合宿二日目 -2-
午前中の練習は、すべてパート練に充てられた。昨日の合奏の出来の悪さはすさまじく、移動の疲れはたったといえ、皆がヘトヘトだった。そして今日、午前中のパート練の場所は屋外。クーラーでキンキンに冷えた部屋で合奏を出来ると思っていた僕は、がっかりするしかなかった。
「さて、ちょっと休憩にしようか」
と僕が言うと、パートの皆は楽器を下ろし、愚痴を吐き始めた。
「なんでこんな暑い中外でパート練をしなくちゃいけないの?信じられない」
と詩織。
「……」
と黙り込む吉。
「昨日よりも暑い気がします」
と小笠原さん
「リードがヤバいです……」
と鈴木さん。
誰も話が噛み合っていないが、気にすることも出来ないくらい今は暑い。木陰なので日向よりは多少涼しいが、それも三十度近くあるだろう。たまに吹く涼しい風が、パート練中の唯一の救いだ。
「次は十五分後に始めるから、それまで自由で」
と僕が言うと、四人はそれぞれ別の方向へ散っていき、木陰に残っているのは僕と、皆の楽器だけになった。これは本日五回目のこと。
今日はまだ楽器を吹いていない僕はさほど暑くはないが、楽器を吹いている(弾いている)四人にとってここは地獄だろう。今の散り方がそれを物語っている。
そもそも何故外でパート練をやらせるのかが理解できない。音を飛ばすためといわれても、こんなに暑いとやる気もなくなって音を飛ばす云々の話ではなくなる。楽器にもこの高温状態は好ましくないというのに。
ずっと楽譜に向けられていた目線を森の大自然へと移す。森の姿は涼しげなのに、森中に響き渡る蝉の声にとって、その意識も簡単に壊されてしまう。空を見渡せばそこにはやっぱり夏らしい雲があって、より一層暑さを感じさせる。
頭がオーバーヒートしてしまわないように、木陰の涼しさだけを感じ、あと二時間どのように進めていくか考える。長すぎるパート練は、逆にやる気を削ぐ結果となるから、なるべく頻繁に休憩を取り、短期集中でいこうか。開始一時間半で、すでに五回の休憩を入れているからあと二時間で七回くらい休憩を入れることになりそうだ。それでもいいかと思ってしまうのは、この暑さの所為に違いない。
昼が近づくにつれて気温はどんどん上昇していくので、練習が身に入るわけも無く、結局休憩を十回も入れてしまった。僕のほうも次第に頭が回らなくなってきて、意識が飛びそうになったことも二・三回あった。それでも誰一人として倒れなかったのは、奇跡に近い。
昼食後、午後は自由時間。一回目の自由時間なので、パートで計画していた通りに川のほとりへと向かった。朝も来たが、午後の川辺の水は外気温が高いこともあって殊更心地よく感じられるはずだ。僕は朝もしたように靴を脱ぎ靴下を脱ぎ、川の流れに足を突っ込んだ。それを見た四人も同じように足を突っ込み、楽しく談話会が始まった。
「やっぱり川って涼しいな。暑さとイライラが全部飛んでく気がする」
と僕。
「そうね。やっぱり山の中だし水も冷たくて気持ちいいわ」
詩織も同感らしい。皆それぞれ川の水の冷たさを満喫したところで、僕は昨日から考えておいた話題を切り出す。
「そういえば吉、お前何で吹奏楽部なんかに入ったんだ?将棋部だったらうちの学校にもあったのに」
「それ、私も気になってた。どうしてなの?吉君」
僕と詩織が聞くと、皆の視線が吉へと注がれる。吉は、話しにくそうに語り始めた。
「……僕は、幼稚園のときに将棋を始めて、毎日のようにおじと対局していました。おじは、僕に才能があると言ってくれて、とても熱心に教えてくれました。僕は小学校に入って、初めて将棋の大会に出て、そこで優勝しました。おじは、そんな僕をとても褒めてくれて、とてもうれしかったです」
吉の顔が、若干苦くなった。
