合宿四日目 -1-
合宿最終日の朝。言うまでも無く、僕は河原にいる。美紅の特訓は、再開してから10分も経たないうちに終わった。時間も時間だったし、それよりも美紅が大分疲れてきていた。
本人は大丈夫だと言うけど、あからさまに顔に疲れが見えていて、そこまで頑張る必要は無いのにと思ったから、半強制的に特訓を終わった。そもそも、ああいう練習を特訓と呼んでいいのだろうか。そんなことも考えた。
そんな感じだったから今朝、美紅がここに来ないのは何となく予想がついた。疲れていて当然だろう。自分は教えているだけだったが、美紅はずっと吹いていた。消耗する体力の量は、僕の何倍にもなる。でも、いざ来ないとやっぱり寂しい。いつの間にか、自分の中で美紅は無くてはならない存在になっていて、今の関係が夢なんじゃないかと何度も思ってしまう。
ふと、美紅に告白した二日前の夜を思い出す。どちらかと言えば、告白されたというべきか。結局、自分から話題を切り出すことは出来なかった。今考えても、男として恥ずかしい。ただ、半分無理矢理だったけど、美紅から告白される前に告白することは出来た。でも、美紅からはずるいと言われた。自分でもそれは重々承知している。
そして昨日の夜は、自分の決意を固めた。自分はこの先どうして、将来何を目指すか。
美紅は、将来教師になるという夢をずっと前から持っていて、今もそれは変わっていない。その反面、昨日までの自分は、普通に給料を貰って、それなりに暮らせればいいという、アバウト過ぎる将来しか描けていなかった。適当に描いた夢は、適当な将来にしか結びつかない。昨日の夜考えて感じた。
自分が本当になりたいものは何なのか、自分がしたいことは何なのか、考えてみれば、難しかった。その苦労を、美紅はすでに終えていて、僕なんかよりずっと素晴らしい人間になるだろうと思った。上から目線で言えることでは無いけど。
美紅が来ない河原はつまらない。だから、まだ起床時間には程遠いけど、河原を後にして、自分の部屋へと戻った。 始まったばかりだと思った合宿も、あっという間に終焉を迎えてしまうものだ、と考えた。
朝。目を覚ましたら、いつも起きる時間をとっくに過ぎて、もうすぐ起床時間になろうかという所だった。ここ数日、起床時間の一時間前には起きて、先輩に会うために河原へと足を運ぶのが日課だった。でも、今日はそれが出来ない。先輩も、私が来ないから心配しているのではないかと思ったけど、今から行ったところで間に合うはずもない。朝会ったら謝ろう。
昨日、先輩に指導してもらって、いろいろと分かった。本当は、先輩も教員という仕事に興味があって、出来ることなら目指したいということ。でも、今のままでは学力が足りないからと言って、諦めかけているということ。
私は、本当にもったいないと思う。せっかくあんなに教えることが上手くて、もし教員になったとしたら人気が出来ることは間違いないのに。先輩は自分を過小評価しているようだ。先輩は、企業の上下関係が渦巻く中で働くのは向いてないと思う。それよりも、物事を教えるという職業の方が、よっぽど合っていると感じた。
正直、学力なんて関係ないと思う。教師になる資格があるかないかというのは、情熱の問題が一番大きいのではないか。教師として魅力的なものを持っているのに、その芽を自ら摘んでしまうというのは、あまりにも勿体ない。
今先輩の学力がどの程度であるかという情報は全くない。というよりも、先輩に対しての情報が少なすぎる。付き合い初めて、今日でまだ三日目でしかないから当然か。
なんだか、先輩に告白する前よりも今の方が先輩について考える時間が多くなったように感じる。それは、嘘ではないと思う。だって、もう先輩が私をどう思っているとか、そうことを考えなくてもよくなったのだから。
とにかく、自分に支援できる所があれば、全力でしよう。勿論、自分の勉強も大切だけど、私はまだ間に合う。それよりも、先輩。
隣を見れば、亜由美達はまだ寝ている。起床時間まで、あと10分。私は寝たまま、始まったばかりだと思った合宿も、あっという間に終焉を迎えてしまうものだなぁ、と考えた。
朝の合奏で、事件が起きた。といっても、悪い事件ではない。
美紅の演奏が、上手すぎる。
その異変は、トランペットパート全員が気づいたらしく、美紅に賞賛を浴びせている。昨日の時点で、こんなに上手かっただろうか。少なくとも僕は、そうは思わない。
休憩時間。
「先輩」
いつも通り、美紅が俺を呼んで、駆けてくる。いつも通り、俺は振り向く。
「先輩、どうでしたか?私の演奏」
「……本気で驚いた。昨日の時点ではあんなに上手くなかったから、別人かと思ったよ」
「ふふ、大袈裟ですね」
「いや、本当にその位の違いだったんだよ。僕なんかより上手いんじゃないかな」
「それは無いですよ。それに、あそこまで上手く吹けたのは、全部先輩のおかげですから」
「そうか?美紅の努力があったから―――どういたしまして」
昨日の美紅の言葉を思い出して、咄嗟に言い直す。すると、美紅は笑った。
「先輩、学習しましたね」
「まあね。さすがに昨日の事だし。それに、言われた相手が美紅だったから、忘れたくても忘れられないな」
