夏目漱石「三四郎」本文と解説10-2 三四郎はひとの文章と葬式をよそから見た。もし誰かが、美禰子を余所から見ろと注意したら驚ろいたに違ひない。三四郎は美禰子を余所から見る事が出来なくなっている。
◇本文
「朽ちざる墓に眠り、伝はる事に生き、知らるる名に残り、しからずは滄桑の変に任せて、後の世に存せんと思ふ事、昔より人の願ひなり、此願ひのかなへるとき、人は天国にあり。去れども真なる信仰の教法より視れば、此願ひも此満足も無きが如くに果敢きものなり。生きるとは、再びの我に帰るの意にして、再びの我に帰るとは、願ひにもあらず、望みにもあらず、気高き信者の見たる明白なる事実なれば、聖徒の墓地に横たはるは猶 埃及の砂中に埋まるが如し。常住の吾身を観じ悦べば、六尺の狭きもアドリエーナスの大廟と異なる所あらず。成るが儘に成るとのみ覚悟せよ」
是はハの末節である。三四郎はぶら/\白山の方へ歩きながら、往来のなかで、此一節を読んだ。広田先生から聞く所によると、此著者は有名な名文家で、此一篇は名文家の書いたうちの名文であるさうだ。広田先生は其話をした時に、笑ひながら、尤も是は私の説ぢやないよと断られた。成程三四郎にも何処が名文だか能く解らない。只句切が悪くつて、字遣ひが異様で、言葉の運び方が重苦しくつて、丸で古い御寺を見る様な心持がした丈である。此一節丈読むにも道程にすると、三四町も掛かつた。しかも判然とはしない。
贏ち得た所は物寂てゐる。奈良の大仏の鐘を撞いて、其 余波の響きが、東京にゐる自分の耳に微かに届いたと同じ事である。三四郎は此一節の齎す意味よりも、其意味の上に這ひかゝる情緒の影を嬉しがつた。三四郎は切実に生死の問題を考へた事のない男である。考へるには、青春の血が、あまりに暖か過ぎる。眼の前には眉を焦がす程な大きな火が燃えてゐる。其感じが、真の自分である。三四郎は是から曙町の原口の所へ行く。
小供の葬式が来た。羽織を着た男がたつた二人着いてゐる。小い棺は真白な布で巻いてある。其傍に奇麗な風車を結ひ付けた。車がしきりに回る。車の羽瓣が五色に塗つてある。それが一色になつて回る。白い棺は奇麗な風車を断間なく揺かして、三四郎の横を通り越した。三四郎は美しい葬だと思つた。
三四郎は他の文章と、他の葬式を余所から見た。もし誰か来て、序に美禰子を余所から見ろと注意したら、三四郎は驚ろいたに違ひない。三四郎は美禰子を余所から見る事が出来ない様な眼になつてゐる。第一余所も余所でないもそんな区別は丸で意識してゐない。たゞ事実として、他の死に対しては、美しい穏やかな味はひがあると共に、生きてゐる美禰子に対しては、美しい享楽の底に、一種の苦悶がある。三四郎は此苦悶を払はうとして、真直に進んで行く。進んで行けば苦悶が除れる様に思ふ。苦悶を除る為に一歩傍へ退く事は夢にも案じ得ない。これを案じ得ない三四郎は、現に遠くから、寂滅の会を文字の上に眺めて、夭折の憐れを、三尺の外に感じたのである。しかも、悲しい筈の所を、快(こゝろよ)く眺めて、美しく感じたのである。
曙町へ曲がると大きな松がある。此松を目標に来いと教はつた。松の下へ来ると、家が違つてゐる。向ふを見ると又松がある。其先にも松がある。松が沢山ある。三四郎は好い所だと思つた。多くの松を通り越して左へ折れると、生垣に奇麗な門がある。果して原口といふ標札が出てゐた。其標札は木理の込んだ黒つぽい板に、緑の油で名前を派出に書いたものである。字だか模様だか分からない位 凝つてゐる。門から玄関迄はからりとして何にもない。左右に芝が植ゑてある。 (青空文庫より)
◇解説
