合宿二日目 -6-
美紅はピアノ椅子から立ち上がると、僕の方へ向かってきて、僕の隣に座った。恐らく僕が堪忍したのが分かったのだろう。それだけで凄く緊張する。
僕は正面をボーっと眺めながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「気になるよ。それは考え過ぎて合奏に力が入らなくなるくらいに」
美紅は黙って聞いている。
「なんだか、その人の近くに居ると心が安らぐし、ずっと居たいって思って、これが好きっていう感情なんだって初めて知った時には大分驚いた」
「……その人のことは、いつから好きだって思ったんですか?」
聞いてくる美紅の声は、少し震えているようにも聞こえた。
「自分で気づいたのは、去年の秋の終わり。モヤモヤした感覚が始まったのは、多分夏の終わり辺りだと思う」
僕がたまたま河川敷を通ったら、うちの制服を着てトランペットを吹いている女子部員が居て。その子があまりにたどたどしく吹いていたから、親切心で教えた。僕はその時から美紅に好意を寄せていて、それが揺らいだことは一度も無い。
「その人は、どういう人なんですか?」
美紅にそう聞かれたとき、僕は一瞬迷った。それは、さっきと同じ迷い。これを言ってしまったら、告白と同じ意味を持つ。
でも、いつかは言わないといけない。美紅にしっかりと自分の気持ちを伝えなければいけない。
僕は苦しくなってきた。心臓の鼓動が嫌にうるさい。
「……すごい頑張り屋で、でもあんまり報われてなくて。穏やかそうに見えるけど、実は凄く感情的な人」
慎重に言ったつもりなのに、声が震えてしまっていた所為か、吐き捨てるような風に言ってしまった。
隣の美紅を見る。美紅は無表情で、何を考えているのか全く分からない。
やや間があって僕の方を向くと、
「……私の好きな人のこと、聞いてくれますか?」
と訪ねてきた。
まだ無表情のままだけど、その目には何か決意があるような気がして、僕は無言で頷いた。また間があって、美紅は話し始めた。
「私の好きな人は、私のことをよく知ってくれていて、優しくて、でも鈍感で、馬鹿で能無しの私なんかに構ってくれる人です。―――きっかけは、夏の終わりのある日のことでした」
僕はまた美紅の顔を見る。目が輝いている。涙で濡れている。つまり、泣いている。
無理をしているのかとも思ったが、自分から話始めたことだから、無理をしていることはないだろう。でも、それ以外に涙を流す原因なんて見つからないから、やっぱり無理をしているんだろう。
「美紅、話したくないなら無理して話す必要は無いよ。僕は、無理をさせてまで聞こうなんて思ってないから」
美紅は頷いて、何か言ったが上手く聞こえない。
「美紅?」
もう一度問うと、今度ははっきりと
「大丈夫です。話させて下さい」
と言った。美紅はもともと強情な性格の持ち主だから、言っても自分の考えを貫くのは当然のことか。それで自己解決した僕は、再び黙って美紅の話に耳を傾けた。
「私はその日、委員会の仕事が遅くまであったので、部活に行くことが出来ませんでした。でも、毎日楽器は吹かないと上達しないし、幸い楽器は手元にあったので、活動場所ではない場所で練習をすることにしました。ですが、家ではその前日に親にうるさいと言われたので、家で吹くわけにもいかず、どうしようかと自転車を漕いでいました。そして、気づいたら家の前の河川敷に来ていました。普段からそこは、私が悩んだりした時に行っている場所で、来る人も少ないので、そこに決めました。大分時間も遅かったので、近所迷惑にもなるし、そこそこで切り上げようと思って練習を始めました」
……河川敷。僕と美紅がたまたま会ったのもそこだ。その時も美紅は楽器を吹いていた。
ここで僕は確信した。それと同時に自分を罵った。ほぼ間違いなく、美紅は僕に好意を寄せてくれている。そして今、美紅はおそらく僕に告白しようとしてくれている。でも、告白は自分からしたい。完全に出遅れてしまった。
もう迷っている暇なんて無い。
「ごめん、美紅」
とっさに出た言葉がこれだった。美紅は相当驚いたらしく、目を見開いている。
「どうしたんですか?どうして急に謝るんですか。私は先輩に謝って貰わないといけないことなんてされてないですよ」
その声は、やっぱり震えている。
「いや、したよ。土下座しないといけない位酷いことを」
