合宿一日目 -3-
合宿一日目に自主練をするような酔狂な吹奏楽部員はいないだろうと高を括っていたら、意外なことにホールの電気が点いている。珍しい。一体誰だろうか。
重い扉を押し開ける。そこには、優雅にピアノの演奏する美紅の姿があった。
「美紅。」
美紅は肩をビクッと震わせ、その反動で音楽が止まる。
「……先輩?」
美紅が恐る恐るこっちを振り向く。体調が悪いと聞いていたけど、見た感じ体調が悪いと言う感じはしない。でも、大事を取って休んでいた方がいいと思うんだけど……。
「体調の方は、もう大丈夫なのか?明日までしっかりと休んでいた方が……。」
「はい。確かにそれは言われる通りなんですけど、夕食後にピアノの練習をするっていうことが、私の日課になってるので。練習しないと、下手になりますし。それに、身体の方も、さっきよりは調子がいいので。」
「でも、体調が悪いときでも無理にやる必要は無いんじゃないか?」
「いいえ、それじゃいけないんです。一日練習しないと、それを取り返すのに三日かかるってよく親から言われます。私自身、それを実感してますから。」
「そういうものなのか?」
「はい。そういうものです。楽をすると後で自分に帰ってくるんですよ。日進月歩・切磋琢磨という様に、日々の積み重ねがとても大切なんです。どれだけ続けられるかが、そのままどれだけ上達するかという所に直結してくるんです。」
「だから、美紅は毎日ピアノを弾くのか?」
「そうです。大きな成果の為になら、私はたとえ体の調子が悪くても練習をします。しないよりもした方がずっといいですから。」
「じゃあ、美紅にとっての大きな成果っていうのは何?」
「それは、将来音楽の先生になって、生徒達の毎日を、音楽で楽しくしていくことです。これは、昔からの夢なんです。音楽の力で、生徒達の笑顔がさらに輝くようになったら、それって素敵じゃないですか。」
「確かに。でも、今は教師をやっていくにしても、モンスターペアレントみたいな大きな問題があるけど、それでも大丈夫なのか?」
「何を言っているんですか。そんなの、今から気にしていてどうするんですか。それは、その問題に行き当たったときに考えればいいんですよ。でも、例えそのような状況になったとしても、私は必ずその壁を突破して見せます!」
饒舌に語っていく美紅が面白くて、吹き出しそうになってしまった。表情筋が緩む。
「そうか。すばらしい心構えだと思うよ。」
「はい!だから、先輩も日々の練習をもっと大切にして……って、ああ!」
美紅が、急に現実に戻されたような顔をしている。
「すいません!つい、ちょっと、語りすぎました。ごめんなさい……申し訳ないです。」
真っ赤な顔をして頭を下げてくる。その姿がとっても可愛らしかった。
「謝る必要ないって。それに、元気そうでよかった。そこまで心配する必要もないみたいだ。」
「心配かけました。すいません。明日からはしっかりと合奏に出ますから。」
「ああ。でも、無理だけはしないでくれよ。突然倒れられても困るし。」
すると、美紅はふてくされたような顔をして、
「私、そんな急に倒れるほどやわな身体してませんよ。」
と言った。
ふと
「先輩って、好きな人、いるんですか?」
と聞かれる。途端、辺りの静寂が緊張に変わる。
困った。美紅は下を向いているけど、その顔は紅潮しているのだろうか。
美紅のことが好きなのは自分でも確かな感情だと思う。でも、
『美紅だよ。』
と言ってしまったら、その後僕は、美紅にどんな顔をして話をすればいいんだろう。
だから、
「……まあ、いるよ。でも、その人の隅から隅まで好きかと言ったら、そうじゃないかもしれない。」
と言うしかない。
これは嘘だ。真っ赤な嘘だ。本当は、美紅の全てが好きで、寝ても醒めても彼女のことばかり考えている。でも、その気持ちを今、本人の前で打ち明けるような勇気は僕には無い。
嘘を吐くことは嫌いだけど、この場合仕方ない。
「そうですか……。」
溜め息混じりの返答。そして、
「私には、いますよ。その人のことを、隅から隅まで好きだって言い切れる人が。」
急だった。今まで、将来の理想論を必死に語っていた美紅が、真顔になって僕の目を覗き込んでくる。僕の目が捉える美紅の瞳は、どこまでも真っ直ぐで、どこまでも深かった。もう逃げられない。適当に流すことも出来ない。
……怖い。
これは、今までに見たことが無い目だった。部活中、メンバーと仲良く会話している美紅の楽しそうな目。昨日の夜のような、落ち込んでいるときの悲しそうで、泣きそうな目。真剣に楽器を吹いている時のまっすぐな目。そのどれにも当てはまらない、本気で人に何かを伝える時の目だった。
「先輩は、意思が甘いんじゃないですか?それじゃ、好きになってもらった人もきっと残念ですよ。本気で自分のことを思ってくれていない、中途半端な気持ち。そんな気持ちでずっとこの先もその人のことを思っていくんだったら、その想われている女性の方がかわいそうですよ。」
確かにそれは美紅の言う通りで、誰だって中途半端に想われるのは気持ちのいいものじゃない。それでも、そう言わなくてはいけない時もある。それが今。僕が好きな人は美紅で、でも美紅は今、精神的に不安定になっている。今僕が自分の想いをぶつけてしまったら、美紅はきっと壊れていく。僕の所為で。
自分の好きな人はずっと遠くに行ってしまう。美紅が好きな人も遠くに行ってしまうかもしれない。僕の所為で。
そうしたら、僕の居場所はどこにもなくなってしまう。僕が美紅に気持ちを伝える前に、美紅は僕から離れていってしまう、かもしれない。それは嫌だから、今はそう伝えるしかない。
「意思が甘いのは自分でも良く分かってるよ。でも、積極的に行っちゃまずい状況だってある。それが今なんだ。」
「それで、結局は相手の気持ちも分からないまま、全てを終わらせてしまうんですか?勝機が見込めなかったら、たとえ自分を犠牲にしてでも、プライドを守るんですか?」
「そうじゃない。今は時が悪いだけだ。何事もタイミングが大切だろう。」
「先輩、やっぱり逃げてますよ。部活でだけ人がいいなんて、虫が良すぎます。」
そういうなり、立ち上がって、ホールの出口へと向かっていく。
「私が好きな人は、そんなちっぽけなことで悩んでいるような人じゃありませんから。」
そう言って、出て行ってしまった。僕は唖然としたまま、その場を離れることが出来なかった。