病気と聞いていた広田を、三四郎が見舞った場面。
人の命に関わる話題から、若い三四郎の、命に対する態度が説明される。
「朽ちざる墓に眠り、伝はる事に生き、知らるる名に残り[伝承・歴史にいつまでも名を残ることを期待し]、しからずは[そうでなければ]滄桑の変[世の中の移り変りのはなはだしいこと]に任せて、後の世に存せんと思ふ事[後世まで名が残ることを期待することは]、昔より人の願ひなり、此願ひのかなへるとき、人は天国にあり[自分の名や業績が歴史に刻まれることは、昔からの人の願いであり、この願いがかなったとき、人は幸せだろう]。去れども真なる信仰の教法より視れば、此願ひも此満足も無きが如くに果敢きものなり[しかし真の信仰の教えから見ると、この願いも満足も無駄で価値のないことだ]。生きるとは、再びの我に帰るの意にして、再びの我に帰るとは[生きるとは、本来の自分に帰ることで、本来の自分に帰るとは]、願ひにもあらず、望みにもあらず、気高き信者の見たる明白なる事実なれば[願うことでも、望むことでもなく、気高い信仰者がはっきりと悟ることであり]、聖徒の墓地に横たはるは猶 埃及の砂中に埋まるが如し[聖なるキリスト教徒が墓地に横たわる様子は、エジプトの砂中に埋まるのと同じだ]。常住の吾身を観じ悦べば、六尺の狭きもアドリエーナスの大廟と異なる所あらず[永久不変の自分を祝福すると、わずか180㎝の狭い墓地も、アドリエーナスの大廟と同じに感じられる]。成るが儘に成るとのみ覚悟せよ[なるようになる・自然に任せようと思え]」
「アドリエーナスの大廟」…ローマ皇帝ハドリアヌスが生前自分で建てた霊廟。(角川文庫注釈)
「三四郎はぶら/\白山の方へ歩きながら、往来のなかで、此一節を読んだ」。広田から「此著者は有名な名文家で、此一篇は名文家の書いたうちの名文である」。「尤も是は私の説ぢやないよ」と説明されたが、「三四郎にも何処が名文だか能く解らない。只句切が悪くつて、字遣ひが異様で、言葉の運び方が重苦しくつて、丸で古い御寺を見る様な心持がした丈である。此一節丈読むにも道程にすると、三四町も掛かつた。しかも判然とはしない」。
努力して読んだ結果として得たものは、物寂しさだけだった。三四郎は「此一節の齎す意味」「の上に這ひかゝる情緒の影を嬉しがつた」。この文章から感じられる雰囲気・情緒が自分の心に沿ったものだったということ。
「三四郎は切実に生死の問題を考へた事のない男である。考へるには、青春の血が、あまりに暖か過ぎる。眼の前には眉を焦がす程な大きな火が燃えてゐる。其感じが、真の自分である。三四郎は是から曙町の原口の所へ行く」
…三四郎はまだ若く、彼の体と心を流れる「青春の血」は、「あまりに暖か過ぎる」。情熱や希望、生きる力があふれている三四郎。「血」や「火」の色は「赤」く、それは『三四郎』や『それから』において危機を表すことが多いが、青春の血も、情熱・愛を表す半面、それがうまく作用しないと途端に危機的状況に陥るだろう。
以前、鉄道自殺の場面が描かれた。入院中の妹に呼び出された野々宮の代わりに、彼の家で留守番する三四郎。
「宵の口ではあるが、場所が場所丈にしんとしてゐる。庭の先で虫の音がする。独りで坐つてゐると、淋しい秋の初めである。其時遠い所で誰か、
「あゝあゝ、もう少しの間だ」
