合宿二日目 -5-
結局個人練の時間に一音も吹くことが出来なかった僕は、個人練の時間が終わってからもホールに残り、練習をすることにした。普段は吉に吹かせることが多いけど、大会のメンバーは僕だ。だから、いくら吹けると言っても、練習を怠るわけにはいかない。
そしてもう一人、このホールに残って黙々と練習を続けている部員がいる。いうまでもなく美紅だ。個人練の時間もずっと吹き続けていたから残らないだろうと思っていたのに、違った。
美紅もサードだけどメンバーに入っているし、性格から考えて、自分の技術をもっと向上させるために頑張っているのだろう。やり過ぎて体調を崩して欲しくはないけど、今の美紅に言ったところで吉同様に聞かないのは、何となく分かった。
自分の譜面に目を落とす。練習するのは、ペダルトーンの嵐がある箇所だ。ここさえ抜ければ、後は大丈夫。でもそれが難しい。いくらロータリー式でも、小指があまり器用でない僕は、ペダルトーンが連続すると苦しくなる。今回の自由曲は、半分僕への試練なのかもしれない。
そう思いながらも集中して練習を続けていると、時刻はいつの間にか十時を回っていた。ホール前の廊下から聞こえていた騒ぎ声も、まったく聞こえなくなっていた。そんな時間になっても、美紅はまだ練習を続けていた。
流石に明日の合奏もあるし、今日は切り上げようかと思い、楽譜を閉じ、メトロノームを最後まで消費させながら、楽器の片付けに入った。その様子に気づいたのか、美紅も時計を見ると慌てて片付けを始めた。時間を忘れるほど集中していたのだろう。
ほぼ同時に片付けだしたとはいえ、チューバはトランペットに比べて格段に管の数が多く、演奏後の掃除が大変だ。だから、いくらか早く片付けが終わってしまった美紅なのだが、何かきまりの悪い顔をしている。まるで、何かをずっと待ち続けているような顔。ここに居るのは僕と美紅だけ。それを考えた時、つくづく僕は馬鹿だと思った。とりあえず、早いところ片付けてしまおう。
そう思って、通常の二倍位の速さで片付けをした。
「で、美紅。なにか話があるのか?」
ずっと同じ場所に立ち尽くしていた美紅に問う。すると美紅はこっちに寄ってきて、
「はい。すこしお話していきませんか?」
と笑顔で言ってきた。心臓がドクンと跳ねる。この笑顔が見られるなら、いくらでも付き合ってやろうと思った。
* * * * * *
「昨日も言ったけどさ、美紅は本当に頑張り屋だよね」
冗談抜きにそう思うのは、普通の部員の三倍近い時間ずっと楽器を吹いて練習していたから。
「何ていうかさ、美紅の練習してる姿を見ると自分ももっと頑張らないとって思えるんだよ」
「そうなんですか?でも、楽器はたくさんやらないと上達しないですよね」
「それは確かにそうなんだけど、美紅の場合はその集中力が普通じゃないよ。なんか凄い深刻そうな顔して、危機意識が高いんだなっていつも思うよ」
「そうですか……」
美紅はちょっと複雑な顔をしたけど、すぐに向き直って言葉を繋いだ。
「でも、それだったら先輩も似たような顔してますよ。合奏の時、すごい思い詰めた顔してますよね?」
「ああ、あれは―――」
と言って詰まる。本人が居る前で暴露する訳にはいかない。明かしてしまったらそれは、告白したのと同じ意味を持つ。だから、とっさに出てきた嘘を吐く。
「あれは、いつも吉にチューバ吹かせてるからさ、練習時間足りなくて、追いつけないからああいう顔をしてるんだよ」
美紅は納得したらしく、何度が頷いた。
我ながらなかなか良い嘘だったと自画自賛していると、美紅は自分の席を立ち、壇を下りていく。立ち止まったのは、ピアノの前。腕には、返した楽譜が抱えられている。美紅は身を翻して、
「そういえば、今日はまだ練習してませんでした。練習してもいいですか?」
と美紅は聞いてきた。特に断る理由も無い僕は、頷くしかない。
練習するなら自分は邪魔だろうと思い、立ち上がって一人出口に向かって歩き出したら、美紅に呼び止められた。
「どうした?まだ何か話があるのか?」
「いや、そういう訳じゃないんですけど……」
美紅の顔がみるみる赤くなっていく。
「あの、もしよかったら、なんですけど、あの……練習、聞いてくれませんか?」
最後の方がくぐもってうまく聞こえなかったけど、言おうとしていることは十分理解できた。
「それは別にいいけど、美紅は邪魔じゃないのか?それに、僕が居ても何の指導も出来ないよ?」
「はい、大丈夫です。何となく……ですから」
「そうか……」
美紅の言い分はよく分からなかったけど、こっちとしてもすこしでも長く美紅と居たいし、美紅のピアノを堂々と聴けるし、考えてみればいい事だらけだった。だから僕は、それまで座っていた席で鑑賞を始めた。
トランペットを結構きつそうに吹いている時と違って、ピアノを弾いている時の美紅の姿は可憐で、優雅だった。何の曲かは分からなくても、舞うように躍動する美紅の姿を見ているだけでとても楽しい。楽器は違えど、美紅はやはり音楽というものを愛しているのだろう。取り組む姿勢からそれは十分に察することが出来る。かくいう自分はそこまで上手くないのだから、こんなことを言う資格なんて元々無いのかもしれない。
川のせせらぎのように静かに流れていく曲もあれば、嵐のように激しい曲もあり、ホールは完全に美紅だけのステージと化している。そしてその観客は僕だけ。そう考えると、自分はどれだけ贅沢をしているのだろうか。自分の愛する人が、自分のために演奏を聴かせてくれている。その事実さえあれば、あとは何もいらない。そう思えてしまうのが自分でも可笑しいと思う。
ふと、思う。もしかしたら、美紅は僕のことを―――いや、そんなはずは無い。
自分で否定しておきながら、その微かに見えたかもしれない光を掴みたくなる。僕は少し前の記憶を追憶し始めた。昨日の夜、僕が美紅から言われたこと、
『私が好きな人は、そんなちっぽけなことで悩んでいるような人じゃありませんから』か……。
普通に捉えるならば、その言葉は僕以外の誰かを好きだということになる。でも、そんな話をわざわざ僕にするだろうか。肯定的に捉えるとすれば、その言葉は僕に、早く告白してくださいということなのか?
でもそれは考えとして飛躍しすぎている訳で、到底あり得ない。
考えれば考えるほど、その真意を確かめたくなってくる。このことばかり考えていると、合奏も力が入らなくなりそうだ。
「先輩、大丈夫ですか?また深刻そうな顔をしてますよ?」
いつの間にか美紅の演奏は終わっていて、美紅はピアノ椅子に腰掛けたまま身だけをこっちに向けて話してくる。
「ああ、ごめん。ちょっと考え事をしててさ」
それは本当の話。
「そうですか。あ、もしかして先輩の好きな人のこととか考えてたんですか?」
「え……」
また言葉に詰まる。まるで心の中を見透かされたように言われたから、驚きを隠せなかった。
「その顔だと図星みたいですね。誰とまでは聞かないですが、そんなにその子のことが気になるんですか?」
美紅が多少にやけながら聞いてくる。なんだか美紅は楽しんでいるようにしか見えないが、僕はそんなことを気にしている暇もない。この状況を一体どうやって切り抜けるべきか。そのために、全力で頭を回転させる。
「先輩、嘘は駄目ですよ?本当のことを話してください」
「……わかった」
もう、逃げ道は無いみたいだ。