一冊目、上巻
夕暮れ。夏の湿気に絞め殺されるような帰宅ラッシュの電車。
冷房はもう、まともに息をしていなかった。
満員の車窓に、まれに『いるはずのない何か』が映る──そんな噂がある。
頭が半分、潰れたように崩れた黒い男。
それを見た人間は、何の前触れもなく消える──らしい。
その話をはじめて目にしたのは、いつものニュースアプリだ。
眉をひそめた███は、指先でスワイプしただけだった。
だが数日後、バイト先の雑談で似た話が出た。
『意外と身近な非日常』
その言葉が、どこかに引っかかっていた。
忘れかけた記憶の隅っこに、ふせんでも貼られたみたいに。
「……よ」
この本を香澄は読んだことがあった。
でも、こんなに怖かったっけ?
ページをめくるたび、記憶が呼び覚まされていく。
初読のときに気づかなかった描写が、やけに鮮明に浮かんでくる。
昔は読み飛ばした、車内の温度や、窓に映る『異物』の輪郭までも。
まるで、今ここで起きている出来事かのように。
なんだか見覚えがあるような気がして、香澄は表紙を見返した。
けれど、過去の題名は霞のように曖昧で、記憶をさらっても帰ってこなかった。
字体も、装丁も、まるで思い出せない。
向かいから猫人の声が落ちてくる。
「……多分、あんたはこれ、読んだことないと思うぞ」
雷鳴が響く。
一瞬で、辺りの光が吸い取られたように暗くなった。
静かに雨が降りはじめた。
車内灯が点灯し、暖色の明かりが空間を照らし戻す。
香澄は眉を寄せ、首をかしげながら顔をあげた。
「どうしてそう思うの? あなたとはさっきあったばかりじゃない」
「そうだね。まぁ……変なのひいた奴は大体そう、だ」
それきり、みゃーさんはふわりと目を閉じた。
窓の外を流れ落ちる雨と景色のように、その表情はすぐに意味をなくした。
本へと香澄の意識が吸い込まれる。
頭の奥でまたぞろりと、声たちがざわつき始める。
けれど、読み進める──ノイズとせめぎ合いながら。
███はその噂をSNSで、何度か見かけるようになっていた。
ふと写真を拡大し、窓を確認する。
黒い影が、ぽつんと映っている。
流石に、顔までは見えないな。
投稿を閉じて、スレッドに戻ろうとした──その瞬間だった。
写真が、勝手にスレッドの上に浮かび上がる。
画面の隅にあったはずのクローズマークは、消えていた。
タップする指が滑る。
いや、バグか? スマホの挙動が妙に重い。
ひゅっと、息がとまる。
黒い影が──こちらを見た。気がした。
写真の中の『それ』と、一瞬だけ視線が合う。
画面が、ぴたりと止まった。
電源ボタンも、アプリの切り替えも効かない。
液晶の内側で、指先が、──誰かと重なる。
次の瞬間、スマホの電源が落ちた。
……一体、なにがおきたのか。
指が何かに触れた。
ごくかすかに、硬くて、冷たいものに。
まるで――スマホをタップしたような感触。
香澄は、息を吸うのを忘れていた。
もちろん、気のせいだ。……分かってる。
次の日。
███は一週間ほど学校を休んでいたクラスメイトふたりが、行方不明になっていたことを知る。
目立たない、静かな女子だった。
だが──どうやら、動画配信をしていたらしい。
「家族が捜索願を出した」とか、
「配信のために姿を消したんじゃないか」とか、
「ヤバい企画に手を出したんじゃ?」とか。
教室の空気は、妙に明るかった。
非日常を軽口でかみ砕くように、噂が飛び交っていた。
それを横目に、バイト先へ向かう。
店長は電話中だった。
『……え、昨日から帰ってない?
――電車を降りた記録がないって……そんな馬鹿な。
単に不具合でしょ。どうせどこかで遊んでますよ。
……とにかく、今日は休みにしておきます。
何かありましたら、また連絡ください』
バイト仲間も消えていた。
週四で詰めて、無断欠勤なんかしたことない奴だ。
気が利くし、話もうまくて、店でも信頼されていた。
何も言わずに、突然いなくなるような奴じゃない。
あいつとは、漫画の趣味が合っていて、情報交換や貸し借りをよくしていた。
ふと、彼からの未読メッセージが目に入る。
『窓にようこそ』
意味のわからない文面だった。
――ミーッ!ミーッ!ミーッ!
