪い。飽きられないように努力するのが、これからの僕に課せられる課題。
バスがサービスエリアに入っていく。どうやら、休憩時間をとるらしい。学校に着くまでの帰路は、順調に行っても四時間はかかる。適度な休憩は、乗っている人にとっても運転手にとっても大切。無理な運航をして急ぐと、反って事故を引き起こしかねない。
皆が疲れているということもあって、20分という、長めの休憩時間が与えられた。サービスエリアで買い食いするのもよし、土産を買うもよし。なのだが、どうも僕はバスから出る気にはなれなかった。皆がこぞって売店に出かけていく中、僕はその姿を見送った。
ちょっと硬いバスの窓をやっとのことでスライドさせると、新鮮な空気が車内を満たす。山の中とは全く違う空気の味。生ぬるくて、ちょっとだけ排気の匂いが混じっている。これはこれで、嫌いじゃない。
「先輩は降りないんですか?」
ボーっと黄昏ていた時に、美紅が後ろから話しかけてきた。
「まあ、ね。美紅も降りないのか?」
「はい。質問攻めにはさすがに疲れたので……」
美紅はちょっと呆れたような顔をした。
「ごめん、僕のせいだね、それ」
「いいえ、そんなこと無いですよ。あれは、お互い様です」
「まあ、あの時は雰囲気に流されたからなぁ……」
「そうですね……」
ちょっと、沈黙。
「美紅」
「先輩」
同時にお互いを呼んで、見事にハモる。そして互いに笑い合う。
「……私達、きっと同じ事考えてますよね?」
「うん、そう思うな」
美紅が、僕の隣の席に来て、座る。
「さっき、寸止めされちゃいましたから」
「そうだな」
そのまま、唇を重ねる。今ここにこの行為を邪魔する人は誰も居ない。互いの舌を絡めあう。
たっぷり、四十秒ほど経って、離れた。
「お疲れ様、美紅」
「先輩こそ、お疲れ様でした」
サラサラした美紅の髪を撫でながら、話す。
「髪、触っても嫌じゃないの?」
「私は、大丈夫です。逆に、触れるのは好きかもしれないです」
「そうなの?」
「はい。触られると、ちょっとだけ気持ちいいです」
「美紅、髪質いいもんなぁ……」
「毎日欠かさずに手入れしてますから」
そういうところ、さすがだと思う。女の子には当然の事なのかもしれない。でも、男の僕にはよく分からない。髪の手入れなんて、ほとんどしたことが無い。
美紅の髪の手触りは本当に気持ちよくて、ちょっとずつ眠くなってきた。
「なんだか眠くなってきたなぁ……」
「私もです……。安心したからだと思いますけど」
「なるほど」
そう思えば、そうかもしれない。美紅が隣にいると、妙に安心する。自分の存在が、そこで認められているような気がする。
とん、と僕の肩に美紅は頭を預けてきた。
「ん?」
「先輩、眠いです」
「じゃあ、寝るといいよ」
「はい、そうします……」
そう言う美紅はすでに眠そうで、気が付いた時には気持ちよさそうに寝息を立てていた。
自分の肩で寝息を立てる美紅を見ていると、こっちの眠気も次第に強くなってきた。まだ10分ある、と思いながら目を閉じると、あっという間に眠りに落ちた。眠りが深いのか、夢は見なかった。
「……輩、先輩!」
誰かが僕を呼んでいる。この声は、美紅。
眠れたおかげで疲れが一気にとれた気がする。
思考が停止していて、何も考えられない。よく眠れたという幸福感だけが朦朧とした意識の中にある。
そっと目を開けると、そこには美紅の顔。ああ、そうか。合宿の帰りのバスの中だった。美紅が寄り添って寝てしまって、つい一緒になって寝てしまったんだった。
「……着いたのか?」
「はい、10分くらい前に着きました。起こしてもなかなか起きなかったので、大変でした」
「申し訳ない……」
「それよりも、はやくバスを降りましょう。楽器の運搬はもう済んでるみたいです」
「そうか……。なんか申し訳ないなぁ」
そう言って、立ち上がる。変な体勢で寝ていたら、妙に背骨が痛い。
「仕方無いですよ。先輩の他にも寝てる人たくさんいましたよ?」
「いや、でも他の人はしっかりと片付けを手伝った訳だし……」
バスから降りて、学校の玄関から階段を上がり、四階の音楽室を目指す。楽器が運び終わっているならば、後は反省会をやって終わり。
やっとのことで音楽室にたどり着く。しかし、妙に音楽室は静まっている。
「あれ、もう皆帰っちゃった?」
「そんなはずないですよ。さっき楽器を運び終わったばかりですし、第一先輩が抜けてたら反省会も出来ないじゃないですか」
「うーん……」
そう言いつつ、音楽室の防音扉に手をかけ、引く。
扉の向こうで待っていたのは、
『やりやがったな!有岡!』
『爆発しろ!有岡!』
『先輩、おめでとうございます!』
『よかったね、美紅』
『お似合いだよ、美紅』
『美紅、末永くお幸せに』
という、僕達を祝福する幾つもの声。
「これは……困ったな」
「そうですね……」
「びっくりしただろ?」
といきなり言うのは、橋田。
「ああ、びっくりした。なんでこんなことを?」
「そりゃあ、あの有岡があの織部美紅とくっついたんだぞ?祝福する他ないだろう?」
「……理由はよく分からないけど、とりあえずありがとう」
「まあ、これをやろうって言い出したのは俺じゃないけどな」
「じゃあ、誰なんだ?」
橋田じゃないとすれば、近藤とか、瀧とか、そこら辺の名前しか思い浮かばない。吉はまだ一年だから、そんなことを言い出せるはずもない。
「聞いて驚くなよ?小野田だ」
「……詩織が?」
「ああ。『せっかくなんだから、祝ってあげましょうよ』だとさ」
「なんだそれ」
「俺に聞かれても分からん。詳しいことは本人に聞くといいさ」
そう言って、橋田は去っていく。
「だとさ、美紅」
「はい。小野田先輩ですか……。私にもよく理由は分かりませんけど、祝ってくれているということは確かじゃないですか?」
「そうだな」
自然と手を繋ぎ、音楽室の中央へ。
その後のことは、敢えて話さないでおこう。
皆が疲れていたため、反省会は手短に行われ、会は閉じられた。同時に、合宿の全ての日程が終わり、部員は皆連れだって帰宅していった。
僕も疲れているし、そのまま帰ろうかと思って玄関を出た時、後ろから腕を引かれた。
「……先輩、帰っちゃうんですか?」
美紅が、泣きそうな目で僕を見つめてくる。
「駄目、かな」
「駄目ってわけじゃないです。でも……」
まだまだ話し足りない。目がそう言っている気がする。
「じゃあ、どっか寄って行こうか」
「はい」
一瞬で、笑顔に変わる。
「じゃあ、ちょっと待ってて。自転車とってくるから」
「わかりました」
僕は、急いで駐輪場に向かう。さて、今からどこに行こう。
それを考えるのは、とても楽しくて。
美紅と一緒なら、どこにでも行ってやろう。そう思ったのだった。