9.
夜が薄れ、森の中が明るくなりはじめる。鳥たちが軽やかに鳴き交わす。
神さまが目覚め体を起こした。
「あ、いた。良かった、おはよう」
とぼくらに笑いかける。
「いた、じゃねーよ、大変だったんだぞ」
ジェラが開口一番怒る。
「何があったの?」
「変なのがいっぱい出たんだぞ、黒いヒラヒラしたやつがウロウロしてさ」
「黒いヒラヒラ、ちょうちょ?」
ぼくは首を振る。
「動きは似ていたけど、形は完全に人だったよ」
「なんか怖いね、お化けかな」
「神さまは見たことない?」
「ないよ」
「夜、うなされていたよ」
「なんか嫌な夢見た気がする」
彼女は顔をしかめる。
「内容は覚えてない?」
「うん、いつも起きると忘れちゃう」
「あの変な黒いのが夢を見せてるんじゃないか?」
ジェラが言う。彼女はよくわからない、というように首を傾げ
「そろそろ出かけなきゃ」
と立ち上がる。
「出かける?どこに?」
「仕事。ついでにあちこち案内してあげる。行こ」
仕事がなにか確認する前に彼女は歩き出す。ジェラが、どうする?というようにぼくを見る。
この世界が幻覚にせよ、現実にせよ、かなりの広さがありそうだ。右も左もよくわからないぼくらが闇雲に歩き回るのは非効率だ。この世界を知る神さまが案内してくれるなら断る理由はない。一緒に行動すれば神さまの正体がわかる可能性もある。
「行こう。ぼくらの『目的』に役立つはずだよ」
とはいえ人間の歩幅についていくのは中々大変だ。彼女の後ろ姿が遠ざかる。ぼくはまたジェラの背中に乗せてもらう。彼女は迷いのない足取りで朝靄の漂う木々の隙間を通り抜けていく。
視界が開ける。夜明けから朝に変わりゆく田園風景はのびのびとしていた。
「出られたぁ」
ジェラがホッとしたようにつぶやく。昨夜、林の中を堂々巡りをしたのは、やはり彼女の影響なのだろうか。
彼女が立ち止まる。何かをじっと見ている。視線の先を追う。
「リグルぅ、人間っぽいのがいるぞ」
ジェラが興奮した声を出す。
つば広帽子をかぶり川沿いのベンチに腰かけている人がいた。
「ヒロサキさんだ」
神さまが小走りに近づいていく。
「なぁリグル、この世界、幻覚かもしんないんだろ?そしたらあの人間も本物じゃないのか?」
「この世界が幻覚ならそういうことになるね」
「だけどさ、幻覚で人間を作るの大変なんだろ?」
先日、未華子の幻覚を創った時のことをジェラは思い出しているようだ。
「そうだね」
「んじゃ、やっぱここ現実なんじゃないか?」
「まだわからないよ。ぼくとアビリティ保有者ではキャパが違うかもしれないし」
「どういうことだ?」
「ぼくにとって大変でもアビリティ保有者にとっては大変じゃないかもしれないってことだよ。この世界を構築してさらに人間も創るなんて物凄い処理量だとは思うけど」
だからまだはっきりとは決められない。ここが幻覚世界か現実か。
ぼくらも神さまの後を追って“ヒロサキさん”のそばにいく。ヒロサキさんは高齢の女性だった。帽子の下に上品な面差しと涼やかな眼差しが隠れていた。何をするでもなく姿勢よく川を眺めていたが、不意に体を曲げた。腰に手をあてている。すると彼女がヒロサキさんに駆け寄った。
「おはよう、ヒロサキさん」
彼女はヒロサキさんに話しかける。だがヒロサキさんは無反応だった。
「見えてないんじゃね?」
ジェラが小声でぼくに言う。
ヒロサキさんは辛そうに腰のあたりを叩いたりさすっている。
「かわいそうに」
彼女はヒロサキさんの額に掌をかざす。するとヒロサキさんの表情がさっとやわらいだ。曇り空が急に晴れ渡るような変わり方だった。
ヒロサキさんは立ち上がり彼女の方を見て「ありがたいことです」とつぶやいた。それから手を合わせて目を閉じた。
「ん?見えてんの?」ジェラが驚く。
「行こ」
彼女が歩き出しても、ヒロサキさんはまだじっと手を合わせたままだった。
