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書痴の列車  作者: 小狐紺
3/4

一冊目、上巻




夕暮れ。夏の湿気に絞め殺されるような帰宅ラッシュの電車。

冷房はもう、まともに息をしていなかった。


満員の車窓に、まれに『いるはずのない何か』が映る──そんな噂がある。

頭が半分、潰れたように崩れた黒い男。

それを見た人間は、何の前触れもなく消える──らしい。


その話をはじめて目にしたのは、いつものニュースアプリだ。

眉をひそめた███は、指先でスワイプしただけだった。


だが数日後、バイト先の雑談で似た話が出た。

『意外と身近な非日常』

その言葉が、どこかに引っかかっていた。

忘れかけた記憶の隅っこに、ふせんでも貼られたみたいに。



「……よ」


この本を香澄は読んだことがあった。


でも、こんなに怖かったっけ?


ページをめくるたび、記憶が呼び覚まされていく。

初読のときに気づかなかった描写が、やけに鮮明に浮かんでくる。

昔は読み飛ばした、車内の温度や、窓に映る『異物』の輪郭までも。

まるで、今ここで起きている出来事かのように。


なんだか見覚えがあるような気がして、香澄は表紙を見返した。

けれど、過去の題名は霞のように曖昧で、記憶をさらっても帰ってこなかった。

字体も、装丁も、まるで思い出せない。


向かいから猫人の声が落ちてくる。

「……多分、あんたはこれ、読んだことないと思うぞ」


雷鳴が響く。

一瞬で、辺りの光が吸い取られたように暗くなった。

静かに雨が降りはじめた。


車内灯が点灯し、暖色の明かりが空間を照らし戻す。

香澄は眉を寄せ、首をかしげながら顔をあげた。


「どうしてそう思うの? あなたとはさっきあったばかりじゃない」


「そうだね。まぁ……変なのひいた奴は大体そう、だ」


それきり、みゃーさんはふわりと目を閉じた。

窓の外を流れ落ちる雨と景色のように、その表情はすぐに意味をなくした。



本へと香澄の意識が吸い込まれる。

頭の奥でまたぞろりと、声たちがざわつき始める。

けれど、読み進める──ノイズとせめぎ合いながら。




███はその噂をSNSで、何度か見かけるようになっていた。


ふと写真を拡大し、窓を確認する。

黒い影が、ぽつんと映っている。

流石に、顔までは見えないな。

投稿を閉じて、スレッドに戻ろうとした──その瞬間だった。


写真が、勝手にスレッドの上に浮かび上がる。

画面の隅にあったはずのクローズマークは、消えていた。


タップする指が滑る。

いや、バグか? スマホの挙動が妙に重い。


ひゅっと、息がとまる。

黒い影が──こちらを見た。気がした。

写真の中の『それ』と、一瞬だけ視線が合う。


画面が、ぴたりと止まった。

電源ボタンも、アプリの切り替えも効かない。

液晶の内側で、指先が、──誰かと重なる。

次の瞬間、スマホの電源が落ちた。


……一体、なにがおきたのか。




指が何かに触れた。

ごくかすかに、硬くて、冷たいものに。

まるで――スマホをタップしたような感触。


香澄は、息を吸うのを忘れていた。

もちろん、気のせいだ。……分かってる。




次の日。

███は一週間ほど学校を休んでいたクラスメイトふたりが、行方不明になっていたことを知る。


目立たない、静かな女子だった。

だが──どうやら、動画配信をしていたらしい。


「家族が捜索願を出した」とか、

「配信のために姿を消したんじゃないか」とか、

「ヤバい企画に手を出したんじゃ?」とか。


教室の空気は、妙に明るかった。

非日常を軽口でかみ砕くように、噂が飛び交っていた。


それを横目に、バイト先へ向かう。

店長は電話中だった。


『……え、昨日から帰ってない?

 ――電車を降りた記録がないって……そんな馬鹿な。

 単に不具合でしょ。どうせどこかで遊んでますよ。

 ……とにかく、今日は休みにしておきます。

 何かありましたら、また連絡ください』


バイト仲間も消えていた。

週四で詰めて、無断欠勤なんかしたことない奴だ。

気が利くし、話もうまくて、店でも信頼されていた。

何も言わずに、突然いなくなるような奴じゃない。


あいつとは、漫画の趣味が合っていて、情報交換や貸し借りをよくしていた。


ふと、彼からの未読メッセージが目に入る。


『窓にようこそ』


意味のわからない文面だった。



――ミーッ!ミーッ!ミーッ!

