合宿三日目 -2-
「よう、有岡」
宿舎に帰ると、橋田が既に起きていた。
「橋田か。早いな」
「まあな。お前があんな朝早くに部屋を出ていくのが気になったから起きたんだよ。その様子だと、昨日何かあったんじゃないか?」
昨日の美紅の件といい、相変わらず鋭い奴だ。橋田には既に美紅の事を知られているから、もう何も隠す必要はない。
「ああ。昨日の夜に美紅に告白した」
「だろうと思ったよ。お前があの時間から動くなんて、その位のことしかあり得ないと思ったからな」
「何だよ。それじゃあ、普段は僕が動かないみたいな言い分じゃないか」
「だって、そうだろ?お前の場合、面倒な事は大体後回しだ。とりあえず好きなことをやる。昨日の写真だって、織部美紅だったからあんなに早く取りに来たんだろう」
橋田には、僕のすべてが見えているようで、何を言っても勝てない。
「ご名答だ。でも、美紅と付き合い始めてから分かったよ。面倒なことでも、やらなくちゃならない時にはやるしかないってね。まあ、付き合い始めてまだ一日も経ってないけど」
本当に、そう思う。面倒なことでもやってあげれば、誰かに感謝される。感謝されるというのは、なかなかいい物だ。
「まあ、そう分かったなら何も言わないさ。とりあえず、朝食にでも行くか?」
時計を見れば、とっくに朝食の時間になっている。
「そうだな。というか、遅刻だ」
「たまには遅刻も悪くないだろう?授業の遅刻はいかんがな」
お前が言えることか、と突っ込みたくなったけど、話が長くなりそうだからやめた。朝食の後に合奏で、午後は昨日と同じフリータイムだ。
でも、今日は美紅との待ち合わせがあるから、暑くても全く苦にならない。
そんなことを考えながら、食堂へと向かった。
食堂へ行く通路から、ずっと生徒が並んでいる。
「……どういうことだ?食堂へ入れないのかな」
「なんだ有岡、お前知らなかったのか?今日の朝食はバイキング方式だって」
「知らない。いつそんなことを言ってたよ」
「お前、よく日程表見たか?今日の朝食はバイキング方式だから、一列に並べって書いてあったぞ。パートリーダーなのにお前は知らないのか」
「確かに僕はパートリーダーだけどさ、この合宿のプリントは全部詩織が持ってるからなぁ。日程だけは移したけど、そこまでは見てなかった」
「お前、いろいろ失くすからな。小野田の考えは正解だな」
「お前にそんなこと言われるなんて、僕も落ちたものだな……」
「まあ、こういうことに関してだけは俺はしっかりチェックするからな」
「食べ物がかかってるからか?」
「まあ、そうだな」
そんな、他愛もない話をずっとしながら、結局二十分くらい待ち呆けた。
そして、合奏の時間。
「おはようございます、先輩。って、二回目ですね」
「美紅か。おはよう。そうだね、二回目だ。でも、それはちょと内密にしておかないか?」
「なんでですか?」
「いや、だってさ、なんかバレそうじゃないか」
そう言っただけで美紅は完全に理解したらしく、
「別に、私はバレても構いませんよ。逆に、うれしいです」
「どういうこと?」
すると美紅は満面の笑顔で、
「だって、先輩と私が付き合ってるってことをアピール出来るじゃないですか。私としては、先輩は誰にも渡しませんよ、って主張できますから」
「……美紅って意外と積極的な性格だったんだね」
「いえ、以前までの私はこんなに積極的じゃありませんでした。でも、昨日の出来事があってから、私も変わらないとって思ったんです」
「なるほど。僕も昨日の事があってから、同じようなことを考えたんだ。何かをするのが嫌だからやらないとか、好きだからやるとかじゃなくて、自分にとってどれだけプラスになるのかを考えて行動しないといけないなって」
やっぱり、美紅と付き合うことになったからには単純なことで悲しくなってほしくはない。僕の働きかけで阻止出来るんだったら、やらないといけない。損得勘定をうまくして、これからやっていかなくてはならない。
「じゃあ期待してますよ、先輩」
「うん」
今自分がどれだけ出来るかもわからないし、今後どれだけ出来るかもまったく分からない。分からないからこそやってみないと、永遠に次のステップには進めない。人生ってそういうものだと思う。
「あ、先輩」
「ん?」
「あの、今日の夜なんですけど、……特訓してくれませんか?」
「特訓?トランペットの?」
「はい、そうです。何か、先輩に教えてもらえるんだったら、私何でも出来そうな気がするんです。だから、お願いします」
「うん、分かった。美紅の頼みだし、断る理由もないよ。それに、頼られるのも嫌いじゃないしね」
「ありがとうございます。じゃあ、詳しい事はまた後でお願いします。合奏始まっちゃうので」
そう言って、美紅は自分のポジションへと戻っていく。美紅からあんな風に頼られたのは勿論初めてだ。だから、こっちも気合を入れて教えないと。でも、ひとまずは今からの合奏に集中することにする。
合奏は、思いのほかスムーズに進んだ。昨日一応練習をしたおかげで、ペダルトーンの嵐も何とか攻略出来て、随分マシな演奏になった。
