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三泊四日  作者: 音樹える
12/24

合宿二日目 -1-

―――一夜明けて、合宿二日目。普段とは違う場所で寝ると、どうしても眠りが浅い。いつもは遅刻ギリギリの時間に起きて学校に向かうところなのに、今日に限っては起床時間まであと一時間もある。もう一眠りしようかと思っても、一向に眠気が襲ってくる気配は無い。僕は仕方なく身体を起こし、周辺を見渡す。昨日の夜いつ帰ってきたのかは知らないが、そこには橋田はじめ三人が、だらしない格好で寝息を立てている。どんな場所であっても普段通り寝られるその体質は、こういうときに限ってうらやましい。

 この部屋がいくら広いといっても、青春真っ盛りの男子四人が寝ているこの部屋は、特有の汗臭さも相まってとても息苦しい。起床までのあと一時間どうしとようと考えながら、とりあえず布団を丁寧に三つ折し、衣服を着替え、三人を起こさないように気を配りながら部屋の外へと繰り出した。

 山奥の朝は、都会の朝とは違う。都会では朝から日光がじりじりとアスファルトを焦がし、灼熱地獄を演出するが、山奥の朝はそれがない。都会よりも夜は涼しいし、朝はとても清々しい。木々の葉が擦れ合う音は、聞いているだけで都会の喧騒を忘れさせてくれる。

 僕が向かったのは、今日の午後にある自由時間で使おうと思っている場所。去年も低音パートが自由時間で使った小川だ。天気予報通り、今日も暑くなりそうだから、こういう場所で時間を潰すのも悪くないだろう。

 小川に着くと、よく透き通った上流からの水がさらさらと流れている。手を伸ばして水に触れると、ひんやりとした感覚がとても心地よい。思わず僕は靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、素足を川の流れへと突っ込んだ。パートの皆よりも一足先にこの流れを独占しているのは、早起きの特権だ。起床時間まではあと四十分以上あるから、ゆっくりとこの涼しさを堪能しよう。


―――ザッ、ザッ。

どこかから、足音が聞こえる気がする。

―――ザッ、ザッ。

やはり、幻聴ではないらしい。としたら、誰だろう。この場所は、合宿所からは結構離れているし、直接は見えないから部員で知っている人は少ないはず。

 ならば、合宿所の管理人だろうか。管理人だったら合宿所の周りの地形くらいは完全に頭に入っているだろうから、ここにやってきても変ではない。でも、何のために?顔を洗いにいちいちこんな場所まで出てくるような人はそういないし、朝の運動のついでに来るとしても、近くの道路からは相当離れている。管理人の可能性は低いだろう。

 だとしたら、なにか動物なのか。それだったら、水飲み場をここにしている動物もいるだろう。もしそうだとしたら、ちょっとどころじゃなく危ない。これ程の足音がするということは、少なくとも小動物ではない。中型から、大型の動物だ。山の上に生息する、中型から大型の動物といったら、猪か、熊か。いずれにしても襲われたらひとたまりも無い。

 一瞬にしてその思考を張り巡らせ、状況確認のために後ろを振り向く。何もいない。一度向き直って、もう一度振り向く。

と。

 目の前が急に真っ暗になる。あわてて目の前を塞いでいるものを掴む。触れたものからは、暖かい感触。それを払いのけて、後ろを振り向く。さっきまで何もなかった場所に、人がいる。

「おはようございます。先輩。」

「…美紅?」

「はい。わたしです。おはようございます。」

「……おはよう、ございます。」

 僕の中で張り詰めていた緊張感が一気に解け、笑いに変わる。なんだ。美紅か。

「どうしましたんですか?体調でも悪いんですか?」

「いや、大丈夫。……色々言いたいことはあるけど、とりあえずなんで美紅がここにいるの?この場所知ってた?」

「いいえ、知りませんでした。こんなところあったんですね。ちょっと感動してます。」

「じゃあなんでこの場所に来れたの?誰かに聞いた?」

「それは、先輩の後をずっと着いてきたからですよ。ちょっと外に出ようって思ったら、ちょうど前に先輩がいたんです。どこ行くんだろうなーって思いながら着いてきたら、ここに来ました。」

ずっと僕の後ろを着いてきていたのか……。まったく気が付かなかった。さっきまでの、もしかしたら猪かなんかに襲われるんじゃないかという思考が、とても馬鹿らしい。でも、襲われたと言っても嘘じゃないか。

「なるほど。僕はたまたま早く起きたから、ここに来てみようと思っただけなんだけど、美紅はいつも起きるのは早いのか?」

「はい。最近は大体五時半頃に目が覚めます。暑いので、出来るだけ気温が上がってくる前に起きるようにしてます。」

「早く起きられるのは羨ましいよ。僕は常に、遅刻ギリギリの時間に起きるから……。」

「ふふ。遅刻ギリギリに起きて、パンを一枚口に銜えながら必死で自転車を走らせる先輩を想像するのは簡単ですね。」

……なんで僕の毎朝の登校風景を知ってるんだ。単なる想像とわかっていても、そうは思えないほど、リアルだ。登校の仕方が典型的な漫画の主人公と被るからかもしれないけど。


