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夏目漱石「三四郎」本文と解説10-3 美禰子の白い歯

◇本文

玄関には美禰子の下駄が揃へてあつた。鼻緒の二本が右左で色が違ふ。それで能く覚えてゐる。今仕事中だが、()ければ上がれと云ふ小女の取次に()いて、画室へ這入(はい)つた。広い部屋である。細長く南北に延びた床の上は、画家らしく、取り乱れてゐる。先づ一部分には絨氈(じうたん)が敷いてある。それが部屋の大きさに較べると、丸で釣り合が取れないから、敷物として敷いたといふよりは、色の好い、模様の()な織物として放りだした様に見える。離れて向ふに置いた大きな虎の皮も其通り、坐る為の、設けの座とは受け取れない。絨氈とは不調和な位置に筋違(すぢかひ)に尾を長く()いてゐる。砂を錬り固めた様な大きな(かめ)がある。其中から矢が二本出てゐる。鼠色の羽根と羽根の間が金箔で強く光る。其傍に鎧もあつた。三四郎は卯の花 (おどし)と云ふのだらうと思つた。向ふ側の隅にぱつと眼を射るものがある。紫の裾模様(すそもやう)の小袖に金糸の刺繍(ぬひ)が見える。袖から袖へ幔幕(まんまく)の綱を通して、虫干しの時の様に(つる)した。袖は丸くて短い。是が元禄かと三四郎も気が付いた。其外には()が沢山ある。壁に掛けたの許でも大小合はせると余程になる。額縁を()けない下画(したゑ)といふ様なものは、重ねて巻いた端が、巻崩れて、小口をしだらなく露した。

 描かれつゝある人の肖像は、此 彩色(いろどり)の眼を乱す間にある。描かれつゝある人は、突き当りの正面に団扇を(かざ)して立つた。描ゑがく男は丸い脊せをぐるりと返して、調色板(パレツト)を持つた儘、三四郎に向つた。口に太い烟管(パイプ)(くわ)へてゐる。

()つて来たね」と云つて烟管を口から取つて、小さい丸卓(まるテーブル)の上に置いた。燐寸(マツチ)と灰皿が載つてゐる。椅子もある。

「掛け給へ。――あれだ」と云つて、描き掛けた画布(カンワ゛ス)の方を見た。長さは六尺もある。三四郎はたゞ、

「成程大きなものですな」と云つた。原口さんは、耳にも留めない風で、

「うん、中々」と独言(ひとりごと)の様に、髪の毛と、背景の境の所を塗り始めた。三四郎は此時漸く美禰子の方を見た。すると女の翳した団扇の陰で、白い歯がかすかに光つた。

 それから二三分は全く静かになつた。部屋は煖炉(だんろ)で温(あたゝ)めてある。今日は外面(そと)でも、さう寒くはない。風は死に尽した。枯れた樹が音なく冬の日に包まれて立つてゐる。三四郎は画室へ導かれた時、霞の中へ這入つた様な気がした。丸卓に(ひぢ)を持たして、此静かさの夜に勝る(さかひ)に、(はばかり)りなき精神(こゝろ)を溺れしめた。此静かさのうちに、美禰子がゐる。美禰子の影が次第に出来上りつゝある。(ふと)つた画工の画筆(ブラツシ)丈が動く。夫れも眼に動く丈で、耳には静かである。肥つた画工も動く事がある。然し足音はしない。

静かなものに封じ込められた美禰子は全く動かない。団扇を翳して立つた姿その儘が既に画である。三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を写してゐるのではない。不可思議に奥行のある画から、精出して、其奥行丈を落して、普通の画に美禰子を描き直してゐるのである。にも(かか)はらず第二の美禰子は、この静さのうちに、次第と第一に近づいて来る。三四郎には、此二人の美禰子の間に、時計の音に触れない、静かな長い時間が含まれてゐる様に思はれた。其時間が画家の意識にさへ上らない程 音無(おとなし)く経つに従つて、第二の美禰子が漸やく追ひ付いて来る。もう少しで双方がぴたりと出合つて一つに収まると云ふ所で、時の流れが急に向きを換へて永久の中に注いで仕舞ふ。原口さんの画筆は夫れより先には進めない。三四郎は其所迄(そこまで)()いて行つて、気が付いて、不図美禰子を見た。美禰子は依然として動かずに居る。三四郎の頭は此静かな空気のうちで覚えず動いてゐた。酔つた心持である。すると突然原口さんが笑ひ出した。 (青空文庫より)


