普通の日常 その1
五月。うちの部活に、新たに15人の新入部員がやってきて一ヶ月が経とうとしている。
少し前まで不安そうな顔をしていた新入部員も、今は各パートの先輩と馴染んで、とても明るい雰囲気の部活になっている。
僕が所属する低音パートにも、今年、三人の仲間が増えて、総員五名になった。最初はどうやって話を切り出すのかも考えないと出来ないくらい、緊張していた。でも、そのうちに懐いてきてくれて、他愛のない愛想話も出来るようになった。結局は僕が人見知りだったっていうオチなのかもしれないけど。
低音パートには、二年生がいない。他のパートにはたくさんいるのに、低音にだけいない。なんでかっていうと、楽器が無かったから。
崎ヶ原第二高校は、創立して90年以上経っているが、吹奏楽部が出来てからは、まだ8年目だ。かつてこの高校は女子高で、吹奏楽部は無かった。前の校舎が古くなって、建て替えた時に、同時に男女共学の高校にして、そのときに吹奏楽部が誕生したらしい。
だから、楽器が少ない。本当は、15人も受け入れられるほど楽器がないのが実情だけど、今後の発展を考えて、この人数を受け入れたのだろう。今まで一人で占拠してきたチューバも、後輩が入ってきてからは主に後輩が吹いている。後輩の吉は、吹奏楽未経験者で、まだうまく音を出せないでいる。だから、吉がすこしでも早く上達してくれるようにと、自分が吹きたいのも我慢して、吉に吹かせてあげている。先輩の優しさってことで。
でも、吉は音楽にまったく触れていなかったせいか、やってもあまりうまくなったように感じない。かといって、練習をサボっているかと言ったら、逆に僕よりも集中して練習している。だから、あまりきつくは言えないのだ。
いつものように、吉が練習している間、僕はやることが無い。だからと言って、遊ぶわけにもいかない。なにせ自分はパートリーダーである。時々、吉から質問が来ることがあるけど、そんなに難しいことじゃない。音がうまく出ないといった類の質問が大半だから、うまく説明してやれば、それで終わりだ。
暇だから、ここで低音パートのメンバー紹介を軽くしておこうと思う。
まず、パートリーダー兼チューバ担当、有岡裕也。
中学一年から吹奏楽を始めて、ずっとチューバを吹いている。だから、すこしだけ肺活量に自信がある。さすがに運動部には勝てない。でも勝ってみたい。男のくせにピアノが弾けて、習い始めて10年が経つ。中学時代は専ら伴奏専門で、歌いたかったのに、本番で歌った記憶は一回も無い。最近、やっと自分の思うように音がでてきて、ちょっと得意げになっている(と自分で自覚している)。
そして、さっきから横で必死にチューバを練習している一年の吉卓三。
中学の頃は将棋部で、大会で何回も良い賞を取ったんだとか。なんで急に吹奏楽部に来たのかは不明。だから、いずれ聞いてみるつもりでいる。吉はいろいろ面白いところがあって、椅子の上に正座で座ってしまったりもする。根っからの純日本人なんだろうな。家でも一人で畳の部屋に座っている姿がなんか目に浮かぶ。
次に、バクスラリネット担当、一年生の鈴木みなみ。彼女は中学時代陸上部だったが、途中でやめて、帰宅部になった。彼女も個人レッスンでピアノを習っていて、クラシックは結構知っているらしい。本当はクラリネット希望だったが、残念ながらバスクラリネットに降格(?)してしまった。でも、彼女はいつも、すばらしい集中力で練習をしている。だから、僕なんて、あっという間に抜かれてしまいそうな気がする。
もう一人の一年生、コントラバス担当、小笠原希美子。彼女は小さい頃からバイオリンを習っていて、今現在も継続中。だから弦楽器の扱いは慣れたものだが、バイオリンとコントラバスはいろいろ違うみたいで、特に指の感覚が難しいらしい。中学時代は陸上部だったらしい。その細い体系とは裏腹に、すばらしい筋力を持っているのだろう。それに、彼女は特進クラスに所属しているから、その頭の良さは折り紙付きなんだろうな。まさに文武両道っていう言葉がぴったり当てはまるのかもしれない。
最後に、僕と同じく三年で、コントラバス担当の小野田詩織。
彼女には今までいろいろ迷惑ばかりかけてきて、そのたびに叱られた。本当なら彼女がパートリーダーになるべきなのに、いつの間にか押し付けられてしまった。皆を引っ張っていく力は、きっとこの部活内ではトップだろうと思う。音楽に対する知識も僕よりずっとあって、先生がいないときの合奏などをたまにやったりする。他の部員からは絶大な人気を受けているらしいが、彼女とは腐れ縁なので、なんとも思わない。
とまあ、こんな感じのメンバーで、低音は成り立っている。他のパートも紹介したいところだが、面倒なので割愛させてもらおうか。
そんなことを一人考えながら、吉の音を聞いていた。うーむ・・・以前と比べても全然発展がないな。ちょっと言っておくか。
「なあ、吉」
「はい、先輩。」
「お前、今どんな気持ちで吹いてたんだ?」
「どんな気持ちっていうと・・・・・・。」
吉はそこで黙り込んでしまった。やっぱりそうだ。
「吹奏楽っていうのは、ただ音が出て、楽器が吹けるだけじゃ駄目なんだ。もっとも必要なものは気持ちなんだよ。楽器を、こんな音で鳴らしてやるっていう意志というか心構えが必要なんだ。吉にはそれがないから、いつまで経ってもいい音がならないんじゃないのか?」
「意志・・・ですか。」
「そうだ。意志、だ。案外難しいけどな。」
「先輩は、どんな気持ちでチューバを吹いてるんですか?」
「俺はな、このチューバを恋人だと思って、すっごく丁寧に吹いてる。丁寧っていっても、小さな音で吹くっていう意味じゃなくて、姿勢だとか、ブレスの仕方だとか、そういうことをいちいち気をつけながら吹くってことだ。」
「なるほど。だから先輩の音は繊細な音がするんですね。」
「そうだ。・・・っていうか、俺の音、そんなに細い音してるか?」
だとしたら大失態だ。一本しかないチューバが、合奏を支えられなかったら、それで終わりだ。なにも結果がでない。
「・・・どう思う、詩織。俺の音って、そんなに細い?」
「なんで私に振るのよ。第一、弦バスの方がチューバより音小さいんだから、こっちから聞いたらどんな音でも合奏を支えてるように聞こえるわよ。でも、一つだけ言うなら、吉君が言ってる繊細っていうのは、細かいところも注意できてるって意味で言ってるんじゃないの?」
「そういうことなのか?吉。」
「はい、そういうことです。すいません、なんか、先輩の悪口言ったみたいになってしまって・・・。」
「いやいや、そこはお前が謝る場面じゃないよ。意味を履き違えた俺が悪かった。すまん。日本語ってやっぱり難しいな。」
「ですね。僕もそう思うときは何回もあります。」
「まあそれでも、裕也に比べたら、吉君の方が数倍しっかりとした日本語使っているけどね。」
うう・・・。それを言われると何も言えない。俺は確かに頭が悪いし、無頓着だし、面倒臭がり屋だけど、それでも、人並みだと思っている・・・つもり。
そんなことで言い争っていたら、鈴木さんと小笠原さんに笑われていた。なんか情けない。僕は急に謝りたくなって、
「すまないな。こんなパートリーダーで。」
と言っておいた。無論これを本気で言っていると思っている人は、少なくとも低音パートにはいないと思った。