合宿三日目 -3-
「違う。そこはさっきも言ったけど、もっと表現をつけて」
「はい」
「じゃあ、もう一回同じ所から」
そうして、また美紅は演奏を始める。
時刻は夜7時を少し回ったところ。本来なら合奏をしている時間。先生の提案で夜の合奏が無しになったから、ほとんどの生徒は自分達の部屋に閉じこもり、いろんな遊びをしているみたいだ。このホールに居るのは、パーカッションの一年生一人と僕達だけだ。
もっと多くの生徒が居てもいいと思うが、そこは高校生だ。部活なんかより遊びの方が優先順位が高いらしい。吹奏楽の強豪校と呼ばれる学校と、二流の学校との差は、こんなところにも現れてくるんじゃないかと思う。
練習を初めて三十分位しか経っていないのに、もう成果が出てきたように思う。もともと美紅は頭がいいから、吸収率も人一倍あるのだろう。でも、それが今まで発揮出来ていなかったのはなんでだろうか。
「どうですか、先輩」
ワンフレーズを吹き終えた美紅が聞いてくる。
「うん、悪くないね。じゃあ、ちょっと休憩にしようか」
「わかりました。……ふふ」
不意に美紅が笑う。
「どうした?」
「いえ。やっぱり先輩はパートリーダーだなーって思ったんです」
「なんで?」
「だって、しっかりと休憩時間をとってくれるじゃないですか」
「いや……それは誰でもやることじゃないか?」
誰かに何かを教える時には基本的なことだ。適度な休憩をとりながらでないと、吸収率がどんどん悪くなってしまう。一時間に15分くらいの休憩がもっとも効率がいいと言われているけれど、休憩はもうちょっと短くてもいいと思う。10分とか。
「そんなことないです。教える事に慣れている人でないと、休憩なんて入れませんよ。教える事に慣れてない人って、どうしても急ぐじゃないですか」
「確かにそうか。でも、パーリーダーなんて押し付けられたものだし、好きでやってるわけじゃないんだけどなぁ」
「でも、教えるの上手いですし、そういうの向いてると思いますよ。素人考えですけどね」
「そう言ってもらえると有難いよ。でも、進路を今さら教育に変える訳にもいかないしなぁ」
「いや、まだ遅くないですよ。頑張れば出来ますって」
「うーん……。そもそも、本当にこういうことが自分に向いてるのかなぁ。確かに教えてるときはちょっと楽しかったりはするけど」
「それって教えることに向いてるって証拠じゃないですか」
「そうなの?」
「そうですよ。自分が面白いと思う物を仕事に出来るって、すばらしい事じゃないですか」
僕は考えてみる。もし僕が将来教師になったとして、本当に子供達に教えられるのだろうか。今相手にしているのは、もともと交流があって、ある程度理解しあえる同年代の人達。でも、教師になるということは、自分よりも相当低い年の子供に教えるということ。
「でも僕ってコミュニケーション能力に欠けてるからなぁ……」
どんな職業でもそうだが、特に教職員という職業はコミュニケーション能力が無いと生きていけない。事務の仕事を処理するのとは訳が違う。
「そんなの、どうにでもなりますって」
「そうなのかなあ……」
美紅と語り合えてるという時点で、ある程度のコミュニケーション能力は付いているのだと思う。でも、そこまで優れているという訳では……
「うちの学校の先生を思い出してみてください。コミュニケーション能力が高い先生ばかりでは無いですよ?」
「そういえば、そうか。うちの顧問とか、酷いもんだ」
連絡事項もしっかりと伝えてくれないし、弁舌だって爽やかとは言えない。時間にはルーズだし。でも、言うことだけは一人前っていうか。
「それを考えてみれば、先輩はとてもいい人ですよ。約束は破らないですし」
「まあ、美紅との約束なんて破る訳にはいかないしね。でも、他の人との約束であっても、破りたくはないね」
約束を破る人間は、大抵いい人間ではない、というのは定説である。約束を破る人には信用が持てないから、仕事では重大なプロジェクトは任せられない。仕事で出世したかったら、まずはそういう所を直すべきだ。
「ですから、先輩。そういう道も考えてみたらどうですか?」
教員、つまり公務員の給料は、半端な額ではない。並の会社員なんかと比べたら、雲泥の差だ。もちろん高給を取るのは夢だけど、お金だけを目的に仕事を選ぶのは良くない。
「美紅、話が戻るけど、教師ってどんな職業だと思う?」
「そうですね……」
美紅は難しそうな顔をした後、答えた。
「こんな言い方もどうかとは思いますが、子供達に夢と希望を与えるきっかけを作ってあげる職業、だと思います」
「夢と希望か……」
自分が教えたことが役立って、いろんなことに興味をもって、それぞれの道を歩んでいく。そんなことが出来るのは教師という仕事に限られるから、その点では特別な職業だと思う。ただ、利害関係を考えると、教師が良いという考え方も傾いてくる。
たとえば虐め。クラスには、違った考え方の子供達も多くいて、考え方が違ったりすると、どうしても対抗する。そして、弱い方が一方的に責められる。どこかの詩人じゃないけど、みんな違って、みんないいのだ。人の性格は十人十色だし、どれが合っていて、どれが間違っているというものは無い。親が、子供が小さい時からそういうことを教えていれば、虐めなんて自然と無くなってしまうものだけど、現状、うまくいっていない。