 

「う」


香澄は、スマホの振動にびくりと顔をあげた。

それまで静まり返っていた空間に、不意打ちのように響いた。


なんだろう。


直感だった。

でも香澄は、スマホを開かずにそっと視線を落とした。


これは──全部、読み終わってから見た方がいい。


もう一度、ノイズの雲を突き抜ける。

さっきまでより鋭くて細かくてずっと分厚い。

通知音でざらついた心が、そのまま文の上を引きずられていく。


それでも、進む。

ここで目を逸らしたら──あの気配が、こちらを見る気がした。


……だから、読む。

顔は、あげない。

閉じるその瞬間まで。私は本の中、ここにいる。




試しに、と失踪したクラスメイトの動画を検索する。

見つけたのは、何の変哲もない短いダンス動画。

音楽に合わせて、彼女たちはいつも通りの動きで笑っていた。


……ただし。

最後の一本だけ、異様だった。


動きも音もない。

電車の中らしい、揺れる景色。


ふたりはカメラの前に立ち、███をみて無表情のまま、同時に口を動かした。


『……窓にようこそ』


それだけ。


その瞬間、画面が暗転し、動画は終わった。

次に確認したときには、すでにその投稿は削除されていた。



よくつるむ仲間も行方不明になった。

グループチャットには通学に使う車両の車窓の写真。

『窓にようこそ』の言葉を最後に。


仲間たちは荒れた。

「ネタだろ」と笑うやつ。

「次は俺だ」と喚き出すやつ。


その風景が███の目が止まった。

いつも通る最寄り駅の隣、車両基地の横、丁度跨線橋がかかっている辺り。


よく知っている。なのに──


窓のなか。

なぜか、内側から誰かが覗いているように見えた。


一度そう思ったら、もう視線が外せなかった。


──なんでこんな写真を残して、いなくなるんだ。




辺りに嫌な気配が広がっていくのを、香澄は感じていた。

まるで、空気の中に濃い靄が混じったようで。

もう視線もあげたくない。


みゃーさんのしっぽは穏やかに上下している。

寝入っているのかもしれない。

今はその静けさが、ありがたかった。



仲間と別れ、電車で帰宅する最中。

窓辺をなんとなく避けて、通路の中央に立つ。

邪魔なのは理解しているが、どうしても窓際は嫌だった。


乗車率140%はありそうな混み合った車内では、客が視線を正面に向けていることは少ない。


だから、彼女は余計に目立ったのだ。

窓の外を、食い入るように見つめる、その『彼女』の姿が。


そのときだった。


窓の向こうから、ぬっと黒い腕が伸びてきた。

音もなく、影のように、彼女が息を呑む間もなく──


その腕は彼女の肩をつかみ、引き摺り込んだ。


水に落ちるように、身体ごと。

音もなく、窓の中へと消えていった。


思わず緊急停止ボタンを押そうと視線を動かして、固まった。

███は息を呑んだ。


車内には、そんな姿はなかった。

けれど──停止ボタンの真横の窓。


そこに、いた。

真っ黒な男。頭の上半分がない。


にやにやと、笑っていた。




――ミーッ!ミーッ!ミーッ!


