合宿三日目 -1-
朝五時三十分。僕は昨日と同じように、小川に居る。起床時間まではあと一時間半あって、本当ならばもっと眠っているところだが、どうも昨日は興奮してしまって眠れなかった。
僕は、不器用ながらも美紅に告白をして、美紅からも告白されて、僕達の思いは繋がった。今でも夢なんじゃないかと思うほど僕の心は満たされていて、本当に幸せ。もし夢ならば、醒めないで欲しい。でも、その可能性は無い。
なぜなら、僕は寝ている間に夢を見た。でもそれは、僕にとってすごく悲しくて、残酷な夢。正夢というものを僕はたまに体験するけど、どうかこの夢だけは正夢になりませんようにと願わずにはいられない。僕と美紅が、永遠の別れをすることになる夢。美紅が、事故で死んでしまう夢。
人の想いに反して、人の身体というのは酷く脆い。簡単なことですぐに傷ついてしまう。どれだけ願っても、動かなくなってしまったものは元には戻らない。これが自然の摂理。今までは全く考えなかったけど、その摂理は万物に当てはまるもので、それは勿論僕や美紅にも当てはまる。
ずっと一緒に居たいと思っていても、どちらかがちょっとでも平均台を踏み外したら、その願いは谷底へと消え去る。
もしそんなことになったらと考えると、急に不安になってくる。今まではずっと一人の世界を歩いてきた。でも、今からは美紅が居る。誰かが傍に居るだけで、自分の立場というのは大きく変わってくる。だからこそいろんな事に注意を払わなくてはならない。
そうやって一人で虚無感に浸っている時、背後から昨日と同じような足音が聞こえた。もうこの足音に恐怖感を覚える事は無く、逆に嬉しいほどだ。後ろを振り向けば、やっぱりそこには美紅の姿。
「おはよう、美紅」
「おはようございます、先輩」
美紅は一礼するなり、すぐに僕の左隣に座り、川の流れに足を浸した。今日も機嫌がよさそうだ。
「美紅、起きるの早かったね」
「はい。昨日は寝るのも早かったので」
「早かったって、ホールを出たのは十一時過ぎだよ?そこまで早くもないと思うんだけど……」
普通の男子高校生である僕にとって夜更かしするのは当たり前の事だけど、女子高校生もそうなのだろうか。
「あの……。普段は寝る前、考え事ばかりしてたので、眠るに眠れなかったんです」
「考え事って……ああ、そうか。ごめん」
そこまで言ってやっと気づいた。美紅はずっと僕のことで迷ってくれていて、その迷いは昨日の夜で解決した。だから、昨日美紅はよく眠れたのだ。
「謝る必要は無いですよ。……でも、昨日は嬉しかったです。先輩の気持ち、聞けたので」
「それは僕だって同じだよ。昨日の夜は、今まで生きてきた人生の中で間違いなく一番嬉しかった時だ」
でなければ、僕はこんなに早い時間に起きている訳が無い。基本的に僕は遅刻寸前まで寝ているタイプだから。でも、それもこれからは努力して変えていかなくてはならない。
「先輩はよく眠れましたか?ここに居るということは随分と早起きみたいですけど」
「うん。よく眠れたと言えば確かによく眠れた。今までの悩みが全部解決したし。でも、昨日に限って嫌な夢を見たよ。だから美紅が来る前まではまた悩んでた」
美紅に真実を伝える。もう、美紅に隠し事をする理由なんか、何一つ無いのだから。
「夢、ですか。それは、悩んでしまうほど嫌な夢だったんですか?」
「……うん。でも、その夢を見るのが一日早かったら、昨日の夜みたいな事は起こらなかったかもしれない」
「それって……私に関係した夢ですか?」
「そうだね。美紅に関係する夢だ」
美紅は少し考えるような素振りを見せた後、
「もしよかったらでいいんですけど、その夢の内容、教えて貰えませんか」
「どうして?」
「だって、自分の好きな人が悩んでるんですよ?一緒になって痛みを分かち合ってあげるのが恋人の役目じゃないですか」
「美紅……」
僕が美紅のことを想う以上に、美紅は僕のことを考えてくれているみたいで、それがとても嬉しくて、つい甘えたくなってしまう。本当は駄目なんだろうな、こういう事。
「甘えたい時に甘えればいいんですよ、先輩。その代わり、私も甘えたい時に思いっきり甘えますから」
そう、屈託の無い笑顔で僕に言う。本当に、美紅は優しい。
「分かった。僕の夢の話なんかでいいなら、聞いて欲しい。朝早くからこういう話するのもよくないとは思うんだけどね」
「大丈夫ですよ。私は、先輩のすべてを受け入れますから」
「ありがとう」
そう言って、僕は美紅に昨日見た夢の事を全て話した。
「私が死んでしまう夢、ですか」
美紅は複雑な顔をして言う。
