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夏目漱石「三四郎」本文と解説10-5 原口「描かれる人の眼の表情も画工の気分も毎日変る。それでもたつた一枚で可なり纏つたものが出来るから不思議だ」

◇本文

 三四郎は此機会を利用して、丸卓(まるテーブル)(わき)を離れて、美禰子の傍へ近寄つた。美禰子は椅子の脊に、油気のない頭を、無雑作に持たせて、疲れた人の、身繕ひに心なき放擲(なげやり)の姿である。明らさまに襦袢の襟から咽喉頸(のどくび)が出てゐる。椅子には脱ぎ捨てた羽織を掛けた。廂髪(ひさしがみ)の上に奇麗な裏が見える。

 三四郎は懐に三拾円入れてゐる。此三拾円が二人の間にある、説明しにくいものを代表してゐる。――と三四郎は信じた。返さうと思つて、返さなかつたのも是が為である。思ひ切つて、今返さうとするのも是が為である。返すと用がなくなつて、遠ざかるか、用がなくなつても、一層近付いて来るか、――普通の人から見ると、三四郎は少し迷信家の調子を帯びてゐる。

「里見さん」と云つた。

「なに」と答へた。仰向いて下から三四郎を見た。顔を(もと)の如くに落ち付けてゐる。眼丈は動いた。それも三四郎の真正面で穏やかに(とま)つた。三四郎は女を多少疲れてゐると判じた。

「丁度 (つい)でだから、此所(ここ)で返しませう」と云ひながら、(ボタン)を一つ外して、内懐へ手を入れた。女は又、

「なに」と繰り返した。(もと)の通り、刺激のない調子である。内懐へ手を入れながら、三四郎は()うしやうと考へた。やがて思ひ切つた。

「此間の金です」

「今下すつても仕方がないわ」

 女は下から見上げた儘である。手も出さない。身体も動かさない。顔も元の所に落ち付けてゐる。男は女の返事さへ能くは()し兼ねた。其時、

「もう少しだから、何うです」と云ふ声が後で聞こえた。見ると、原口さんが此方(こつち)を向いて立つてゐる。画筆(ブラツシ)を指の股に挟んだまゝ、三角に刈り込んだ髯の先を引っ張つて笑つた。美禰子は両手を椅子の肘に掛けて、腰を(おろ)したなり、頭と脊を真直(まつすぐ)に延ばした。三四郎は小さな声で、

「まだ余程掛かりますか」と聞いた。

「もう一時間ばかり」と美禰子も小さな声で答へた。三四郎は又丸卓(まるテーブル)に帰つた。女はもう描かるべき姿勢を取つた。原口さんは又 烟管(パイプ)()けた。画筆は又動き出す。脊を向けながら、原口さんが()う云つた。

「小川さん。里見さんの眼を見て御覧」

 三四郎は云はれた通りにした。美禰子は突然額から団扇を放して、静かな姿勢を崩した。横を向いて硝子越しに庭を眺めてゐる。

不可(いけな)い。横を向いてしまつちや、不可い。今描き出した許だのに」

「何故余計な事を仰しやる」と女は正面に帰つた。原口さんは弁解をする。

「冷やかしたんぢやない。小川さんに話す事があつたんです」

「何を」

「是から話すから、まあ元の通りの姿勢に(ふく)して下さい。さう。もう少し(ひぢ)を前へ出して。夫れで小川さん、僕の描いた眼が、実物の表情通り出来てゐるかね」

()うも能く分らんですが。一体 ()うやつて、毎日毎日描いてゐるのに、描かれる人の眼の表情が何時(いつ)も変らずにゐるものでせうか」

「それは変るだらう。本人が変るばかりぢやない、画工(ゑかき)の方の気分も毎日変るんだから、本当を云ふと、肖像画が何枚でも出来上がらなくつちやならない訳だが、さうは行かない。又たつた一枚で可なり纏つたものが出来るから不思議だ。何故と云つて見給へ……」

 原口さんは此間始終筆を使つてゐる。美禰子の方も見てゐる。三四郎は原口さんの諸機関が一度に働らくのを目撃して恐れ入つた。

(青空文庫より)


◇解説

原口が美禰子をモデルに絵を描いている場面。美禰子は静止の保持に耐えられなくなり、一時休憩する。「三四郎は此機会を利用して、丸卓(まるテーブル)(わき)を離れて、美禰子の傍へ近寄つた」。


「美禰子は椅子の脊に、油気のない頭を、無雑作に持たせて、疲れた人の、身繕ひに心なき放擲(なげやり)の姿である」

…銀杏返しに結うためには、(びん)付け油が必要だ。この時の美禰子の髪型は、すぐ後に出てくる「廂髪」という現代風の髪型。「椅子の脊に、油気のない頭を、無雑作に持たせ」た「身繕ひに心なき放擲(なげやり)の姿」や、「明らさまに襦袢の襟から咽喉頸(のどくび)が出てゐる。椅子には脱ぎ捨てた羽織を掛けた。廂髪(ひさしがみ)の上に奇麗な裏が見える」などのしどけない様子は、三四郎の官能をくすぐる。


「三四郎は懐に三拾円入れてゐる」

…このことから、彼は美禰子に返金するためにやって来たことがわかる。


「二人の間にある、説明しにくいもの」のせいで、「返さうと思つて、返さなかつた」し、「思ひ切つて、今返さうと」している30円。このように、「説明しにくいもの」は、一見矛盾する行動を三四郎に取らせた。「返すと用がなくなつて、遠ざかるか、用がなくなつても、一層近付いて来るか」わからない。

