夏目漱石「三四郎」本文と解説10-4 原口「女が偉くなると、独身ものが沢山出来て来る。だから社会の原則は、独身ものが出来得ない程度内に於て、女が偉くならなくつちや駄目だね」
◇本文
「又苦しくなつた様ですね」
女は何にも云はずに、すぐ姿勢を崩して、傍に置いた安楽椅子へ落ちる様にとんと腰を卸した。其時白い歯が又光つた。さうして動く時の袖と共に三四郎を見た。其眼は流星の様に三四郎の眉間を通り越して行つた。
原口さんは丸卓の傍迄来て、三四郎に、
「何うです」と云ひながら、燐寸を擦つて、先刻の烟草に火を付けて、再び口に啣へた。大きな木の雁首を指で抑へて、二吹許濃い烟を髭の中から出したが、やがて又丸い脊中を向けて画に近付いた。勝手な所を自由に塗つてゐる。
絵は無論仕上つてゐないものだらう。けれども何処も彼所も万遍なく絵の具が塗つてあるから、素人の三四郎が見ると、中々立派である。旨いか無味いか無論分からない。技巧の批評の出来ない三四郎には、たゞ技巧の齎らす感じ丈がある。それすら、経験がないから、頗る正鵠を失してゐるらしい。芸術の影響に全然無頓着な人間でないと自らを証拠立てる丈でも三四郎は風流人である。
三四郎が見ると、此画は一体にぱつとしてゐる。何だか一面に粉が吹いて、光沢のない日光に当つた様に思はれる。影の所でも黒くはない。寧ろ薄い紫が射してゐる。三四郎は此画を見て、何となく軽快な感じがした。浮いた調子は猪牙船に乗つた心持がある。それでも何処か落ち付いてゐる。剣呑でない。苦つた所、渋つた所、毒々しい所は無論ない。三四郎は原口さんらしい画だと思つた。すると原口さんは無雑作に画筆を使ひながら、こんな事を云ふ。
「小川さん面白い話がある。僕の知つた男にね、細君が厭になつて離縁を請求したものがある。所が細君が承知をしないで、私は縁あつて、此家へ方付いたものですから、仮令あなたが御厭でも私は決して出て参りません」
原口さんは其所で一寸画を離れて、画筆の結果を眺めてゐたが、今度は、美禰子に向つて、
「里見さん。あなたが単衣ものを着て呉れないものだから、着物が描き悪くつて困る。丸で好加減にやるんだから、少し大胆過ぎますね」
「御気の毒さま」と美禰子が云つた。
原口さんは返事もせずに又画面へ近寄つた。「それでね、細君の御尻が離縁するには余り重くあつたものだから、友人が細君に向つて、斯う云つたんだとさ。出るのが厭なら、出ないでも好い。何時迄でも家にゐるが好い。其代り己の方が出るから。――里見さん一寸立つて見て下さい。団扇は何うでも好い。ただ立てば。さう。難有う。――細君が、私が家に居つても、貴方が出て御仕舞になれば、後が困るぢやありませんかと云ふと、何構はないさ、御前は勝手に入夫でもしたら宜からうと答へたんだつて」
「それから、何うなりました」と三四郎が聞いた。原口さんは、語るに足りないと思つたものか、まだ後をつけた。
「何うもならないのさ。だから結婚は考へ物だよ。離合聚散、共に自由にならない。広田先生を見給へ、野々宮さんを見給へ、里見恭助君を見給へ、序に僕を見給へ。みんな結婚をしてゐない。女が偉くなると、かう云ふ独身ものが沢山出来て来る。だから社会の原則は、独身ものが、出来得ない程度内に於て、女が偉くならなくつちや駄目だね」
「でも兄は近々(きん/\)結婚致しますよ」
「おや、左うですか。すると貴方は何うなります」
「存じません」
三四郎は美禰子を見た。美禰子も三四郎を見て笑つた。原口さん丈は画に向いてゐる。「存じません。存じません――ぢや」と画筆を動かした。 (青空文庫より)
◇解説
美禰子をモデルに原口が描く場面。
「「又苦しくなつた様ですね」
女は何にも云はずに、すぐ姿勢を崩して、傍に置いた安楽椅子へ落ちる様にとんと腰を卸した。其時白い歯が又光つた。さうして動く時の袖と共に三四郎を見た。其眼は流星の様に三四郎の眉間を通り越して行つた」
…体の静止を保持しきれなくなり、美禰子は椅子に座る。その時に光る「白い歯」は、彼女の意志を表す。彼女の歯は、自分の意志を他者に作用させようとする時に現れる。ここでは、弱った自分の姿が三四郎に見られた恥じらいだ。
彼女の「眼は流星の様に三四郎の眉間を通り越して行つた」。彼女の視線が三四郎の心を貫くと同時に、彼女自身の視線の焦点は、既に違う所にあることを暗示している。美禰子は既に、違う人を心に見ている。
原口の、「何うです」とは、「この絵の出来はどうですか」の意味。
「無論仕上つてゐないものだらう」と推察する三四郎だが、「素人の」目からは「中々立派」に見え、また、「旨いか無味いか無論分からない。技巧の批評の出来ない三四郎には、たゞ技巧の齎らす感じ丈がある。それすら、経験がないから、頗る正鵠を失してゐるらしい」。
