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書痴の列車  作者: 小狐紺
2/4

乗車



指先が冷たい。

頁を繰っていたはずの手が、透明なガラスを撫でていた。


──窓?


車両に揺られていた。

でも、いつもの電車じゃない。


アンティーク風? まあ、いい響き。

でも趣味にしては、完成度が高すぎない?


おしゃれかよ。……いや、誰の趣味?



……天井は、白いアーチ。

紙のように淡く、壁で穏やかなランプが揺れていた。


壁には連なる大きな窓。

そこから流れる陽ざしが、艶のある木目を照らしていた。


4人がけの赤紫のボックスシート。

飴色の床は磨き抜かれ、ひとつの汚れもない。


窓の縁は幅広く、小さなテーブル代わりだ。

その上にはひなあられと、冷えた緑茶のペットボトル。



悪くないけど、演出くさい。


音がまるでない。人の気配も、息遣いすら。


磨き抜かれた木製のひじかけ。

やけにすべらかで手に吸いつくように馴染む。


……どれだけの人がこのひじかけを撫でてきたのだろう。

そしてその人たちは、今、どこに。



車窓の向こうに広がっていたのは、見知らぬ風景。

果てしなく続く田んぼの先。

山の輪郭は、霧に溶けてぼやけていた。

その上を、茜空を追いかけるように、青灰の雲が駆けてゆく。


ただ、その雲だけが──やけに、現実的だった。


なんの特徴もない景色に、ここがどこなのか、まるで検討がつかない。


──いつ、この車両に乗った?

ひなあられ、春の節句くらいでしかみかけないのに。


……これ、どこのやつだろう?

顎をさわって思わず考えこむ。


だが香澄がよく見かける、関東系のカラフルな甘い米菓くらいしかわかるはずもなかった。


線路の節目で、車体がきしむ。その度、足元がわずかにしなる。

柔らかく沈む床。つややかで、それでいて頼りない。


本の中に入り込んでしまったような錯覚は、これが初めてではない。

けれど、今回は本当に周囲が変わっていた。



本を読んでいるうちに、世界が遠のいていく。

そんな経験は、今までも何度もあった。

でもこれは、違う。


まるで、自分が物語に入ったのではない。

物語のほうが──続きを、読み始めたような。


でもだからって、今すぐ、電車から降りる方法なんてない。

だったらありがたく、本を読んでるしかない。


仕方ない、うん。

仕方ないでしょ!



──本は?

持ってない訳ない。本なしでは居られないんだから。


辺りを見回し、座席間際の床に落ちているのを見つけて拾い上げる。

汚れてない、折れて――る。

……うん。栞代わりにこの端を折る癖は私のだ。


本好きにはあるまじき行為、だとは知ってはいる。

だから、私物にしかしない。


本。

これがなきゃ、落ち着かない。


まだ一ページしか読んでない。

たくさん読めることに、心が弾む。


どんな展開になるのか。

どんな色の本なのか。

わくわくする。

きっとお宝のような言葉が、眠っているはずだ。



静かにそっと本を広げる。

字に目を落とした途端、頭の奥が軋みはじめる。


『やめろ』『お前のじゃない』『また逃げるのか』

『返信、返したの?』『また図書室にいたの?』

『話を聞きなさい』『ほら、また逃げた』



……いつものことだ。

香澄は無視して文字を追う。毎回こう。


世界は、いつだってうるさい。


読みはじめには、いろんな『ノイズ』が混ざってくる。

けれど沈み込んでしまえば、こっちのもの。


少しずつ、文字が、脳の内側に染み込み、溢れてくる。

音が遠のき、感覚も曖昧になる。

沈んで、沈んで、何もかもが遠ざかっていく。


その距離だけが、心を繋ぎ止める。



ここは、豊かで静かだ。

 




がっしょん


遠くの連結扉が、不意に音をたてて開く。

ボックス席の背もたれ越しには紺の制帽くらいしか見えない。


かつ……こつ、かつ……こつ――

重たげな足音と共に、こちらへ向かってくる。


現れたのは制帽を目深に被った車掌。

くたびれた紺に金の縁取りの制服。下は灰色。

モップと黒い液体の入った重そうなバケツを抱え、何やらぶつぶつ呟いている。


「……ちっ、今日は客が多いな……」


香澄は本から目を離さずに首をかしげた。

多いって──背もたれ越しにも、人の気配はない。


私しか乗ってなくない……?