美禰子にとってその金は、三四郎への愛だ。これに対し三四郎もその金は美禰子からの愛だと認識しており、だから金を媒介としていつまでも彼女の心をつなぎとめておきたい、そのためには返金しない方がいい、しかしそういつまでも借りておくわけにはいかず、いつかは返さなければならない、という相反する状況にある。金を媒介として愛の交歓が成立しているとすれば、媒介物が無くなった時にどうなるか。それが三四郎の不安・危惧となっている。

三四郎のこの様子を、語り手は「普通の人から見ると、三四郎は少し迷信家の調子を帯びてゐる」と処断するが、まだ若く、おそらく初恋の彼が恋に迷う様子は、だれしも経験があるだろう。


迷いを振り払い、今彼は美禰子に返金するという賭けに出た。

「里見さん」という呼びかけに、「なに」と応ずる美禰子は、「仰向いて下から三四郎を見た」。「眼丈」が動き、「三四郎の真正面で穏やかに(とま)つた」。三四郎が感じたように、美禰子は「多少疲れてゐる」。


「丁度 (つい)でだから、此所(ここ)で返しませう」と云ひながら、(ボタン)を一つ外して、内懐へ手を入れた。女は又、「なに」と繰り返した。(もと)の通り、刺激のない調子である。」

…モデル業に疲れ、美禰子の思考判断能力はゼロに近い。それはまた、彼女のこの作品にかける強い思いを表す。

通常の彼女であれば、「丁度 (つい)でだから、此所(ここ)で返しませう」という言葉と、「(ボタン)を一つ外して、内懐へ手を入れた」という動作で、ピンとくるはずだ。


「内懐へ手を入れながら、三四郎は()うしやうと考へた。やがて思ひ切つた。

「此間の金です」

「今下すつても仕方がないわ」

 女は下から見上げた儘である。手も出さない。身体も動かさない。顔も元の所に落ち付けてゐる。男は女の返事さへ能くは()し兼ねた」。

…けだるくいつもとは違う美禰子の様子を見て、「どうしよう」と思案する三四郎だったが、ここは思い切って返金しようと行動する。

しかし間が悪い。美禰子の言うとおり、「今下すつても仕方がないわ」という状態だ。絵のモデルのしばしの休憩中に返された30円をどう処置すればよいというのか。しかもそばには事情を知らない原口がいるという状況。

それなのに三四郎は、「女の返事さへ能くは()し兼ね」るという状態。鈍感・愚鈍というほかない。


「もう少しだから、何うです」という原口の一声で、作業の再開が告げられる。

美禰子の「もう一時間ばかり」という言葉に、「又丸卓(まるテーブル)に帰つた」三四郎。


「画筆は又動き出す」。

「小川さん。里見さんの眼を見て御覧」という原口の言葉に三四郎が従うと、「美禰子は突然額から団扇を放して、静かな姿勢を崩した。横を向いて硝子越しに庭を眺めてゐる」。

原口に「不可(いけな)い。横を向いてしまつちや、不可い。今描き出した許だのに」と言われ、「「何故余計な事を仰しやる」と女は正面に帰つた」。モデルとなっている美禰子の「眼」には、ある感情が表れている。それを三四郎に見て取られるのが厭だったのだ。真の自分の感情、モデルとしての演技、何かの企み、など、その眼にはさまざまな可能性がある。

この後美禰子は結婚する。美禰子は青春時代の自分の姿を絵の中に記憶として残そう、封印しようと考えている。であるならば、その「眼」には、さまざまな彼女の思いが表れているはずだ。男性たちを愛したこと。青春時代の愁い・悲しみ・迷い。思い出の封印。


「何故余計な事を仰しやる」との非難に、原口は弁解する。

原口「冷やかしたんぢやない。小川さんに話す事があつたんです」

美禰子「何を」

原口「小川さん、僕の描いた眼が、実物の表情通り出来てゐるかね」

三四郎「()うも能く分らんですが。一体 ()うやつて、毎日毎日描いてゐるのに、描かれる人の眼の表情が何時(いつ)も変らずにゐるものでせうか」

原口「それは変るだらう。本人が変るばかりぢやない、画工(ゑかき)の方の気分も毎日変るんだから、本当を云ふと、肖像画が何枚でも出来上がらなくつちやならない訳だが、さうは行かない。又たつた一枚で可なり纏つたものが出来るから不思議だ。何故と云つて見給へ……」

その答えは次回語られる。


ところで、原口の質問は「僕の描いた眼が、実物の表情通り出来てゐるか」であり、その答えとしてはふつう、絵の目と実際の美禰子の目との同異が述べられるだろう。その内容は、先ほど述べたとおりだ。

それなのに三四郎は、「描かれる人の眼の表情が何時(いつ)も変らずにゐるものでせうか」と、目とそこに現れる感情の変化について問い返す。これでは問答になっておらず、会話がねじれている。


また、この会話の内容は、男女の関係と同じだ。

一方の感情が「何時(いつ)も変らずにゐるもの」ではないのと同じように、もう一方の「気分も毎日変る」。美禰子の感情の変化に伴って、三四郎や野々宮の気持ちも変化することの暗喩。


「原口さんは此間始終筆を使つてゐる。美禰子の方も見てゐる。三四郎は原口さんの諸機関が一度に働らくのを目撃して恐れ入つた」

…人の心・内面を描き出すことに慣れ、仕事としている原口は、それらが表れる「眼」を見ても、冷静に描くことができるし、会話も可能だ。


ひと刷毛(はけ)ひと刷毛、線と色を重ねるたびに、絵に奥行きと表情が生まれる。そうして人の心や関係性が輪郭を持つ。現実そのものではなく、現実が表すものが絵に定着される。

その境地に至るまで、自由に絵を描くことができれば幸福だろう。


美禰子がモデルを引き受けた理由。

モデルとなった美禰子の心や、残そう・表現しようとしていること。

原口はいま、それらを描こうと格闘している。

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