「先輩……」
頭の上にヤカンを乗せたら、沸騰してしまうんじゃないかというほど、美紅の顔が紅潮した。言った自分も、相当恥ずかしかった。顔が火照っている。
「と、とにかく、先輩のおかげです……」
そう言って、美紅はそそくさと自分の席に戻ってしまった。ちょっと気まずい。
それにしても、美紅の演奏は素晴らしかった。僕の教え方が良かったと言っても、やっぱり美紅自身が努力した結果だろう。それに、大きな悩みが消えたからこそ。努力した結果が実ったのではないか。
そう考えると、人間って分からないなぁと思う。いくら頑張っていても、気分が乗らないと上手く出来ないし、逆に、あまり頑張っていなくても気分が乗っていれば出来ることもある。
今までの美紅はずっと前者のような状態で、スキル自体はとっくに身についていたのに、気分が付いてこなかっただけ。昨日まで出来ていなかったのは、気持ちの整理がまだついていなかったからではないか。
美紅の方を見ると、パート員に囲まれて、何やら忙しそうに会話している。昨日までの美紅と今日の美紅の差が分かる人ならば、何があったのかと思うだろう。美紅がどう切り抜けるのかは知らないけど、まだ僕達が付き合っているということは内緒にしているから、特訓の事は話に出さないだろう。
いつもより三割増しくらいテンションの高い中、合宿最後の合奏は続く。一人が変わっただけで、全員がすごく上手くなったように聞こえる。これが相乗効果というやつなのだろうか。または、美紅が突然上手くなったことに触発されて、皆いつもよりも張り切っているのかもしれない。どちらにせよ、今の部活は皆が一つになって曲を作っているということが実感できる。
合奏は、今までで最高の演奏をして終焉を迎えた。その出来栄えには、顧問も納得だったようだ。
合奏が終われば、もう帰り支度。手始めに、丸三日ほどを過ごした宿舎を掃除する。その後は、楽器もしっかりと掃除する。立つ鳥跡を濁さず(?)、というやつだ。
ホールで楽器の手入れを進めながら、ここ数日間を回想すると、様々なことが一気に押し寄せたという実感が沸いてくる。思い出される事象のほとんどは、美紅の事。一日目の夜にたまたまホールに居て、二日目の朝、たまたま河原に来て、その夜にちょっと喧嘩をした。
今考えれば、あの時美紅が僕に向けて言い放った一言は、僕に美紅の気持ちを気付かせるために言ったのかもしれない。
『私が好きな人は、そんなちっぽけな事で悩んでいるような人じゃありませんから』
その言葉が、異常なほど鮮明に残っている。あの時、嫌われたんじゃないかと悩んだ。もう、美紅が僕の前に姿を表すことは無いと思っていた。
でも、その次の日の朝も、美紅は河原に姿を表して、いつも通りに振る舞ってくれた。それが、とても嬉しかった。
そしてその日の夜、僕は美紅に告白したし、美紅も僕に想いを伝えてくれた。それまでの苦労が、全て報われた。
正直言って、僕は美紅の彼氏になれるようないい人間ではないと思う。それでも美紅は僕を選んでくれたんだから、これからもしっかりと美紅に答えていかなくてはならない。
「何をボーっとしてるんですか?先輩」
つい掃除の手を止めてしまった僕に、美紅は尋ねる。
「いや、この合宿中に、色々な事があったと思ってさ」
「そうですねー……」
美紅も、ここ数日間を回想しているみたいだ。
「色々ありましたけど、やっぱり一番大きいのは先輩と結ばれたということですね」
「僕だって美紅と結ばれたことがこの合宿中で一番大きい成果だと思ってるよ。当然だけどね」
美紅が近くに居てくれるという安心感とともに、美紅の事を想う気持ちが胸中に満ちて、果てしない充実感を得る。今の僕は、こうして美紅が隣に居てくれるだけで僕は十分で、他は何も要らない。
お互いに見つめ合って、ちょっと笑って、また見つめ合う。傍から見たらその光景は異常だけど、今の僕達には普通の事で。ここが合宿の宿舎で、部活のためにここに来て、今は掃除の時間だということは、すっかり頭の隅に追いやられている。そして、ほとんどの部員が自分たちの周りに居るということも、忘れていた。
「先輩……」
「美紅……」
どちらから、という訳でも無い。見つめ合う顔と顔はその間合いを少しずつ詰めていき、重なる。触れる程度のキス。
顔が離れた時、ちょっとだけ喪失感。美紅も、哀しい顔をしている。
もう一度、と思ってもう一度顔を近づけようとしたとき、周りの視線に気が付いた。
『あ……』
美紅との関係はまだ秘密にしておこうと二人で決めていたのに。迂闊だった……。
その後、僕達が質問攻めに遭ったのは言うまでも無い。普段物静かなパートの一年生達も、この手の話には異常なまでに食いついてきた。やっと収まってきたかという頃には、すでに楽器を帰りのバスに積み込む時間になっていて、楽器の掃除が中途半端なまま積み込まなくてはならなかった。これは、学校についてからもう一回掃除をし直さないとまずい。
ひとまず急いで楽器をケースにしまい、バスへと運ぶ。ああ、重い。こういう時、ケースにローラーが付いていればどれだけ嬉しい事か。
そんなことを考えながらも、楽器を運ぶ足取りは案外軽かった。