◇解説

原口の家で絵のモデルをしている美禰子に、三四郎が会いに行く場面。


「玄関には美禰子の下駄が揃へてあつた。鼻緒の二本が右左で色が違ふ。それで能く覚えてゐる」…鼻緒の色が左右で異なるのは、おしゃれからか、原口の家に向かう途中に切れてしまい鼻緒をすげ直したかだろう。前者なら、美禰子の精神状態・意思が2つの道で揺れていることを表し、後者なら、道・人生の途中でのつまずきを表す。いずれにせよ彼女は、鼻緒の華やかさとは逆に、人生という自分が進むべき道で戸惑い悩んでいる。

また、この語り口は、すべてが終わった現在から、当時・過去を回想した形になっている。寂しい雰囲気があり、美禰子と三四郎の恋ははかなく終わったことを暗示している。

さらに、この画像が今でも三四郎のこころに残存しているのは、この後に何かある印象深い出来事があったからだ。それとセットになっている。

この場面が現在も甘く悲しい記憶としてあることは、当時の三四郎の美禰子への愛の強さと、それがまだ残っていることを表す。


「今仕事中だが、()ければ上がれと云ふ小女の取次に()いて、画室へ這入(はい)つた」…「能く覚えてゐる」と「今」の対比は、過去の物語が、「今」でも三四郎の胸に鮮明な記憶として残っていることを表す。

また、物語を現在形で語ることで、物語の時間が巻き戻され、当時の出来事がありありと再現される。


「画室へ這入(はい)つた」三四郎は、部屋の様子に違和感を抱く。それは、あまり知らない芸術の世界や、絵の人となろうとしている美禰子への違和感だ。「広い部屋」、「細長く南北に延びた床」、その「上は、画家らしく、取り乱れてゐる」。「部屋の大きさに」に「丸で釣り合が取れない」じゅうたんは、「色の好い、模様の()な織物として放りだした様に見える」。「向ふに置いた大きな虎の皮も」「坐る為の、設けの座とは受け取れ」ず、「絨氈とは不調和な位置に筋違(すぢかひ)に尾を長く()いてゐる」。「砂を錬り固めた様な大きな甕」には、「鼠色の羽根と羽根の間が金箔で強く光る」。「卯の花 (おどし)」の鎧。「向ふ側の隅にぱつと眼を射る」「紫の裾模様(すそもやう)の小袖に金糸の刺繍(ぬひ)」は、「袖から袖へ幔幕(まんまく)の綱を通して、虫干しの時の様に(つる)し」てあり、「是が元禄かと三四郎も気が付いた」。「壁に掛けたの許でも大小合はせると余程になる」沢山の絵。「下画(したゑ)」も「重ねて巻いた端が、巻崩れて、小口をしだらなく露し」ていた。


「描かれつゝある人(美禰子)の肖像は、此 彩色(いろどり)の眼を乱す間にある。描かれつゝある人(美禰子)は、突き当りの正面に団扇を(かざ)して立つた」

…「団扇を(かざ)して立つ」という構図は、三四郎が初めて美禰子と出会った池の端と同じだ。ふたりにとって大切な思い出の構図ということになる。


「不図眼を上げると、左手の岡の上に女が二人立つてゐる。女のすぐ下が池で、池の向ふ側が高い崖の木立で、其後ろが派出な赤錬瓦のゴシツク風の建築である。さうして落ちかゝつた日が、凡ての向ふから横に光を透してくる。女は此夕日に向いて立つてゐた。三四郎のしやがんでゐる低い陰から見ると岡の上は大変明るい。女の一人(美禰子)はまぼしいと見えて、団扇を額の所に翳してゐる。顔はよく分らない。けれども着物の色、帯の色は鮮やかに分かつた。白い足袋の色も眼についた。鼻緒の色はとにかく草履を穿いてゐる事も分かつた。もう一人は真白である。是は団扇も何も持つて居ない。只額に少し皺を寄せて、対岸から生ひ被さりさうに、高く池の面に枝を伸ばした古木の奥を眺めてゐた。団扇を持つた女は少し前へ出てゐる。白い方は一歩土堤の縁から退がつてゐる。三四郎が見ると、二人の姿が筋違ひに見える」。(2-4)