と云ふ声がした。方角は家の裏手の様にも思へるが、遠いので確りとは分からなかつた。また方角を聞き分ける暇もないうちに済んで仕舞つた。けれども三四郎の耳には明らかに、此一句が、凡てに捨てられた人の、凡てから返事を予期しない、真実の独白と聞えた。三四郎は気味が悪くなつた。所へ又汽車が遠くから響いて来た。其音が次第に近付いて孟宗藪の下を通るときには、前の列車より倍も高い音を立てゝ過ぎ去つた。座敷の微震がやむ迄は茫然としてゐた三四郎は、石火の如く、先刻の嘆声と今の列車の響とを、一種の因果で結び付けた。さうして、ぎくんと飛び上がつた。其因果は恐るべきものである。
三四郎は此時、凝と座に着いてゐる事の極めて困難なのを発見した。脊筋から足の裏迄が疑惧の刺激でむづ/\する。立つて便所に行つた。窓から外を覗くと、一面の星月夜で、土手下の汽車道は死んだ様に静かである。それでも竹格子の間から鼻を出す位にして、暗い所を眺めてゐた。
すると停車場の方から提燈を点けた男が鉄軌の上を伝つて此方へ来る。話し声で判じると三四人らしい。提燈の影は踏切りから土手下へ隠れて、孟宗藪の下を通る時は、話し声丈になつた。けれども、其言葉は手に取る様に聞えた。
「もう少し先だ」
足音は向ふへ遠退いて行く。三四郎は庭先へ廻つて下駄を突掛けた儘孟宗藪の所から、一間余の土手を這ひ下りて、提燈のあとを追掛けて行つた。(3-9)
若い三四郎にとって「死」はまだ遠い存在で、「切実に生死の問題を考へた事のない」のも当然なのだが、漱石は生の裏には死が寄り添っていると考えている。死を思うことの無い生はまがいものであり、その認識が三四郎にも必要だと。
だから次の場面でわざわざ「小供の葬式」を登場させたのだ。
「贏ち得る」…=「勝ち得る」。(努力の結果)自分のものとする。(三省堂新明解国語辞典)
「羽織を着た男がたつた二人着いてゐる」…美禰子を失った後の野々宮と三四郎の暗喩。
「小い棺は真白な布で巻いてある」、そこに眠るのは、「絵」の中の人となる美禰子だ。彼女は青春時代から旅立とうとしている。
美禰子の死を美しく飾る「奇麗な風車」。「車の羽瓣が五色に塗つてある。それが一色になつて回る」。やがて「三四郎の横を通り越した」。三四郎からの旅たちだ。「三四郎は美しい葬だと思つた」。美しい美禰子を見送る三四郎。
若い三四郎は、自分に直接関係がない「他の文章」・「他の葬式」は、「余所から見」ることができるが、自分がとらわれている「美禰子を余所から見」る・冷静に客観視することはできない。三四郎にとって、身近な人との関係性をそのようにとらえることは思いの外のことだ。「三四郎は美禰子を余所から見る事が出来ない様な眼になつてゐる。第一余所も余所でないもそんな区別は丸で意識してゐない」。美禰子に対して、「愛」という強い感情を持つ三四郎。
三四郎は「他の死に対しては、美しい穏やかな味はひ」を感じ、「生きてゐる美禰子に対しては、美しい享楽の底に、一種の苦悶」を抱く。美禰子に対する「苦悶を払はうとして、真直に進んで行」けば「苦悶が除れる様に思」うばかりで、その「苦悶を除る為に」心を落ち着かせ、冷静になろうとは考えもつかない。それが恋だと言えばそれまでだが。
「三四郎は、現に遠くから、寂滅の会を文字の上に眺めて(死を文字の上に眺めるだけで)、夭折の憐れを、三尺の外に感じた(「小供の葬式」を他人事・自分とは無関係だと思った)のである。しかも、悲しい筈の所を、快(こゝろよ)く眺めて、美しく感じたのである」。
三四郎の若さ・未熟さは、美禰子に対しては恋に浮かされ冷静な客観視ができなくなる一方で、自分に無関係な命に対しては悲しみよりも美を感じる。死をまだ現実的なもの・身近に感じない三四郎。
曙町にある原口の家は松に囲まれており、三四郎は好感を持つ。「森の女」美禰子はそこでいま、自身の青春とともに、絵に封印されようとしている。