連結扉の向こうは暗い。

客が乗っていれば暗いということもないだろう。


まあ、本の中の出来事に比べれば、どうでもいいことだ。



……


…………


「なぁ、あんた……なに持ってんの?」

猫耳をぴくぴくさせて、子どもが尋ねてきた。


「……?!」


――子ども……

いた、の……?


ぴんと跳ねる三角耳に、全身を覆う外套からはみ出た黒いカギしっぽ。

尾はいらだつように揺れている。


「……ね、こ……こねこ?」


本の余韻からかえってこれないまま、みたものを呟く。


「子猫じゃねぇよ。猫人だ。

 元猫、現人間、……たまに、猫、だけどさ」


「びょう、じん……」


まだふわふわと夢見心地のまま、香澄はただ目を白黒させた。


「うるさいな、そうだよ。

 それよりあんた。何持ってんだ?

 この匂いの元はなんなのさ」


どこか切羽詰まったような口調。

うるさい。

けど、悪い感じはしない。


「匂い……持ってる? ……えっと、本?」


「違う。本じゃないやつだ」


黒艶の短髪を揺らしながら、猫人は香澄のまわりをぐるぐると嗅ぎ回る。

耳がぴぴっと揺れ、瞳がするどく光った。


指さすポケットに手を突っ込めば、かさりと揺れる紙片。

スマホの定期を愛用している香澄には、まるで見覚えのないものだった。


切符だ。



「……はん、帰還の切符か」


「きかん……?」

「ん……? あれ、あんた……知らないの?」


猫人は香澄の肩をがしっとつかみ、顔をぐっと近づける。

真剣な瞳が、香澄の奥を覗き込んでいた。


「乗るの、初めて? 自分の意志じゃなく。

 本読んでて、気づいたらここ?

 まさか――『うたた寝読み』?!」


矢継ぎ早の質問に、香澄の思考はようやく現実をとり戻した。

絡まれるのはごめんだと、冷たく言い返した。


「……乗った覚えはないけど。

 でも、毎日電車に乗ってれば、大体そんなもんでしょ?」


眉ひとつ動かさずに、香澄は猫人の目を見返す。


「ってか、あなた誰よ? 

 におい嗅ぐより、名乗るのが先でしょ」


「オレ? みゃー。

 みゃーさんでいい。あんたは?」


しまった。追い払おうと思ったのに。

逆に名乗らなきゃいけなくなった。


「…………藍墨」

「あいじゅみ?」

「あいずみ!」

「あい、じゅ、み?」


どうやら言いづらいらしい。

香澄は諦めた。


「……香澄でいいよ」

「カスミデイイヨ?」


「……香澄でいいってば」

「カスミデイッテバ?」


真顔で首を傾げられても。

深呼吸して、再度伝える。


「……カスミ」

「カスミ」


「そう。『カスミ』」


「カスミ、ね。分かった。

 ……あー、本当に最近多いんだよなー、そういうの。

 うたた寝読み」


猫人――みゃーさんは、しっぽをみょんみょんと振りながら、だらけた声で続けた。


「うたたね、よみ? 寝てるんじゃなくて?」


「あのさ、オレの言うこと、よーく聞きな?」


みゃーさんの金色の瞳が細められる。

闇の中に細い線が浮かび上がるようだ。


「その切符は、『帰還』の切符。

 ちゃんと持ってれば、あんたは帰れる。でも――」


言葉をためたその眼差しに、切っ先の鋭さが宿る。


「なくしたり、奪われたりすると……

 ──この列車から、降りられなくなる」


香澄は思わず、自分の手を見下ろした。

本のしおりのような、小さな紙片。


よく見ると、繊細な文字で駅名のようなものが書かれていた。


「あれ? 二枚ある」


「は? 二枚……?」


猫人の耳がピクリと動いた。


「マジか……ふーん……」


その声は低く、驚きだけではないように見えた。

どこか、重たい。


「この切符が欲しいの?」


香澄の問いに、猫人は一拍おいて、かぶりを振った。


「いや、オレはいらない。探すもんがあるからな」


そして、声をひそめる。


「だけど──それ、他のやつには絶対に見せるなよ」


「え……?」


「ここじゃ、命以上に価値がある。

 帰りたくても帰れない奴らが山ほどいるからな。

 そんな連中に見せたらどうなるか、分かるだろ?」


猫の目がすっと細くなる。


「持ってる素振りも出さない。気配すら嗅がれるぞ」


「……はあ」


たかが切符だ。買えばいいだけなのに?