「それよりも、先輩ばかりずるいですよ。川に浸って、すごく涼しそうじゃないですか。わたしも入ります。」

そう言うと、美紅は靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、僕の横に腰掛けて、素足を川に晒した。美紅の素足は細く、白く、朝日に照らされて、どこまでも眩しい。ちょっとだけ興奮しているのが、自分でもわかる。でも、こんなことで取り乱すほど馬鹿じゃない。朝から何を考えてるんだ、僕は。

 ふと、違和感を覚えた。昨日、ホールにいた美紅は相当怒っていた。意志が固まらない僕に対して、随分と憤慨した様子だった。でも、今隣にいる美紅は、怒っている所か、逆に笑ってさえいる。一夜明けたとは言え、この変化はおかしい。

「なあ、美紅。」

「なんですか?」

「もう、怒ってないのか?」

「ええと、昨日のことですか?」

僕は頷く。

 やや間があって、

「…はい。もう怒ってません。昨日の夜はすいませんでした。」

「いや、謝らなくてもいいよ。昨日悪かったのは僕の方だし。」

「いや、本当はわたしが悪かったんです。昨日のわたしはどうかしてました。」

「確かに、昨日の美紅はいつもの美紅とはいろんな意味で違ってたよ。あそこまで積極的な意見を言ってくるとは思わなかった。でも、美紅は悪くないよ。」

「先輩こそ、怒ってないんですか?昨日わたしがあんなに酷いことを言ってしまって。」

「怒るも何も、僕は別に、昨日美紅が言ったことが間違いだとは思わなかったから、怒る要素は一つも無いって。逆に、自分のことを省みるきっかけになったし。」

「そうですか……。」

 美紅はそのまま、黙り込んでしまった。お互い言うことが無くなって、沈黙の時間が流れる。川が流れる水の音と、山中にこだまする蝉の声が唯一の救い。

 

「あ、そうだった。」

僕はとっさに話題を変える。

「昨日、美紅がホールに置いていった楽譜、盗まれることは無いと思ったけど、一応預かっておいたから。」

「あ、ありがとうございます。」

美紅は複雑な顔をしている。そのことも気になっていたのかもしれない。

「今日朝早くにホールに行っても何も無かったので、どうしたのかと思ってました。やっぱり先輩が持っててくれたんですね。」

「まあ、あの場には僕しかいなかったしね。」

と、苦笑いしながら答える。つられて美紅も微笑んだ。

「先輩も、ピアノ弾けるんですか?」

「ちょっとはね。美紅には遠く及ばないよ。あんなに難しい曲を良く弾けるね。僕は楽譜を見ただけでもう嫌になったよ。」

「でも、わたしもさすがに全部は弾けません。難しいですから。」

「美紅にも難しいなら、僕にはもっと難しいな。」

「ふふ。そうかもしれませんね。」


「美紅は、将来どんな仕事に就きたい?」

「わたしは、学校の先生になりたいですね。」

「それって小学校?」

「いえ、中学校です。小学校の先生は大変ですから。中学校で、音楽を教えたいと思ってます。」

「音楽の先生か。美紅にぴったりだと思うよ。」

「そうですか?ありがとうございます。」

僕は、美紅が音楽の先生になった姿を頭の中で密かに想像してみる。そこには、生徒達に囲まれて、頑張って音楽を教えて、輝いている姿が見えた。

「じゃあ、先輩はどんな仕事に就きたいんですか?気になります。」

「僕は……。そうだな、とりあえず給料を貰って、人を養っていけるような職業に就きたいな。」

驚くとともに、呆れたような顔で僕を見る。

「それって、かなり漠然とした目標ですけど、重要なことだと思います。」

「ありがとう。でも、本当のことを言えば、はっきりと決まってないかな。人並みに働いて、人並みの給料を貰ってれば、それで満足だって思うし。」

「なるほど。そういう考え方はわたしにはありませんでした。あ、別に先輩のことを悪く言ってるわけじゃないですよ、決して。」

「別に気にしないよ。自分でも僕は馬鹿だって分かってるし。」

「そんなことないです。先輩は決して馬鹿なんかじゃないです。」

「いやいや、美紅に比べれば相当馬鹿だ。美紅は毎日ピアノを弾いて、自分の夢に向かって進んでいるけど、僕は何もしてない。その時点で僕は駄目だよ。自分の夢すらはっきり見えていないからね。」