彼女はあぜ道を鼻歌交じりに楽しそうに進んでいく。ジェラはスピードを落とし距離を取ったあと、
「ヒロサキさん、幻覚か?本物の人間にしか見えなかったぜ」
「確かに幻覚だとしたら緻密すぎるね」
痛みを覚えた時の苦し気な表情、神さまに手を合わせる仕草、あそこまで何の歪みもなく自然な一挙手一動作を創り出すことができるだろうか。
「やっぱさー、幻覚なんかじゃないと思うぜ」
ホストから遠く離れて、なぜぼくらが存在していられるのか疑問は残る。でもこの場所やヒロサキさんが幻覚だとは思えない。
「ジェラの言う通りかな。ここは現実の可能性が高い。そのつもりで動こう」
もちろん100%じゃない。アビリティは個人差が大きい。中にはこれだけの幻覚を易々と創れる者がいるかもしれない。
ジェラが嬉しそうに言う。
「ヒロサキさんが本物の人間ならさぁ、神さまが見えたってことは、もしかして俺らも見えてたのかな」
ぼくらは幽物みたいな存在で、一定条件を満たしたごく少数の人にしか見えない。研究室のような閉じられた空間ではその方が自由で都合がいい。
でも見えないのは存在しないのと同義だ。
ぼくらは自分の存在にいつも自信が持てずにいる。寂しさや虚しさみたいなものを感じている。だから人間に姿が見えることは本当は嬉しい。
「あれは多分……」と言いかけたが、
「やっぱあいつ本当に神さまなのかな、だったらすっげーな」
ジェラは浮かれた様子で聞く気がなさそうだった。
しばらく行くとあぜ道が終わり、舗装された道路に出た。短い坂を登ると景色がガラリと変わった。広々として整備された二車線道路が伸び、歩道には樹木と外灯が規則正しく植えられている。民家や店がポツポツ並ぶ。
ジェラは彼女に追いつき横に並んだ。
「どこ行くんだ?」
「お仕事してるんだよ」
その時、前から制服姿の少女が歩いてきた。
少女は右手でデジタルブックを操作し、左手で肩からかけたカバンの中を探るという器用なことをしていた。だがカバンからポーチをとりだした瞬間、ファスナーが開いていたようで中から何かが飛び出した。彼女は慌ててデジタルブックをバッグに押し込み地面にかがみこんだ。しばらく自分の足元近くを探していたが、見つからないようでガードレール越しに車道をのぞきこんだ。
「んん、リグル、どこ落ちたかわかるか?」
「ううん」
一瞬のことでぼくも落とし物が何でどこにあるかはわからなかった。
「私、わかるよ」
神さまが街路樹を指さす。
「あの木の根元、ちょうどきれいにはまってる」
「ぼくが探す」
ジェラの背中から降りて木に近づく。
節くれだった根元の上をバランスを取りながら歩く。ちょうど半周しかけたところで、根と根の間の小さな隙間に、犬のキーホールダーが落ちていた。雑草に隠れているし、まさか、こんなところにピンポイントに落ちるとは思わないだろうから見つけるのは難しい。
少女は半泣きの顔で、道路を這うようにして失くし物を探していた。ぼくはもう一度、キーホルダーを見る。デフォルメされて丸く愛らしく創られた柴犬と目が合う。かわいいが大分古びている。体部分の茶色の塗料がはげて地の色がのぞきブチ犬みたいだ。
「ね、あったでしょ?」
神さまがぼくの後ろからのぞきこむ。
「本当にこれあの子が落としたの?」
あの年頃の少女が必死に探すものには思えなかった。
「うん」
朝日の中で神さまは確信をもってうなずき、少女のそばに行く。そしてヒロサキさんにしたように少女の額に手をかざした。
「あの木の根元を見てごらん」
少女ははっとして一瞬視線をさ迷わせた後、真っすぐに木に向かった。根元を見下ろしながら一周したが見つけられず、落胆の色が目に浮かんだ。だがあきらめず雑草をかき分けて、ようやくキーホルダーを見つけた。喜びと安堵に満ちた表情で「本当にあった」とつぶやいた。少女はキーホルダーについた砂を丁寧に指先で払ってからポーチにしまい「神さま、ありがとう」と言った。
「どういたしまして」