「う」
香澄は、スマホの振動にびくりと顔をあげた。
それまで静まり返っていた空間に、不意打ちのように響いた。
なんだろう。
直感だった。
でも香澄は、スマホを開かずにそっと視線を落とした。
これは──全部、読み終わってから見た方がいい。
もう一度、ノイズの雲を突き抜ける。
さっきまでより鋭くて細かくてずっと分厚い。
通知音でざらついた心が、そのまま文の上を引きずられていく。
それでも、進む。
ここで目を逸らしたら──あの気配が、こちらを見る気がした。
……だから、読む。
顔は、あげない。
閉じるその瞬間まで。私は本の中、ここにいる。
試しに、と失踪したクラスメイトの動画を検索する。
見つけたのは、何の変哲もない短いダンス動画。
音楽に合わせて、彼女たちはいつも通りの動きで笑っていた。
……ただし。
最後の一本だけ、異様だった。
動きも音もない。
電車の中らしい、揺れる景色。
ふたりはカメラの前に立ち、███をみて無表情のまま、同時に口を動かした。
『……窓にようこそ』
それだけ。
その瞬間、画面が暗転し、動画は終わった。
次に確認したときには、すでにその投稿は削除されていた。
よくつるむ仲間も行方不明になった。
グループチャットには通学に使う車両の車窓の写真。
『窓にようこそ』の言葉を最後に。
仲間たちは荒れた。
「ネタだろ」と笑うやつ。
「次は俺だ」と喚き出すやつ。
その風景が███の目が止まった。
いつも通る最寄り駅の隣、車両基地の横、丁度跨線橋がかかっている辺り。
よく知っている。なのに──
窓のなか。
なぜか、内側から誰かが覗いているように見えた。
一度そう思ったら、もう視線が外せなかった。
──なんでこんな写真を残して、いなくなるんだ。
辺りに嫌な気配が広がっていくのを、香澄は感じていた。
まるで、空気の中に濃い靄が混じったようで。
もう視線もあげたくない。
みゃーさんのしっぽは穏やかに上下している。
寝入っているのかもしれない。
今はその静けさが、ありがたかった。
仲間と別れ、電車で帰宅する最中。
窓辺をなんとなく避けて、通路の中央に立つ。
邪魔なのは理解しているが、どうしても窓際は嫌だった。
乗車率140%はありそうな混み合った車内では、客が視線を正面に向けていることは少ない。
だから、彼女は余計に目立ったのだ。
窓の外を、食い入るように見つめる、その『彼女』の姿が。
そのときだった。
窓の向こうから、ぬっと黒い腕が伸びてきた。
音もなく、影のように、彼女が息を呑む間もなく──
その腕は彼女の肩をつかみ、引き摺り込んだ。
水に落ちるように、身体ごと。
音もなく、窓の中へと消えていった。
思わず緊急停止ボタンを押そうと視線を動かして、固まった。
███は息を呑んだ。
車内には、そんな姿はなかった。
けれど──停止ボタンの真横の窓。
そこに、いた。
真っ黒な男。頭の上半分がない。
にやにやと、笑っていた。
――ミーッ!ミーッ!ミーッ!
香澄のスマホがまた振動した。
身体がびくりと揺れたが、顔はあげなかった。
『そんなことしたって、戻らないよ』
『あんたには無理だったんだよ、最初から』
『……平気な顔して読んでるんだね』
……また、ノイズの雲に引き戻された。
だが、これくらいなら、まだ地面は見えている。
「こ」
小さく、どこからか──いや、電車の軋みか。
咄嗟に███は視線を落とした。
着信。バイト先で消えた奴の名前が画面にあった。
息が止まった。
電話を無視して、目を閉じた。
深呼吸。さっき読んだ料理漫画を思い出す。
再現するなら何が必要だったか──材料、分量、調理の手順。
アナウンス。
ドアの開く音。
周囲と同じように、視線はそのまま。
下を見たまま、電車を降りた。
着信は履歴から消えていた。
ほっとした瞬間だった。
『窓をみて』
後ろから、耳元でささやき声がした。
知らない──女性の声。
香澄は一瞬、本を閉じかけた。
そのとき、本の隙間に、ふわりと何かが挟まる。
……黒いかぎしっぽだった。
「今はだめ。視線はあげない。
――カスミ、本を見て。ちゃんと読み切らないと」
「で……でも、みゃーさん」
「駄目だ」
強い調子だった。
香澄はしぶしぶ、本の世界へと目を戻した。
ページの向こうへ、再び深く、潜っていく。
──███は、震えていた。
足が動かない。呼吸ができているのかも怪しい。
そんな彼の腕を、誰かがぐいっと引いた。
意識が追いつくより早く、改札の外へと駆け出していた。
見上げると、そこには見知った顔があった。
