合宿二日目 -4-
「お前達、やれば出来るじゃないか。何故昨日の合奏でこれが出来なかった?」
と褒めているのかよく分からないことを言っているのは、もちろん顧問だ。
午前からずっと屋外に居た僕達にとってみれば、冷房が効いているこの部屋はまさに天国に等しい。こんな場所で楽器が吹けるというのだから、皆が集中できないはずもなく、とりあえず自由曲は満足のいく演奏がどのパートも出来たようだった。低音パートも、川辺でのことがあったためか、皆集中出来ていたように思える。
「では、十分ほど休憩を入れる。この後は、もう一回自由曲を通すぞ」
そう言って、顧問はホールから出て行った。それと同時に、僕も動いた。目的は、美紅に楽譜を返すためだ。
椅子の下に置いておいた楽譜を持って立ち上がり、美紅が居る後ろを振り見た。でも、美紅はそこに座っていなかった。どうやら休憩のために外に出て行ってしまったらしい。
仕方がないから、美紅が座っている椅子の下に楽譜をそっと置いておいた。これなら気がつくだろう。
「有岡ー」
橋田が、手招きをして僕を呼ぶ。行ってみると、急に一枚の写真を渡された。その写真を見ると、そこには制服ではなく、寝巻き姿の女子達の姿が写っていた。
「どうだ、有岡。お前も欲しいか?今なら特別に、一枚百円で売ってやる。どうだ?」
「これって……、盗撮か?」
そうとしか思えないのだけれど、一応聞いておく。
「違う。俺は盗撮などしない。これは、昨日の夜にこっそりとカメラを設置してだな……」
「結局同じようなものだろ」
明らかに盗撮だが、橋田の弁解が面白いので、ついからかってしまう。
「断じて違う!それよりもどうするんだ。買うのか?買わないのか?」
うまく逃げられた。
橋田は、僕が渡された写真以外にも、あと二十枚ほど持っているらしく、それを見せ付けてくる。
それらをじっくりと見ていると、たった一枚だけ、美紅が写っている写真があった。僕としては、美紅の写真が誰かに渡ってしまうのはどうしても避けたい訳で。だから、美紅が写っているその写真を引き抜いて、
「これ、買うよ」
と言ってしまった。
橋田は妙ににやけながら、
「織部美紅か。これは俺のイチオシだ。流石に百円という訳にはいかないな……。そうだ、五百円で売ってやろう」
五百円。一ヶ月の小遣いの四分の一。そう考えると、とても高い。でも、それで美紅が守られるなら、それでいい。
「分かった」
「そうか。では、また後で金を持って来い。商品を渡すのはその時だ」
「ああ」
僕は頷き、自分の席へと戻った。
僕が席に着くのと同時に、美紅がホールに戻ってきた。さっきは居なくて残念と思っていたのに、今となっては居なくてよかったと思ってしまう。本当に自分は馬鹿だと思いつつ、橋田が持っていた写真に写っていた美紅の寝巻き姿がずっと頭に浮かんでいた。
その後の合奏では、僕の頭にはずっと美紅の写真のことがあって、小さなミスを連発し、その度注意を受けた。ちょっと凹んだけど、合奏が終わった後に美紅が楽譜の件で礼を言いに来てくれたから、それも気にならなくなった。とにかく、早いところ美紅の写真を取りに行かなければと思った僕は、夕飯もほどほどにして橋田の所へと急いだ。
「来たぞ、橋田」
橋田は、僕達と寝ている部屋ではない別の部屋に居た。僕が行ったときには橋田一人だったが、きっと瀧や片平も絡んでいるに違いない。
その部屋にはどこから運ばれたかは知らないがパソコンとプリンタがあって、パソコンでは写真のトリミング作業をしていた。
「おう、有岡。お前のことだから、もっと遅くに来ると思っていたが、案外早かったな」
「まあな。金銭的なことは早く終わらせておきたいからな」
そう言って、僕は合奏の休憩時間に言われた通り、五百円を差し出した。
「まあそんなに焦ることはないだろう。急いだって、いいことないぜ。……まあ、人が人か」
「どういうことだよ」