香澄のスマホがまた振動した。

身体がびくりと揺れたが、顔はあげなかった。


『そんなことしたって、戻らないよ』

『あんたには無理だったんだよ、最初から』

『……平気な顔して読んでるんだね』


……また、ノイズの雲に引き戻された。

だが、これくらいなら、まだ地面は見えている。



「こ」


小さく、どこからか──いや、電車の軋みか。



咄嗟に███は視線を落とした。

着信。バイト先で消えた奴の名前が画面にあった。


息が止まった。


電話を無視して、目を閉じた。

深呼吸。さっき読んだ料理漫画を思い出す。

再現するなら何が必要だったか──材料、分量、調理の手順。


アナウンス。

ドアの開く音。


周囲と同じように、視線はそのまま。

下を見たまま、電車を降りた。


着信は履歴から消えていた。



ほっとした瞬間だった。




『窓をみて』


後ろから、耳元でささやき声がした。

知らない──女性の声。




香澄は一瞬、本を閉じかけた。

そのとき、本の隙間に、ふわりと何かが挟まる。


……黒いかぎしっぽだった。


「今はだめ。視線はあげない。

 ――カスミ、本を見て。ちゃんと読み切らないと」


「で……でも、みゃーさん」


「駄目だ」


強い調子だった。

香澄はしぶしぶ、本の世界へと目を戻した。


ページの向こうへ、再び深く、潜っていく。




──███は、震えていた。

足が動かない。呼吸ができているのかも怪しい。


そんな彼の腕を、誰かがぐいっと引いた。

意識が追いつくより早く、改札の外へと駆け出していた。


見上げると、そこには見知った顔があった。

同じ駅を使う──仲間のひとり。


「見てたんだな……お前も」


言葉は、それだけだった。

だが、それで十分だった。


二人は言葉少なに、その“出来事”を確かめ合い、

どうにか逃げきる方法を見つけようと決めた。



──翌日。

バイトが休みの███は、仲間と連れ立って図書館へ向かう。

地方新聞の縮刷版を一枚一枚、めくっていく。


過去に──同じような『消え方』をした者はいなかったか。


成果はなかなか出なかった。

当たり前だ──裏付けのない情報が、新聞に載るはず、ない。


だが、閉館間際。

仲間がぴたりと手を止めた。


「これ……」


指差された記事は、小さかった。

薄赤く日焼けした紙面に、古びた活字が並んでいる。



──数十年前、夕暮れ時。


酔った大学生が、車両基地隣のあの跨線橋の手すりに腰を掛け、バランスを崩して転落した。

ちょうど高架下を通っていた上下線の列車に挟まれ、頭部を失って即死。


死亡したのは都内の大学に通う二年生、男性。

通勤時間帯を直撃し、現場は一時騒然となった。

車両の窓ガラスには、しばらく血痕が残っていたという──


「……頭が、ない」

仲間が呟いた。


脳裏に、あの“黒い男”が浮かぶ。

真っ黒な影のような体。

そして、頭の上半分が──なかった、あの存在。


まさか、あれは──


偶然にしては、気味が悪すぎる。


ふたりは、図書館の隅で色々話し合ったが、明確な対策は見つからなかった。


仲間が投稿した最後の写真をふと見返した。

通学電車の車窓を撮ったもの。


あの“黒い何か”の、肩越しに、見覚えのある人影がある。


写真に──


クラスメイトのふたり、仲間と、バイト先の奴。……そして、あの彼女の姿が、写っている。


もういない、五人の顔が。

無表情で、窓の向こうから、こちらを見ていた。


一気に、全身から血の気が引いた。

骨の髄まで、冷水に沈んだような感覚。


あの写真は、“彼女が窓に取り込まれる”前に撮られたはずだ。


……なのに、なぜ。


どうして、彼女はもう、“中にいる”んだ?


虚勢をはる仲間や、しばらく見ないと宣言する仲間でグループチャットはめちゃくちゃだ。


でも、だからこそ、気づいたことを投稿することもできなかった。




気づけば、███は電車に乗っていた。

静まり返った車内。

握りしめたスマホの画面には、検索履歴がいくつも並んでいる。


……いつ、乗った?

誰と、どこで?


記憶が、途切れている。


スマホの中には古びたまとめサイトが表示されていた。

民俗学カテゴリ、更新は十年前。

それでも、惹かれるように指でスクロールする。


『開発中に、謎の七人』


五十年以上昔、地元の線路敷設の際、古い山道が開かれた。

作業中、連続して事故が起き、現場では「七人の修行僧らしき影」が目撃された。


対策として、開かれた道に道祖神が設置されたという。


そして今──その石碑は、移設され、跨線橋の隅に据えられている、とあった。


……だが。


その場所は███が毎日通るところだら。


あのコンビニ、横断歩道……跨線橋のたもと。

目を閉じれば、舗装のヒビまで思い浮かべられる。


けれど──


そんな道祖神、見たことがない。

一度も。

……本当に、そこにあるのか?


気づけば、昨日の彼女が消えた辺りに差し掛かっていた。

ふと、じっとりとねばるような視線を感じる。


スマホをポケットに仕舞おうとした指先が、滑った。

……まさか、そんな。


駅までは──あと数分。

何も考えずに、ただ通り過ぎればいい。


目を閉じ、昨日と同じように料理の続きを思い浮かべた。

材料、分量、火加減……再現するには、どこを工夫すべきか。


着信音が鳴る。

無視した。


電車が減速し、レールの軋みが低く伸びる。

ガタン。ガタン。ガ──ゴトン。

ゆっくりと扉が開く音が、耳の奥でひらいた。


乗客の流れに紛れ、視線を落としたまま歩いた。

無心で改札を抜けると、ようやく足に力が戻った。



帰り道、跨線橋のたもとで立ち止まる。

曲がり角の茂みの奥。そこに、ぽつんと石碑があった。


想像よりもずっと小さく、半ば草に埋もれている。

一歩、また一歩、近づかなければ見つけられないような──そんな場所に。


一見して、道祖神ではないとわかった。

男女ふたりの像ではない。彫られているのはもっと、多い。

石碑の上部が割れ、失われて、はっきりとは分からない。


七人。そうだったのだろう。


頭のない像が七つ。

それぞれの胴体は、まるで順番を守るように、静かに並んでいた。


声にならない何かを喉の奥に押し込む。

すぐに視線を逸らし、███は足早にその場を離れた。



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