神さまが返事をすると、少女の視線がまた周囲をさまよった。だがすぐに我に返り急ぎ足で去っていった。
後ろ姿を見送りながら「学校、間に合うかな」と神さまは微笑んだ。
ぼくらは再び歩き出す。歩道に木漏れ日が舞い踊る。いい天気だった。
「いくつか聞きたいことがあるんだけど」ぼくは言った。
「なぁに?」
「なぜキーホルダーが木の根元にあるってわかった?ぼくたちが立っていた場所からは、あそこに落ちたのは見えなかったはずだよ。それにキーホルダーがあの子の持ち物だと言い切ったよね」
「あの子はササキ ミユウ」歌うように神さまは言う。「犬のキーホルダーは親の形見。あの子は母親の妹、つまり叔母さん一家に引き取られて町の北側の青い屋根の家で暮らしてる」
「詳しすぎんだろ」ジェラが言った。
「この町の人のことは全員知ってるよ。ちょっと集中すれば、この町で起きていることも全部わかるし」
「……神さまだから?」
「うん」
「キーホルダーがどこに落ちたかなんて簡単すぎる問題?」
「うん」
はっとしてぼくは聞く。
「ぼくたちと一緒にこの町に来た友達がいるんだけど、どこにいるかわかる?」
「友達?」
「コトリっていうんだ」
「私と間違えていた?」
「神さまにそっくりなんだ。でももっと小さくて翼がある」
「翼?コトリってやっぱり鳥なの?私、鳥っぽい?」
「鳥じゃないよ。人間に翼が生えたような姿なんだ。種類的には、そうだね、ぼくやジェラと同じ」
「ふぅん、私も会ってみたいな。探してみる」
神さまが目を閉じる。10秒ほどして目を開く。
「よくわかんなかった」
「なんだよぉ、それぇ」
「ごめんね」
「ぼくやジェラみたいな存在は神さまは、この町にいても探せないってこと?」
「リグルとジェラは気配が似てるけど薄いの。虫とか動物みたい。人間と違って区別が難しくて。でも二人は1回会ったから町の中にいたら探せるけど」
会ったことのないコトリは他の虫や動物に紛れてわからない、ということか。
「神さまなのにダメじゃんかぁ」
ジェラが不満げに言い、神さまがうつむく。ぼくはため息を抑え
「探してくれてありがとう」
と言う。
「ううん、友達を見つけられなくてごめんね」
ジェラの不満そうな顔が恥ずかしそうな顔に変わる。
「……俺、なんか悪かったかも。神さま、ごめん、ありがとな」
「ううん、どういたしまして」
「ところで、さっきのあの子」情報収集を再開する。
「神さまの声が聞こえている様子があったけど」
「必要なら町の人には声を聞かせるし姿も見せるよ」
「んん、ってことはいつも見えるわけじゃないのか」ジェラが尋ねる。
「普段は見えないし聞こえないよ」
「ヒロサキさんは?見えていただろ?」
「ヒロサキさんには見せてない」
「え、拝んでたじゃん」
ぼくは言う。「あれは多分、神さまじゃなくて後ろの林を拝んでいたんだと思う」
ヒロサキさんの目線は彼女からわずかにそれていた。
「なんで林を拝むんだよ?」
「神さまのおうちがあるからじゃない?」
つまりヒロサキさんは自分の腰の痛みが消えたのは、神社にいる神さまのおかげだと認識していたということだ。でもだったらどうして神社は荒れて……いや、今はそれよりも気になる事があった。
ぼくは聞く。「神さまは人間とコミュニケーションをとって助けているんだね?」
「そんな神さまいるぅ?」
ジェラが突っこむ。ぼくもそう思う。だがここではそれが起きている。
「コミュニケーション……そこまでじゃないかなぁ」
彼女は残念そうに首を傾げ
「長くはできないの。声ならさっきみたいな一言二言、姿を見せるなら10秒位が限界。それにはっきりとは見えないし聞こえないらしいよ」
「そうなの?」
「姿は透けたりぼやけたり、声も頭の中に響く感じでノイズ混じりなんだって」
「いや、それ神さまじゃなくてホラーじゃん、こえーよ」
ジェラが変顔をして体を震わせた。
「その顔、面白い」
神さまは無邪気にケラケラ笑った。