「……分からないです。私が何をされたって言うんですか!?」
美紅が感情的になる。その威圧感に押しつぶされそうになるが、無理矢理跳ね除ける。そして、敢えて優しい口調で言う。
「……気づいたんだよ。僕は今まで美紅に辛い思いをさせてた。美紅の気持ちに、気づいてやれてなかった。だから、ごめん」
その一言で、美紅の表情が一気に崩れる。溢れ出す涙は止まることを知らず、頬をつたって床へとこぼれ落ちる。
「僕が馬鹿だった。もっと早く気づいてやれていれば、昨日の夜みたいに美紅を怒らせることも無かった」
僕が鈍い所為で、美紅は 僕の何倍も悩んで、苦しみながら生活していた。そして今日、美紅は僕に強い決意を持ってこの場所に居る。
「……それは、私も同じ事です。馬鹿なのは私の方です。自分でくよくよ悩んで、勝手に怒って、勝手に泣いて。だから、私にも言わせてください。ごめんなさい、先輩」
部屋に静寂が訪れる。次に言うべき言葉はとっくに決まっているのに、喉の辺りで詰まったまま出てこない。それは美紅も同じなのか、俯いたまま何も話そうとはしない。
このまま何時間も過ぎてしまいそうな雰囲気だけど、もうお互いの気持ちは理解しているから、今更引き下がることは出来ない訳で。この状況を打破するためには、どちらかが行動を起こさないといけないけど、その行動というのは相当な覚悟を必要とする。
それから数分間、僕は何も話さなくて、美紅も何も話さなかった。長い沈黙を破ったのは美紅だった。
「……先輩、私は先輩の本当の気持ちが知りたいです」
美紅は、僕からの言葉を待っている。望まれたからには、そのように返すしかない。
「うまく言えるか分からないけど、聞いてくれるか?」
美紅は頷く。緊張しすぎて、自分の声がものすごく震えているのが分かる。でも、もう迷うことは何も無い。
「美紅が河川敷で練習をしていたあの日から、ずっとモヤモヤした気分が続いていて、何なんだろうって疑問に思ってた。でも、部活中にふと美紅の顔を見たときにだけそのモヤモヤが頭を埋め尽くすことに気付いてからは、その正体に気付けて、ずっと伝えようと思ってきた。でもその機会がなかなか訪れないから、実は半分諦めてた。この合宿の間に伝えられなかったら、本当に諦めようと考えてた時に、美紅から近づいてきてくれたから嬉しかった」
美紅は僕の話をずっと真剣に聞いてくれているようで、瞬き一つしない。
美紅は僕の本当の気持ちを知りたがっているのに、こんな思い出話をずっとしていたら、申し訳ない。だから、次の言葉で決着をつけることにした。
「要するに、河川敷で美紅と会ったその日から、僕は美紅のことをずっと好きだ。今もそれは変わらないし、この先もずっと変わらないと思う」
やっと言えたという安心感、充実感が込み上げてくるのと同時に、この答えが間違っていたらという不信感が湧いてくる。その可能性は極めて低いのに、なぜかそのことが頭の中を支配する。でも、その不信感はすぐに拭い取られた。
美紅が急に、僕に抱きついてきた。とっさのことで頭がパニックになった僕に対して、美紅は言う。
「ずっと、そう言ってもらえるのを待ってたんですよ。私も、先輩のことが好きです。いいえ、大好きです。だから、今はこうさせて下さい」
そして美紅は僕の胸に顔を埋めて、肩を震わせて泣き始めた。多分これは嬉しさのあまりに出る涙。自分が頼られている充実感と、美紅に対する愛しさが、何とも言えぬ感覚を生み出し、僕はそっと美紅を抱かかえた。
出来ることならずっとこのままで居たいけど、時刻はすでに十一時を回り、部員は皆寝床へ就いている時間だ。僕は一度美紅を強く抱きしめた後、提案した。美紅の涙はもう止まっている。
「なあ美紅、そろそろ部屋に戻らないとさすがに不審がられるんじゃないか?いくら皆が美紅のことを頑張り屋だとしっていても、こんな時間まで練習するとは考えられないよ」
でも、美紅からの返事は無い。下を向いて黙り込んでいる。よく見ると、目をつぶって眠ってしまっている。張り詰めた緊張感が一気に解けて安心したのだろう。
ただ、いくら美紅と答えを確かめ合うことが出来たとはいえ、僕が美紅を抱えて部屋まで連れて行くなんてことは出来ない。仕方なく美紅を起こして部屋に戻るように言うと、素直に部屋へと戻っていった。
一人ホールに残った僕は、軽くホールを掃除した後、戸締りを確認してから部屋へと戻った。