「でも、昨日だって自主練をしにホールに来たじゃないですか。自分の好きなことには積極的になれる人は、いい人だと思います。」

「美紅にフォローされると、ちょっと嬉しいかも。」

「別にフォローしているつもりもないですよ。本当のことですし。」

「そういって貰えるなら、有難いよ。」


 そんなことを話していたら、いつの間にか時間は経っていて、起床時間の7時はあと10分に迫っていた。ここから帰るとちょうど10分くらいを要するから、いい時間だろう。

「さてと。僕はそろそろ宿舎に戻るよ。起床時間だ。」

「あ、本当ですね。皆を起こさなくちゃいけないんでした。すいません、先輩。お先に失礼します。」

 そう言うと、足が濡れたまま、強引に靴下を履き直し、靴を履くと、ペコリとお辞儀をして、もと来た道を引き返し始めた。僕は、

「預かっておいた楽譜、今日の合奏の時間に渡すから。」

とだけ言って、遠ざかっていく美紅を見つめていた。手を振ってくれたから、きっと伝わっただろう。


             *  *  *  *  *  *  


 涼しかった川の流れを後にして、宿舎へと帰る途中、預かっている楽譜のことを気にした。

昨日預かっておいた楽譜は、全部で三つ。ハノン・ツェルニー40番と、全音のピアノピースが一つ。

 ハノンは、演奏家がより正確なリズムで曲を演奏するためによく用いられる、いわゆる基礎練習用の本で、同じような音符の羅列がずっと続き、やっていると面倒になる。かく言う僕も、ちょっとだけこれに触れた時期があったけど、まったく続かなかった。

 ツェルニー40番は、ツェルニー30番に続いて用いられる練習曲集で、30番、40番、50番と数字が上がっていくにしたがって難易度は高くなってくる。ツェルニー40番は中級レベルと書いてあるけど、僕には理解できない。

 そして、全音のピアノピース。この楽譜には見覚えがあった。タイトルを見る。ドビュッシー作曲の、月の光だった。


          *  *  *  *  *  *


 あれは、僕がまだ小さくて、必死に母親にしがみついていた頃。僕は、母に連れられて、毎週ピアノ教室に通っていた時期がある。男がピアノを弾けたら格好いい。その理由だけで、通わされていた。

 あの頃の僕は短気で、練習をし始めてもその集中力は10分と持たなかった。だから、母が隣にいる中、毎日、玩具程度のキーボードで練習をしていた。

 女の子だったら、毎日ピアノの練習をして、早く上手になろうと努力するだろう。そうして、将来は学校で音楽の先生という夢を、多くの子が持つだろう。

 でも、僕は男の子だった。同年代の女の子よりも、美術的センスが優れていなくて、不器用なのは当然だった。でも、母はそんなのお構いなしに練習を強要してくる。ピアノなんて弾けても、なんの役にも立たない。そう思って、小学校中学年で時にピアノを習いに行くのはやめてしまった。その年までやったんだから結構弾けるんじゃないかと思うだろうが、そんなことはない。僕はそもそもやる気が無かったから、練習なんてやっているようで、全然身についていなかったのと同然だ。だから、はっきり言ってしまえばほとんど弾けない。習っていない人よりも、若干楽譜を読むスピードが早いってだけだ。それが吹奏楽で役に立つとは、思ってもいなかった。

 もともとやる気の無かった僕だけど、その先生の発表会に一回だけ出た事がある。多分、小学校二年生の時。

 僕は、習っていた曲をそこそこ聞かせられる程度に練習して、本番に出た。親には下手だと言われたけど、そんなの気にはしない。会場には、僕みたいに親に無理矢理やらされて、嫌そうな顔をした男の子もいた。


 僕の出番はほぼ真ん中で、年齢が上がっていくにつれて、順番も遅くなる。中学生の人が弾く曲は、僕には何を弾いているんだか、まったく分からなかった。高校生も少なかったけど出ていて、もうすごいとしか言えない演奏をしていた。なんてあんなに指が動くんだろう。人間じゃないんじゃないかとも考えた。 

 先生の生徒が全員弾き終った後、最後は先生の演奏だった。

 その時に聞いた演奏は、未だになぜか頭に残っている。後から、母にその曲の名前を聞いた。

ドビュッシーの、月の光。


 なぜだか僕はその曲に一瞬で聞き惚れてしまって、家に帰っても、僕の頭から離れなかった。別に先生の演奏が好きだった訳じゃなく、僕はその、月の光の清楚な音、それでいて、細くて、ちょっと気を抜いたら線が切れてしまいそうな、その感じが好きだった。

 だから、僕は母に言って、弾けもしないのに月の光のピアノピースを買ってきてもらった。そして、僕は必死に練習をした――――。


 今となっては懐かしい話だ。当時の僕には、音楽はつまらないものにしか見えていなかった。でも、吹奏楽を始めてみて、その考えはガラリと変わった。音楽は、すばらしいものだ。

 結局、僕は月の光の楽譜を、とりあえずゆっくりと弾けるようにはなったけど、それ以上のテンポで弾こうとすると、もう指がついて来なかった。僕はそれを克服する術を知らなかったから、どうしようもなかった。


 楽譜を開くと、目に飛び込んでくるのは音符の群れ。その配列は、吹奏楽のそれとは違い、複雑で、かつ芸術的。左から右に流れていく旋律は、まるで絵画だ。ピアノ譜は、見ていて楽しいから好きだ。弾けないけど。


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