「駅が見えても、切符がなきゃ。

 手段を選ばない奴も、いる。

 見つかったら、容赦なく奪うだろうな。あんたの分まで。

 ん……? あっ、それ!」


みゃーさんは今度は香澄が持つ本に目が釘付けになっていた。

くるくるよく動く表情は、なんだか楽しそうだ。


「本?」


「違う、その赤いぴらぴら」

「……これ? いつの間に挟まったんだろ。あなたの栞?」


「シ──オリ……?」

首を傾げた無垢な目に、香澄は言葉を考えながら紡いだ。


「本の目印。

 ここまで読みました、ここから読めばいいですよ、って印」


「ふうん……これ、飼い主が作った、小さいオレなんだ」


その赤いリボンのついた栞は、黒猫の形をしていた。


「……あなたの飼い主が?」


「そうそう!オレの身体をガシガシ毛繕いしたと思ったら、

 抜けた毛でちまちま作ってさ。なんか……長い爪でちくちく刺してた」


「長い爪……ああ、ニードルフェルティングね。

 なるほど、このフェルトの艶、あなたの抜け毛だったのね」


香澄が感心したように呟くと、黒猫はぴくりと耳を動かした。


「抜け毛言うな。誇り毛だ、誇り毛」


「ご、ごめんね」


「……あいつ、不器用なくせに、時間だけはかけてたんだ」


黒猫はぽつりと呟いた。


「『なくさないように、ちゃんと結んでおくんだ』って。

 それなのに、なくしたんだな……

 オレを置いて出かけるときも、いつも持ってたのに……」


ふっと尾が揺れた。小刻みに、寒さに震えるように。


しばらく言葉はなかった。香澄は、胸の奥がじんと痛んだ気がした。


「……飼い主さんは、どうしたの?」


「はぐれた」


黒猫は短く言った。


「……あいつ、トロかったから。

 きっと迷子になったんだ。

 だから、仕方なくオレが迎えに来た。

 ……長いこと、探しててさ」


香澄は言葉を返せなかった。ただ、しっぽの震えを見ていた。

まるでひとりきりで凍えている子猫のようだ。


「……なあ、頼みがある」


猫人は、香澄をじっと見つめた。

その金色の瞳に、ふっと光が宿った気がした。


「あいつを探してるんだ……長い、長い時間。

 猫又が猫人になるくらい。

 でも、はじめての手がかりが――あんたのところに、届いた」


「……そっか。じゃあ、はい」


香澄はためらわず、栞を差し出した。


「私はたまたま拾っただけ。

 あなたの大事な人のものなんでしょ?」


猫人は受け取りかけて、ふと動きを止めた。


「……あ、うん……いや、でも……」


「? はじめての成果、なんでしょ?」


猫人はその言葉に、一度まばたきをして、目を伏せる。

耳もぺたりと閉じられた。


「うん……そうじゃなくて――」


不意にガクンと速度が落ちる。

流れる景色がゆっくりと、止まった。


ぴんぽんぱんぽん


『……毎度、ご乗車ありがとうございます。

 当列車は、《書痴の列車・綴葉(てっちょう)号》。

 お客様の読書で運行いたしております。

 すべてのお客様に、読了へのご協力をお願い申し上げます。

 駅に到着するには、一冊の読了が必要となります。

 最後まで、どうぞ、お読み逃しのないよう──』


ぽんぴんぱんぽん


「……書痴の列車……?」


香澄が反芻するように呟くと、猫人は真顔になった。


「……やべぇ。放送、入ったか」


そして、たちあげた耳を再度ぺたんと伏せた。


「え、なに?」


「『読了にご協力』って聞こえただろ?」

低く、抑えるような声だった。


「……つまり、『早く読め』ってことだ。会話してる場合じゃない」


香澄が戸惑いの目で見返すと、猫人はさらに真顔になった。


「……あんた、本、持ってるな?