「いくら自分のこととはいえ、未来の事なんて分かりませんね」
「それはそうだよ。未来が読めたら超能力者じゃないか」
「でも、事故死してしまう夢を見たとすると、私は普段からもっと事故に気をつけないといけないですね」
「うん。それでも事故は起きてしまうんだけど……」
僕は心配になる。確率はほぼ零に近いはずなのに、昨日見た夢が本当に正夢になってしまったらどうしようか。僕はもう立ち直れなくなるのではないか。
「何で弱気になってるんですか、先輩。大丈夫ですよ」
「でも……」
美紅は僕にとって本当に大切な人だから、失いたくはない。
「先輩は、そんなに私の事を信頼してないんですか?」
「いや、そうじゃなくてさ。……絶対に美紅の傍から離れたくないんだ。だって、美紅は僕の初めての恋人だから」
そう自分で言っておきながら、本気で恥ずかしくなってきた。顔が熱い。
「先輩……。急にそんなこと言われたら、驚くじゃないですか」
言われた美紅も恥ずかしいのだろう。顔が赤くなっているのが分かる。
「ごめん……。でも、美紅の事を信頼してるって証明するには、こういうしかないと思って」
少し、沈黙の時間が流れる。唐突に口を突いて出た言葉は紛れもなく本当の事だけど、お互いの気持を確認できたのはつい昨晩のこと。事実上恋人と呼んでもおかしくはないが、美紅にはその実感が湧いていなかったのだろう。
「先輩」
それまで向こうを向いていた美紅が僕を呼ぶ。左に振り向いてみると、至近距離に美紅の顔。その顔は真剣で、僕が振り向いた瞬間、さらに間合いを詰めてきた。
「ちょ、美紅……」
言うのが遅いか、美紅はいきなり僕に唇を重ねてきた。一瞬のうちに思考が飛んで、何がなんだか分からなくなる。
二・三秒ほど経って、やっと思考が追いついた。
美紅が、僕にキスをしてきた。ほぼ零距離にある美紅の顔は目をつぶっていて、必死に僕の唇を貪ってくる。
勿論僕にとってキスは初体験であり、その相手は美紅だ。その事が何よりも嬉しくて、僕は美紅を抱きしめた。すると、美紅はさらに強く唇を吸ってきた。僕も負けじと吸い返す。
長いキスは三十秒ほど続いて、苦しくなって唇を離した。お互いの顔を見合わせる。その顔が本当に愛おしくなって、さらに強く抱く。美紅に対する愛情だけが、僕の胸中を満たす。気がつくと、さっきまであった不安はすっかり消えていた。
「ありがとう、美紅」
「いいえ、当然のことです。だって、先輩は私にとって初めて出来た恋人ですから」
「美紅……」
このこそばゆい感覚を、さっき美紅は体験したのだろう。
「さっきのお返しです。もう、私の事を信頼してないなんて言わせませんから」
「ああ、もう絶対に言わないよ」
というか、最初からそんなことは微塵にも思っていないわけで。
「私だって、先輩と会えなくなるなんて絶対に嫌です。何があっても生き残りますから」
「うん」
僕達はそのまま、結構な時間抱き合ったままでいた。
* * * * * *
「そういえば先輩、さっきのキスは、ファーストキスだったんですか?」
「ああ。初めてが美紅で、本当に良かったと思うよ」
「そうですか。それなら、嬉しいです。私も初めてでしたから、誰かとキスするの」
何故だか分からないけど、今の美紅の一言で、美紅が何を欲しがっているのかが分かった。だから、
「美紅」
「はい……ん」
美紅に急にキスをする。でも、それはさっきと違うキス。美紅もそれを望んでいたらしく、自然とお互いの舌が触れ合い、絡み合い、水音を立てる。
ちょっと前まで、キスがこんなにも心地よいものだとは思いもしなかった。この心地よさは何にも変えがたいもので、僕はまた美紅を抱き締めた。
さっきより短く、二十秒くらいのディープキス。でも快感はさっきの数倍あった。
「……大人のキス、しちゃいましたね」
「うん……。嫌じゃなかった?」
「はい。私もしてみたかったので……」
「僕達、朝から何してるんだろうね」
「ですね。私は今日一日、多分駄目だと思います」
「それは僕もだよ」
時計を見れば、六時四十五分。起床時間まで、あと十五分しかない。
「とりあえず、戻ろうか」
「そうですね」
そう言って、靴を履きなおした。そして、自然と左手が美紅の右手へ伸びる。
「手を繋ぐの、初めてですね」
「そういえば、そうだっけ」
「なんか、順序が違いますね」
「それは気にしないことにしよう」
そう言って、僕は美紅の手を引く。美紅はしっかりと付いてくる。
宿舎へと戻る帰り道に、午後の自由時間に会う約束を取り付けて、それぞれの部屋へと戻った。