意味が分からない。人が人って何だよ。
「そりゃあお前、写真に写ってる女子があの織部美紅で、お前が愛して止まない子となればなあ……」
「ちょ、ちょっと待て。僕が美紅のことを好きだって?なんでそんなことが言えるんだよ」
僕は焦った。まさか、よりによって橋田に美紅のことが好きだって知られてしまったら、それはものすごい勢いで部活中に広がる。そうしたら、僕はこの部活に居られなくなる。勿論それは気分的な意味でだけど、居にくくなるのは変わらない。
「バーカ。鎌かけただけに決まってんだろ。まあ、その様子じゃあマジみたいだけどな。でも安心しろ。誰にも言いやしないさ。誰かに勘付かれることはあるかも知れないがな」
「橋田、お前な……」
怒り半分で橋田に殴りかかろうとしたが、何とか堪えた。
「まあ落ち着け、有岡。さっきも言っただろ?焦るなって。とりあえず座れ」
渋々振りかけた拳を下ろす。そして、とりあえず座敷に座った。一緒に橋田も座った。
「実はな、有岡。俺は昨日見ちまったんだよ。お前と織部美紅が夜にホールで一緒に居るところ」
「何だって?」
全く気がつかなかった。向いていた方向も真逆だったし、そもそも俯いたまま会話をしていたから、正面は見えていなかったけれど。
「それで、急に織部美紅がホールから飛び出そうとしたから、ヤバいと思って、とっさに逃げたというか、隠れたんだ。その後は、織部美紅を追った。ついでにカメラの回収もしようと思ってな」
「で、追ったらどうだったんだ?」
「自分の部屋に駆け込んで行ったよ。でも、カメラを回収し終わった時にもう一回部屋の前を通ったが、電気は点いていなかったな」
「そうか……」
その様子だと、昨日美紅は相当怒っていたようだ。
「で、どうするんだ?有岡。織部美紅に告るのか?」
僕は、迷わない。
「ああ。この合宿中にな。それだけは決めてある。
でも、今日か、明日か。美紅と二人になれる時間は、そう多くない。合奏後の自主練か、はたまた今日の朝のような時か。いずれにしても、必ず二人になれるという保証は無い。だから、残されたチャンスはかなり少ないと考えるべきだろう。タイミングを間違えないように最新の注意を払いながらも、それを逃さないようにしなくてはならない。
頭の中で思考を張り巡らせていると、橋田が例の写真を渡してきた。
「ほらよ。約束の写真だ。金は要らん。その代わり、うまくやれよ、有岡」
「ああ。分かってる。でも、金は払っておくよ。口止め料としてな」
正直、いくらお金を払ったところで、橋田が他人にこのことを言わないという保証はどこにも無い。だから、これは願掛け金とでも思っておく。
僕は写真を受け取り自室に一回戻った後、合奏のためにホールを目指した。
「先生、体調崩して合奏来れないって。だから、今からは個人練だよ。まとまってやりたい人はやってもいいって」
顧問は、さっきの合奏では全く調子が悪いようには見えなかったから、これは意外だった。おおかた気合が入りすぎたのだろう。
個人練と言われても、時間があと一時間半もある。根を詰めすぎると、明日に響いてしまいそうだ。
「吉、適度に休憩挟みながらやれよ。まあ僕も吹くけどさ」
「はい。まだ明日もあるので、無理しない程度にやります」
吉は僕よりも頭がいいから、僕がそんなことを心配する必要は全く無いようだ。
そう思ったけど、実際は違った。よほど吹くことが好きなのか、それども納得がいかないのか。結局個人練の時間中、吉は一回も休憩を入れることなく吹き続け、横から声をかけても全く返事をしなかった。
楽譜に向かっている吉は、ものすごく真剣な顔をしていて、それは将棋盤に向かっているような顔にも見えた。
吹奏楽は団体戦だと言われても、こういった個人技の部分はどうしても自分との戦いに近いものになってしまうから、将棋をやっていた頃の自分が自然と出てきて、こんなに真剣にやるのだろうかと思った。