このような彼に語り手は、「芸術の影響に全然無頓着な人間でないと自らを証拠立てる丈でも三四郎は風流人である」と評価する。絵から受けた素直な感想を、飾らず正直に受け止めることへの評価。
三四郎は「此画」に、「一体にぱつとしてゐる」とか、「何となく軽快な感じ」を受ける。「浮いた調子は猪牙船に乗つた心持がある。それでも何処か落ち付いてゐる。剣呑でない。苦つた所、渋つた所、毒々しい所は無論ない。三四郎は原口さんらしい画だと思つた」。
「猪牙船」…江戸で作られた、少し細長い川舟。屋根は無く、船足が早い。(三省堂新明解国語辞典)
続いて、原口が三四郎に、「面白い話」を語り始める。
「細君が厭になつて離縁を請求した」「が細君が承知をしない」友人がいた。「縁あつて、此家へ方付いたものですから、仮令あなたが御厭でも私は決して出て参りません」と言う妻。友人が、「出るのが厭なら、何時迄でも家にゐるが好い。其代り己の方が出るから」と言うと、「私が家に居つても、貴方が出て御仕舞になれば、後が困るぢやありませんかと云ふ」。「何構はないさ、御前は勝手に入夫でもしたら宜からうと答へた」。その結果は「何うもならない」。
原口は、「だから結婚は考へ物だよ。離合聚散、共に自由にならない」と言う。広田、野々宮、里見恭助、僕。「みんな結婚をしてゐない。女が偉くなると、かう云ふ独身ものが沢山出来て来る。だから社会の原則は、独身ものが、出来得ない程度内に於て、女が偉くならなくつちや駄目だね」。
原口はまず、男と女がくっついたり離れたりして自由にならず、「結婚は考へ物」と言い、次に自分などが結婚できないのは「女が偉く」なったからだとする。この2つは、では原口自身は結局結婚したいのかそうでないのかよくわからない矛盾した意見に見える。
「でも兄は近々(きん/\)結婚致しますよ」
「おや、左うですか。すると貴方は何うなります」
「存じません」
…原口は先ほどの話を、三四郎に話している風を装って実は美禰子に聞かせている。そこには少しのちょっかいの気持ちが含まれる。自立心を持った女が登場したことによる未婚化への多少の揶揄。「貴方は何うなります」かという問いかけ。
なお、「すると貴方は何うなります」には、「これまで兄とふたり暮らしだったあなたは、これからどう生活していきますか」という意味と、「あなたは結婚しますか」の2つの意味が含まれる。
「でも兄は近々(きん/\)結婚致しますよ」は、自由にならない困難と、なかなか結婚できない困難の2つを乗り越えて、兄は結婚する、の意味。
原口の問に対する美禰子の答えは、「存じません」というはぐらかしだった。原口の問いの意図は、「あなたは偉い人ですか」、「あなたは結婚をしますか」というものだ。これに対する明確な答えは、偉いか偉くないか、結婚するかしないか、だろう。「存じません」・わかりませんでは、それこそ気持ちや考えが分からない。
これは、以前出てきた、「よくってよ、知らないわ」に近い答えだ。「変な質問しないで」ということ。さらには、「自分には考え・答えがあるけど、あなたには聞かせないわ」という意味。
「三四郎は美禰子を見た。美禰子も三四郎を見て笑つた」
…ふたりは「見た」だけで意思の疎通が図られる。ふたりは目で会話できるのだ。
原口世代は、「女性が偉くなると独身者が増えて困る」と苦情を言うが、三四郎と美禰子はそのような考え方・価値観を超える位置にいる・行く可能性があった。
しかし美禰子はこの後別の男と結婚をする。
「存じません。存じません――ぢや」分からないと、不平を述べる原口だった。
明治という時代において、適齢期の男女が独身でいることは、やはり奇異な眼で見られたのだろう。なにかよからぬ理由があり、だから結婚できない、偏屈者・社会的敗残者。そのように見られた。
原口はそこに、「女が偉くなったからだ」と理由付けする。女性の自立、社会への進出が、未婚化の原因だと。
現代社会では、「晩婚化」から、さらには、「不婚化」とか「非婚化」などと言われる状況となった。確かに、精神的・経済的自立は「結婚」というシステムの評価を下げるだろう。
社会で人が生きていく過程において、他者との良好な関係性を結ぶことは不可欠だ。今はそれが、「結婚」という制度を取らなくてもよい方向に、個人も社会も向かっている。
この話題を高校生たちと話した時に、ある女子生徒が言った言葉が印象的だった。
「震災により、私たちは、愛する人との突然の別れを経験した。経済的・精神的自立は、ひとりであっても結婚していても大切だ。」