「彼所ですね。あなたがあの看護婦と一所に団扇を持つて立つてゐたのは」

 二人のゐる所は高く池の中に突き出してゐる。此丘とは丸で縁のない小山が一段低く、右側を走つてゐる。大きな松と、御殿の一角と、運動会の幕の一部と、なだらな芝生が見える。

「熱い日でしたね。病院があんまり暑いものだから、とう/\堪へ切れないで出て来たの。――あなたは又何であんな所に跼んで入らしつたの」

「熱いからです。あの日は始めて野々宮さんに逢つて、それから、彼所へ来てぼんやりして居たのです。何だか心細くなつて」(6-12)


「どうも普通の日本の女の顔は歌麿式や何かばかりで、西洋の画布には移りが悪くつて不可いが、あの女や野々宮さんは可い。両方共画になる。あの女が団扇を翳して、木立を後ろに、明るい方を向いてゐる所を等身に写して見様かしらと思つてる。西洋の扇は厭味で不可いが、日本の団扇は新しくつて面白いだらう。兎に角早くしないと駄目だ。今に嫁にでも行かれやうものなら、さう此方の自由に行かなくなるかも知れないから」

 三四郎は多大な興味を以て原口の話を聞いてゐた。ことに美禰子が団扇を翳してゐる構図は非常な感動を三四郎に与へた。不思議の因縁が二人の間に存在してゐるのではないかと思ふ程であつた。すると広田先生が、「そんな図はさう面白い事もないぢやないか」と無遠慮な事を云ひ出した。

「でも当人の希望なんだもの。団扇を翳してゐる所は、どうでせうと云ふから、頗る妙でせうと云つて承知したのさ。何わるい図どりではないよ。描き様にも因るが」

「あんまり美しく描くと、結婚の申込が多くなつて困るぜ」(7-5)


「兎に角早くしないと駄目だ。今に嫁にでも行かれやうものなら、さう此方の自由に行かなくなるかも知れないから」という原口の予言は当たることになる。


物語では、この後にも二人が当時を回想する場面が出てくる。(10-8)


原口から、「掛け給へ。――あれだ」と「長さは六尺もある」カンバスを示されるが、三四郎の感想は、ただ「成程大きなものですな」とだけだった。ふたりだけの思いでの絵の構図や絵に対する感想をもらさない三四郎。

「漸く美禰子の方を見」ると、「女の翳した団扇の陰で、白い歯がかすかに光つた」。三四郎にとってこの「白い歯」も、美禰子の要素として忘れがたいものだ。


〇美禰子の「白い歯」について

登場順に説明する。


「女はやがて元の通りに向き直つた。眼を伏せて二足許り三四郎に近付いた時、突然首を少し後ろに引いて、まともに男を見た。二重瞼の切れ長の落付いた恰好である。目立つて黒い眉毛の下に活きてゐる。同時に奇麗な歯があらはれた。此歯と此顔色とは三四郎に取つて忘るべからざる対照であつた。

(中略) 

「一寸ちよつと伺ひますが……」と云ふ声が白い歯の間から出た。きりゝとしてゐる。然し鷹揚である。たゞ夏のさかりに椎の実が生つてゐるかと人に聞きさうには思はれなかつた。」(3-14)


「「佐々木さんが、あなたの所ところへ入いらしつたでせう」と云つて例の白い歯を露した。女の後には前の蝋燭立が暖炉台の左右に並んでゐる。金で細工をした妙な形の台である。是を蝋燭立と見たのは三四郎の臆断で、実は何だか分からない。此不可思議の蝋燭立の後に明らかな鏡がある。光線は厚い窓掛けに遮ぎられて、充分に這入らない。其上天気は曇つてゐる。三四郎は此間に美禰子の白い歯を見た。

「佐々木が来ました」

「何と云つて入らつしやいました」

「僕にあなたの所へ行けと云つて来ました」

「左うでせう。――夫れで入らしつたの」とわざわざ聞いた。

「えゝ」と云つて少し躊躇した。あとから「まあ、左うです」と答へた。女は全く歯を隠した。静かに席を立つて、窓の所へ行つて、外面を眺め出した。」(8-6)


