合宿一日目 -4-
わたしは、ホールを出て、自分の部屋へと戻った。部屋に戻っても誰も居なかったし、電気も点いていなかった。でも、今のわたしには居心地のいい場所。時刻はすでに九時半を回り、窓の外を見渡せば辺りは暗闇に包まれている。窓から射す月の光が、畳を明るく照らし、不気味な景色を醸している。
まだ寝るにはちょっと早いけど、身体を横にしたい気分だったから、さっきまで寝ていた布団に丁寧にシーツをかぶせた直した所で、ばさっと倒れる。ぼうっと板張りの天井を見ながら、さっきのホールでのやりとりを思い出す。
『わたしが好きな人は、そんなちっぽけなことで悩んでいるような人じゃありませんから。』
この一言で、わたしは先輩から遠ざけられる存在になってしまったかもしれない。よくよく考えれば、ホールに居たのはわたしと先輩の二人だけ。あのまま楽しく会話を続けていたら先輩に告白できる隙もあったかもしれないのに、その可能性を自分でつぶしてしまった。ほんとわたしって馬鹿だ。
悔やめば悔やむほど、自分が嫌いになってくる。こんな自分なんかに、先輩を好きになる資格なんて無いのかもしれない。でも、先輩のことは諦められない。このまま引き下がってしまってはいけない気がする。すこしだけでも可能性があるならば、わたしはそれを信じなくてはならない。想いを伝えられずに終わってしまうよりは、駄目でも、想いを伝えて終わりたい。
ぱっと、部屋の電気が点いた。みんなが戻ってきたらしい。
「あれ、美紅いるじゃん。さっき来たときにいなかったから、みんな心配してたんだ。……一応病人だし。」
「ごめん。ホールに行ってたの。それに、もう大丈夫だから。」
「ホール?急にトランペットでも吹きたくなったの?」
「ううん、そうじゃなくて、ピアノの練習をしにいったの。毎日弾かないと上手くならないから。」
みんながわたしを驚きの目で見つめてくる。これってそんなに変なことかな。
「美紅、偉すぎ。わたしだったらそんなこと出来ないよ。」
と亜由美。
うんうん。とほかのみんなも頷く。
「そうかな。毎日の習慣になってるから、弾かないと逆に調子でなくて。」
「でも、体調悪い時までは好んでやらないよ。やっぱり努力家は違うなー……。」
わたしはそんなつもりは無いんだけど、みんなからはそう見えているのかな?
「わたしって努力家なのかな。」
それがどうしも気になってしまう。特に今のわたしには。
「少なくともわたしはそう思うよ。」
と亜由美は言う。他のみんなはさっきよりも力強く頷く。そう見られてると思うと、ちょっと自分に自信がついてくる。。
先輩も、この前同じことを言っていた。『美紅は努力家だから、将来困ることも少ないと思うよ。』と。
ならば、その努力家の力を今度は別の方面に使おう。努力の力を、今目の前に立ちはだかる高い壁を乗り越えるだけの勇気に変えて、本気でぶつかっていこう。
わたしは、いつの間にか自分の気持ちが晴れていることに気付く。さっきまでのモヤモヤとした何かが、すっきりと消えている。
みんな、ありがとう。
そう心の中でつぶやいて安心したわたしは、ちょっと早いけど、騒いでいるみんなを尻目にひとり布団に入って目を閉じた。
ホールに行く前も寝ていたから、寝ようと思っても全然眠気が襲ってこない。とりあえず、みんなの会話を子守唄にでもしよう。
『美紅、また寝ちゃったねー。』
『だねー。よっぽど疲れてたんだね。バスの中でもあんまり顔色良くなかったし。』
『まあ、あの山道の中をクネクネ上ってきたから、疲れるのも当然だよ。』
『確かに。酔わなかっただけマシかぁ。』
『車内でリバースされたら、二次被害が酷いしね。』
『このこと、美紅が起きてる前じゃ絶対話せないね。』
『どんな反論されるかは聞いてみたいけど。』
起きてます。聞いてます。
確かに、バスであんなクネクネした道を走ってたから疲れた。でも、本当はずっと考え事をしてて、体調が悪く見えただけだよ。
『それにしても、一途だねー。美紅。』
『うんうん。先輩意識しすぎてて、こっちがドキドキしてきちゃう。』
『実はさっきホールに行ったのも、先輩に会いに行くためだったとか?』
『えー、それは無いんじゃない?だって、美紅がいなくなって探してるときに、先輩がホールの方向に歩いてくの見たよ?』
『そうかー。じゃあその線はないか。』
『無いねー。』
え?バレてる?わたしが先輩のこと好きだってこと、もうみんなに知られちゃってるの?
信じられない。いつの間にそんな情報を仕入れたんだろう。でも、わたしが先輩が好きだってことは、誰にも一回も話してないから、多分勘付かれたんだろう。何か勘付かれそうな行動を起こただろうか。いや、そんなはずは無い。だって、先輩のことは想ってるだけで、なにも行動を起こしてはいないから。
『まあ、寝言に出てくる位だから、相当先輩のことを愛し続けてるんでしょ。』
『さすがのわたしでも、寝言に自分の好きな人の名前は出てこないと思うなあ。』
『それほど美紅が本気ってことでしょ。だから、今は優しい目で美紅を応援してあげることが、わたし達に出来ることじゃない?』
『うん。無理矢理くっつけようと思って裏で動くのも良くないしね。』
『ってことで、無駄な詮索はしちゃ駄目だよ?美紅のためだし。』
『そだね。恋する乙女は…ってやつでしょ?』
『そそ。美紅にとってはいい話題も小耳に挟んでるしね。』
『後はどっちが先に行動を始めるかだね。』
『まあそこら辺はお二人に任せるとして、わたし達も寝ない?明日もあるし、今日は疲れたし。』
『さんせー。わたしもうクタクタ。先生一日目からあそこまで飛ばしてくるとは思わなかったよ。』
『むー……。わたしももう駄目―。』
ドタバタと、寝支度をする音が聞こえる。それはやがて、布団に潜り込む布擦れの音に変わる。
カチッと音がして、部屋の電気が消える。
まさか、寝言に先輩の名前を出していたとは思わなかった。というか、自分が寝言を言うという事実さえも、初めて知った。それを考えると、逆に寝るのが怖くなる。今度は、先輩の名前を言ってしまうだけでなく、その想いさえも吐き出してしまうかもしれない。それを聞かれるのはさすがに困る。
わたしは、みんなが寝息を立てて寝静まるのを待ってから、どうか寝言を言いませんようにと願って、眠りに落ちた。
あ、そういえばホールに楽譜を置き忘れている。きっと、先輩が片付けとかしてくれると思うから、心配はしてないけど、明日の朝早起きして、ホールに取りに行こう。
……いつの間にか、わたしは先輩を頼りすぎていたみたいだ。いけないと分かっているけど、それはきっちりと片付けをしてしまう先輩が悪いに違いない。それは、わたしの直感だ。でも、こういう時の直感は当たる。だって、世間はそういう風に出来ているから。