そこから派生してくる問題もある。モンスターペアレント。過保護すぎる親が、子供が虐められたのは学校の所為だと言って、賠償を要求してくる。それはおかしいということに、最近の親は気づかない。なぜなら、その親を育てた親が、適当な教育を施したからに違いないからだ。
そんな問題に直面しながらも、僕は教育現場に立つことが出来るのか。自分に問う。
僕個人の意見としては、虐めやモンスターペアレントなんていう問題はそこまで気にしていない。というのも、実感したことが無いからだ。虐めを受けている自分は想像しやすいものだけど、モンスターペアレントなんて教師になってみないと分からない。自分が正しいと思う教育を施すのが教師の本来の役目であって、しつけ云々に関しては全く触れないのが原則だ。だから、『うちの子のお箸の持ち方がおかしい、なんで直させないのか』と言われるのは本来お門違いだ。
そんな教育現場での問題は確かに怖いけど、それよりも自分が子供に対して何かを教えるという事の方が気持ちの面で大きい。そんなことを考えている時点で、僕は教員という仕事を望んでいるのかもしれない。
「教員かぁ……」
僕はもう一度自分に問う。少なくとも、嫌ではない。
「どうですか?」
「……うん。そういう職業は好きだと思う。なれるものならなってみたいとも思うよ」
「本当ですか」
美紅の顔がちょっとだけ緩む。
「うん。自分が教えた事が子供達の将来を作っていくって、素晴らしいことだと思う」
「そうですね。私もそう思います」
「でも、それが実現できるかどうかなんて、今の時点では分からないけどな」
「先輩なら大丈夫です。私が保証します」
「美紅に保障されても結局は僕が頑張らないといけないんだけどね」
「先輩、今はそういうことを言う場面じゃないです。『そうか、ありがとう』って言う場面ですよ」
「……そうなのか?」
「そうなんです」
そう言って美紅は頬を膨らませる。こういう所が可愛いんだよなぁ。
今まで自分の進路なんて、適当にしか考えてなくて、今みたいにしっかりと考えたのは初めてだ。美紅がこういう話をしてくれなかったら、きっとこのまま目標も決めないまま適当に過ごしていただろう。機会を与えてくれた美紅には、感謝しなくてはいけない。
ふと、さっきまで何をしていたかを思い出す。そうだ。美紅の特訓をしていて、今はその休憩時間だ。話に熱中しすぎて、時間を忘れてしまう所だった。
「美紅、その話はこれで終わり。本来の目的はなんだったっけ?」
「……完全に忘れてました。特訓、でした」
「そうだね。さて、十分に休憩したことだし、練習再開しようか」
「はい。でも、最後に一つだけいいですか?」
「うん」
「先輩は、教師になりますか?」
「……うん。なるよ。今から決めても本当は遅いのかもしれないけど、やれるだけやってみようと思ってる」
「そうですか。応援します」
「ありがとう」
何故いまそれを質問してきたのかは分からないけど、自分の中で意思が固まった。きっと、今からでも遅くはないだろう。でも、今は精一杯部活動を楽しもうと思う。でないと、きっと引退してから勉強を始めた時に、部活が恋しくなって集中できなくなるから。というのは、言い訳だろうか。
休憩もほどほどに、僕達は練習を再開した。といっても、もう練習を始めてから二時間が過ぎている。時間もだいぶ遅い。合宿の疲れが出ているのか、それともまだ体調が万全ではないのか。どちらにしても、今日はあまり無理をしたくない。明日はもう帰るけど、その前に合奏が入っている。今日の夜やらなかった分、明日の午前中の合奏は厳しいものになるかもしれない。そうすると、美紅を教えるのも大事だけど、自分の練習もしなくてはいけなくて。でも、昼間のフリータイムに美紅と会うという約束を破ってしまったから、その分の埋め合わせをしてあげなくてはいけない。
練習を再開して三十分。僕は、美紅に問う。
「なあ美紅、疲れてないか?」
「私は大丈夫です。いつももっと長い時間練習してるので」
「そうか……。でも、今日はもう終わりにしないか?」
「どうしてですか?あ、もしかして先輩、まだ体調が万全じゃなかったんですか?」
「それは大丈夫だと思うんだけど……。それよりも、明日の合奏に備えたいってこと。今日の夜やらなかった分、きっと先生は気合い入れてくるだろうし」
「まあ、そうですね。じゃあ、あと一か所だけ教えてもらっていいですか?」
「ああ、勿論」
そう言って、美紅は楽譜を指差す。指が止まったのは、僕が苦戦しているペダルトーンの嵐の部分とほぼかぶっている三小節間。
「ここです。ここのリズムがうまく取れないので、教えてください」
「これか……、うん。このリズムは―――」
そこで、ふと思う。美紅は十何年もピアノを習っているから、僕なんかよりもずっと楽譜を読み慣れているはず。リズムだって、僕よりも分かるはず。なのに僕に聞いてくるあたり、なんでだろうと思う。
これが女心なんだということを理解するのに、あと一年も掛かる訳だけど、それはまた別の話。