「でも、そんなおじは、僕が小学四年の時にあの世へ逝ってしまって、残されたのはおじが愛用していた駒と将棋盤。それを僕は与えられて、ますます将棋にのめり込んでいきました。中学生になって、数々の大会でいい成績を残して、まさに順風満帆でした。部活の皆は、僕のことを天才と呼ぶようになりました。それはそれで良かったのですが、ある日気づいたんです。皆が僕のことを無視し始めているということを。部活に行っても、僕は一人で攻め方を研究して、誰一人として僕に話しかけようとしないんです。誰かを誘っても、負けるからという理由で対局させてくれませんでした。仲間なのに、僕と他の部員との間には大きな壁があって、その壁が僕の居心地をどんどん悪化させていきました。終いには、将棋バカと呼ばれ、皆にからかわれる始末。なんでこうなってしまったのか理解出来なくて、一人悩みました。そして出た答えは、楽しめていないから。ということでいた。よく考えれば、将棋は個人競技で、本来は自分との戦いです。でも、それが部活動として存在する以上、仲間意識を持たなければならない。つまり、将棋が将棋でなくなってしまうと思ったのです。だから僕は、部活を辞めました。同時に、将棋も辞めました。そうして僕は、居場所を失いました」
ここまで言って、吉はため息をついた。まさかここまで暗い話になるとは誰一人予想していなかったに違いない。でも、話を振ったのはこっちだから、聞かないわけにもいかない。皆は、また吉の話に耳を傾けた。
「部活を辞めて一ヶ月して、僕は途方に暮れていました。それまでずっとやってきた将棋がなくなってしまった僕には、もう何も残っていませんでした。囲碁に挑戦しようかと思いましたが、結局は個人との戦いで、将棋と何一つ変わりません。かといって、チームプレーが大切な野球やサッカーをやろうとしても、それまでずっと座りながら将棋をやっていた僕にそんな体力がある訳ありませんでした。完全に行き詰まってしまった僕は、帰ろうと思って階段を下りました。そこで気づきました。さっきからずっと聞こえていた楽器の音でした。僕は、これしかない。直感的にそう思いました。しかし、生憎音楽の知識も欠乏していた僕は、すぐに入部することは考えず、少しでも音楽に触れることに努力しました。楽譜の読み方も、受験勉強の合間に少しずつ勉強していきました。とても難しいことで、今もうまく読めませんが、音楽を皆でやることの楽しさを理解するためにも、頑張らないといけない。そう思います」
吉の話はそこで終わった。吉は顔を上げると、今までに無く優しい顔で笑った。話を聞いていた僕は、ちょっと涙が出てきた。普段あんなに努力している影には、そんな過去があったのかと思うと、自分はもっとしっかりしなきゃいけないと再確認出来る。悩んで、悩み抜いた挙句の吹奏楽部ならば、後悔させるわけにはいかない。皆も同じように思ったらしく、表情が真剣だった。
「ごめんな、吉。すごく辛い話をさせて」
「気にしないで下さい。僕も、いずれは話そうと思っていましたし、話せたことでスッキリした部分もあります。だから、逆にありがとうございました」
「ああ。これからは、もっと頑張って教えるから、着いてきてくれ」
「もちろんです。お願いします」
「本当、吉君は頑張ってると思うわ。誰かさんとは大違い」
「……それって僕?」
「それ以外に誰がいるって言うの?」
「うっ……。で、でも、これからは今の何倍も気合い入れてくからさ……」
「そう。じゃあ、期待してるわ」
詩織の痛い視線が飛んでくる。そんな悪いことした覚えはないんだが。
そんな二人のやりとりを見ていた他のメンバーが一斉に吹き出した。普段だったらスルーできることだけど、今は笑えた。誰かと一緒に同じことをするのは楽しい。みんなで笑って、みんなで吹いて、そのつながりがとても大切だ。吉のお陰で、低音パートはそのつながりを再確認できた。この後の合奏はうまくやれる気がした。
僕達は残りの自由時間も、とりとめのない話をたくさんして、たくさん笑った。時間の経過がこんなに早く感じたのは、初めての経験だった。