そして、一番驚いたのは美紅の上達ぶり。昨日まではあんなに躓きながら吹いていたのに、今日はまったくの別人のようにすらすらと吹きこなしている。今までの美紅とは全く違って、正直格好いい。
たぶん美紅は、ずっと悩んでいたから伸び悩んでいたのだろう。誰しも、深刻な悩みを抱えるほど、物事に対する集中力が薄れてしまう。美紅もきっとそうだろう。
一時休憩時間。久しぶりに集中して演奏したからかなり疲れた。若干体がだるい。
自分でも面白いくらいに吹けたから、つい気合が入ってしまった。まだ夜も合奏があるのに、きっとこれだと夜まで持たないだろう。
「お疲れ様です、先輩」
「ああ、美紅。お疲れ様」
「大丈夫ですか?先輩」
「え?僕、何か変かな」
「はい。なんか先輩、顔が青白いですよ?」
「え?」
いつも使っている鏡で自分の顔を見てみる。いつもの自分の顔と比較してみると、確かにちょっと青白い。
「先輩、ちょっと休んでいたほうがいいんじゃないですか?」
「……そうだな。まだ今日の夜もあるし、先生に言って少し休ませてもらうことにするよ」
「そうした方がいいと思いますよ」
自分の額に手をあててみる。少し熱いかもしれない。少し無理をしすぎたようだ。
「じゃあ、先生に言ってくる」
「あ、それなら私が言っておきますよ」
「いや、それは悪いし……」
「いいんですよ」
「……分かった」
美紅に促されて、僕は一人自分の部屋を目指した。
部屋に戻っても、誰も居ない。まあ、当然のことだけど。
自分が休んでしまっていることの重大さを再確認する。低音が居ない合奏なんて本当は駄目で、低音があってこその吹奏楽だし、音楽だ。自分の事は自分が一番理解していないといけないのに、熱中しすぎて全く気をつけられなかった。反省しないと。
棚に戻した布団を敷きなおす。布団に転がっても、一向に眠気は来ない。
「暇だなぁ」
と一人で呟いてみたところで、返事をしてくれる人はどこにもいない。
「まあ、一応病人だし大人しく寝ていよう」
目を閉じる。自然と浮かんでくるのは美紅の顔。自分の彼女に心配をかけてしまうなんて、男として失格だ。これまで以上にしっかりしないといけないと決心したばかりなのに、もうその決心が嘘になってしまっている。
申し訳ないと思いながらも、こんな時に来てくれたらと淡い期待を抱いていると、自然と眠気が襲ってきた。そのまま僕は、眠りについた。
目を覚ました時には、空は少しずつ赤に染まりつつあった。寝る時には全く眠気が来なかったのに、一回寝てしまうとかなりの時間寝てしまったようだ。
寝ている間、また夢を見た。また、美紅の夢だった。でも、今度の夢は悲しい夢ではなかった。美紅が教師になって、生徒に音楽を教えている姿を見た。昨日見た夢ではなくて、今見た夢が正夢になってくれたら本当に嬉しい。
夢は脳の悪戯だなんていうけど、実際のところは知らない。夢の内容がそのまま現実に起こってしまうこともあるから、実は人生はすべて決められているんじゃないかとも思う。その決められた人生を、夢を通してちょっとだけ見せてくれる。
ということは、結局人は決められたレールの上を一直線に歩き続けているだけなんだろうか。そんなのつまらない。自分の人生は、自分で決めたい。いくらそれが神様の決定だとしてもだ。
黄昏時だからだろうか。寝る前までの身体のだるさは消えたけど、妙に気分が暗い。この時間、僕以外の皆は休憩時間を終えて、また合奏に入っているはずだ。そろそろ僕も行かなくては。いつまでも低音のいない合奏を続けるわけにはいかない。
胸中を支配する虚無感をなんとか拭って、布団から起き上がる。額に乗っているタオルを取ると、まだ僅かながら湿っていた。何時間も寝ていたから、普通だったら乾いてしまう。もしかして、美紅が来てくれたのか?
寝る前に淡い期待を抱いてしまったから、思考回路がそっちに走ってしまう。まあ、そんなことがあれば、きっと起きているだろうけど。
流石にこの時期の昼間に寝ていると、びっしょりと汗をかいて気持ち悪い。すぐに着替えないと風邪をひきかねない。とりあえず着ていた服を脱ぎ、新しい服に着替える。そして、起きたばかりで少しフラフラしながらも、ホールに向かった。
結局、ホールに着いて合奏に参加したけど頭が回らず、ミスを連発してしまった。その度に先生に注意されたが、それよりも僕は美紅に心配をかけてしまったことの方が頭に回って、二度怒られてしまうのだった。
今日の気温は昨日の比では無いほど高く、休憩で遊びすぎた生徒が熱中症になり、先生の方も半分熱中症の症状が出たため、これはまずいと夜の合奏は中止になった。今年は猛暑だから、なかなかスケジュール通りに合宿が進まないけど、仕方が無い。これでもそれなりに効果は出ているから、意味がないということは無い。
夜の合奏がないということは、夕食後からは全てフリーの時間になる。美紅が特訓して欲しいと言っていたから、ちょうどいい。わざわざ自主練をしに来る生徒なんて、まずいないだろう。美紅にそのことを話したら、同じことを考えていたようだった。さっき心配をかけてしまった分、今日の夜で取り返そう。
そう思う僕の足取りは、自然と軽くなっていた。