美禰子が自分の特徴・美点である「歯」を「全く」「隠した」のは、佐々木に言われたからあなたに会いに来たという三四郎に不満を抱いたからだ。


「「何処へ入らつしやるの」

「あなたは何所へ行くんです」

 二人は一寸顔を見合せた。三四郎は至極真面目である。女は堪へ切れずに又白い歯を露はした。

「一所に入らつしやい」

 二人四丁目の角を切り通しの方へ折れた。三十間程行くと、右側に大きな西洋館がある。美禰子は其前に留まつた。帯の間から薄い帳面と、印形を出して、

「御願ひ」と云つた。

「何ですか」

「是で御金を取つて頂戴」」(8-7)


美禰子が三四郎に金を貸す重要な場面に、彼女の自我である「白い歯」が登場する。


「「さつき何を云つたんですか」

 女は「さつき?」と聞き返した。

「さつき、僕が立つて、彼方べニスを見てゐる時です」

 女は又真白な歯を露はした。けれども何とも云はない。

「用でなければ聞かなくつても可いです」

「用ぢやないのよ」(8-10)


原口の展覧会で、ふたりで絵画鑑賞をする場面。野々宮との突然の再会に、美禰子は野々宮の嫉妬を引こうとした。だから彼女の自我を表す「白い歯」が登場する。


「それから二三分は全く静かになつた。部屋は煖炉(だんろ)で温(あたゝ)めてある。今日は外面(そと)でも、さう寒くはない。風は死に尽した。枯れた樹が音なく冬の日に包まれて立つてゐる。三四郎は画室へ導かれた時、霞の中へ這入つた様な気がした。丸卓に(ひぢ)を持たして、此静かさの夜に勝る(さかひ)に、(はばかり)りなき精神(こゝろ)を溺れしめた。此静かさのうちに、美禰子がゐる。美禰子の影が次第に出来上りつゝある。(ふと)つた画工の画筆(ブラツシ)丈が動く。夫れも眼に動く丈で、耳には静かである」

…「風は死に尽し」、樹も「枯れ」、「音なく冬の日に包まれて立つてゐる」。「死」のイメージが物語を覆う。いま美禰子も、その若い姿は絵の中「影」となって「静かに」封印される。それはまるでカンバスという棺に葬られるかのようだ。


「静かなものに封じ込められた美禰子は全く動か」ず、「団扇を翳して立つた姿その儘が既に画」であった。三四郎には、「不可思議に奥行のある画から、精出して、其奥行丈を落して、普通の画に美禰子を描き直してゐる」ように思われた。立体・三次元から平面・二次元へ、命あるものから死への移行。


「にも(かか)はらず第二の美禰子は、この静さのうちに、次第と第一に近づいて来る」…絵に立体感と命が生まれる様子。


「三四郎には、此二人の美禰子の間に、時計の音に触れない、静かな長い時間が含まれてゐる様に思はれた。其時間が画家の意識にさへ上らない程 音無(おとなし)く経つに従つて、第二の美禰子が漸やく追ひ付いて来る。もう少しで双方がぴたりと出合つて一つに収まると云ふ所で、時の流れが急に向きを換へて永久の中に注いで仕舞ふ」…現実の美禰子が、絵の中の美禰子とぴったりと重なる寸前でそれがかなわないこと。時間は「永久」に流れており、それは「時計の音」によって刻まれている。命を持った実物の美禰子が、原口の筆によって時間の流れが止められ、絵の中へ閉じ込められようとしているのだが、原口の筆により絵の中の美禰子に命が吹き込まれようとしている。しかし二人の美禰子が完全に一致する寸前で、それはかなわなかった。美禰子が絵の中に永遠の命を持つことはまだかなわない。美禰子が「苦しくなつた」(次話)ためだ。


原口の「画筆は夫れより先には進めない」。三四郎が「気が付いて、不図美禰子を見」ると、「美禰子は依然として動かずに居る」。

「三四郎の頭は此静かな空気のうちで覚えず動いてゐた」。それは、芸術の世界に「酔つた心持」であったからだ。


「すると突然原口さんが笑ひ出した」。美禰子の疲れを悟ったからだ。

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