同じ駅を使う──仲間のひとり。
「見てたんだな……お前も」
言葉は、それだけだった。
だが、それで十分だった。
二人は言葉少なに、その“出来事”を確かめ合い、
どうにか逃げきる方法を見つけようと決めた。
──翌日。
バイトが休みの███は、仲間と連れ立って図書館へ向かう。
地方新聞の縮刷版を一枚一枚、めくっていく。
過去に──同じような『消え方』をした者はいなかったか。
成果はなかなか出なかった。
当たり前だ──裏付けのない情報が、新聞に載るはず、ない。
だが、閉館間際。
仲間がぴたりと手を止めた。
「これ……」
指差された記事は、小さかった。
薄赤く日焼けした紙面に、古びた活字が並んでいる。
──数十年前、夕暮れ時。
酔った大学生が、車両基地隣のあの跨線橋の手すりに腰を掛け、バランスを崩して転落した。
ちょうど高架下を通っていた上下線の列車に挟まれ、頭部を失って即死。
死亡したのは都内の大学に通う二年生、男性。
通勤時間帯を直撃し、現場は一時騒然となった。
車両の窓ガラスには、しばらく血痕が残っていたという──
「……頭が、ない」
仲間が呟いた。
脳裏に、あの“黒い男”が浮かぶ。
真っ黒な影のような体。
そして、頭の上半分が──なかった、あの存在。
まさか、あれは──
偶然にしては、気味が悪すぎる。
ふたりは、図書館の隅で色々話し合ったが、明確な対策は見つからなかった。
仲間が投稿した最後の写真をふと見返した。
通学電車の車窓を撮ったもの。
あの“黒い何か”の、肩越しに、見覚えのある人影がある。
写真に──
クラスメイトのふたり、仲間と、バイト先の奴。……そして、あの彼女の姿が、写っている。
もういない、五人の顔が。
無表情で、窓の向こうから、こちらを見ていた。
一気に、全身から血の気が引いた。
骨の髄まで、冷水に沈んだような感覚。
あの写真は、“彼女が窓に取り込まれる”前に撮られたはずだ。
……なのに、なぜ。
どうして、彼女はもう、“中にいる”んだ?
虚勢をはる仲間や、しばらく見ないと宣言する仲間でグループチャットはめちゃくちゃだ。
でも、だからこそ、気づいたことを投稿することもできなかった。
気づけば、███は電車に乗っていた。
静まり返った車内。
握りしめたスマホの画面には、検索履歴がいくつも並んでいる。
……いつ、乗った?
誰と、どこで?
記憶が、途切れている。
スマホの中には古びたまとめサイトが表示されていた。
民俗学カテゴリ、更新は十年前。
それでも、惹かれるように指でスクロールする。
『開発中に、謎の七人』
五十年以上昔、地元の線路敷設の際、古い山道が開かれた。
作業中、連続して事故が起き、現場では「七人の修行僧らしき影」が目撃された。
対策として、開かれた道に道祖神が設置されたという。
そして今──その石碑は、移設され、跨線橋の隅に据えられている、とあった。
……だが。
その場所は███が毎日通るところだら。
あのコンビニ、横断歩道……跨線橋のたもと。
目を閉じれば、舗装のヒビまで思い浮かべられる。
けれど──
そんな道祖神、見たことがない。
一度も。
……本当に、そこにあるのか?
気づけば、昨日の彼女が消えた辺りに差し掛かっていた。
ふと、じっとりとねばるような視線を感じる。
スマホをポケットに仕舞おうとした指先が、滑った。
……まさか、そんな。
駅までは──あと数分。
何も考えずに、ただ通り過ぎればいい。
目を閉じ、昨日と同じように料理の続きを思い浮かべた。
材料、分量、火加減……再現するには、どこを工夫すべきか。
着信音が鳴る。
無視した。
電車が減速し、レールの軋みが低く伸びる。
ガタン。ガタン。ガ──ゴトン。
ゆっくりと扉が開く音が、耳の奥でひらいた。
乗客の流れに紛れ、視線を落としたまま歩いた。
無心で改札を抜けると、ようやく足に力が戻った。
帰り道、跨線橋のたもとで立ち止まる。
曲がり角の茂みの奥。そこに、ぽつんと石碑があった。
想像よりもずっと小さく、半ば草に埋もれている。
一歩、また一歩、近づかなければ見つけられないような──そんな場所に。
一見して、道祖神ではないとわかった。
男女ふたりの像ではない。彫られているのはもっと、多い。
石碑の上部が割れ、失われて、はっきりとは分からない。
七人。そうだったのだろう。
頭のない像が七つ。
それぞれの胴体は、まるで順番を守るように、静かに並んでいた。
声にならない何かを喉の奥に押し込む。
すぐに視線を逸らし、███は足早にその場を離れた。