 それを一冊全部読め、ってことだ」


「一冊全部?」


「そう。読了ってやつだ。

 途中で読むのをやめたら、列車は止まっちまう。

 読まない奴は、読者じゃない。

 碌でもない羽目になる。――元のゲンジツに帰れなくなる。


 だから、必ず読み終わること。


 ……でも、没頭しすぎんな。

 心まで本に喰わせたら、帰ってこられねえ」


「帰ってこれないって、どういう――」


「『本になる』ってことだよ」


香澄は息を呑んだ。


「意味が……よく、わからないな」


「いいか、カスミ。読みたいから読むんじゃない。

 読まないと、『帰れない』。

 一冊読了しなきゃ、この列車は次の駅に、辿り着かない」


香澄は膝の上の本を見下ろす。


帰り道、図書館でなんとなく借りた一冊。

タイトルすら思い出せない、気まぐれの選書。


本は必ず一冊読み切らなきゃいけない。

途中でやめたら駅につけない。

しかも、ただ駅に着けないだけじゃないようだ。

でも、だからって本に没頭しすぎると、『本になる』?


…………こんな状況で読むには、決定的に、向いてない。


「ホラーなんだけど……

 この状況で読むとか、ないでしょ……」


現実逃避したくて、再度窓の外を見る。


外では田植えが終わっていた。薄く水を張られた田んぼが延々とつづいている。

空には嵐が去って間もない青灰色の雲が垂れ込めている。

隙間から差し込む暮れの陽射しは朱金の金継ぎみたい。

水面に反射して、まるで曇り空に閉じ込められているようだ。


不穏な空気が、香澄に読書を躊躇させる。



香澄は夢の中ぐらい、平和でいたいと思っていた。

けれど、夢の方がそうはさせてくれない。


「ほら? なんでもいいから、さっさと読め。

 オレも『読んでる』から」


「夢から催促された……なんだかなぁ」

口では軽く言ったつもりだった。

けど、背筋の奥のほうに、冷たいものがじわりと残る。


「夢?」


しぶしぶと本を開くと、横で猫人がこちらを見ている気配がした。


「……あなた、本は?」


「オレにとって本は座布団だ。だから、ほら」


見れば、猫人のお尻の下に分厚いハードカバーが敷かれている。


「……それ、読んだうちに入らないよね」


「邪魔はしない。オレは賢い猫だからな。

 あんたが読んでるのを見てる。それがオレの読書だ」


そこまで言われれば、どうしようもなく。

香澄は本を読み始めた。


本を開けばノイズがひどい。

でも……なにか読まなきゃ、生きた心地がしない。


本を開いた瞬間、行間がざわついた。

文字の隙間から、何かが染み出すように、声が漏れ出す。


『読んでるつもりになってる──滑稽だ』

『文を追っているだけで、意味を読んだつもり? 園児か』

『ページの上にいる間は、物語には入れない』

『解釈を解釈で固めて、わかったつもり? ……滑稽で傲慢』

『『わかる』って何? あなたの理解で物語が動くとでも?』


香澄は、眉間を押さえた。


……まただ。


静かにしてって言っても、こいつらは黙らない。

頭のなかで響くこの声たちは、『読書』のたびにいつもついてくる雑音だ。


本のページをめくるたび、あれこれ口を挟む。

『読むって、そんな雑じゃなかったはず』とか、『そこ、読み飛ばしたでしょ?』とか。

『違う。違う。違う』って、三重線で消してくる。


ページの下に、言葉の暗い海がある。

そこに深く沈み込んでしまえば、外界の音同様に、ノイズは消える。



がくん、と揺れて、ゆっくり車輪が進みはじめる。

だけど、そんなの、今はどうでもいい。


深く、さらに深く。

物語の地に足をつけることで、ようやく静けさが訪れる。


けれど、その深度に届かなければ。

行間から、あいつらはいつまでも文句を垂れ流す。

最後の一行まで、しつこく──耳ではなく、思考の奥でやかましく打ち鳴らし続ける。


……読書は、もっと自由で。

呼吸みたいにできるはずだったのに。


活字を追いかけて、目と脳が忙しなく駆けだした。

呼吸より先に、ページの向こう側へ。


香澄の意識は本の中へと引き込まれる。

現実がじわり、遠ざかっていく。





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