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夏目漱石「三四郎」本文と解説10-1 広田先生が病気だと云ふから、三四郎が見舞に来た。

◇本文

広田先生が病気だと云ふから、三四郎が見舞に来た。門を這入ると、玄関に靴が一足揃へてある。医者かも知れないと思つた。いつもの通り勝手口へ回ると誰もゐない。のそ/\上がり込んで茶の間へ来ると、座敷で話し声がする。三四郎はしばらく佇(たゞず)んでゐた。手に()なり大きな風呂敷包みを()げてゐる。中には樽柿が一杯入つてゐる。今度来る時は、何か買つてこいと、与次郎の注意があつたから、追分の通で買つて来た。すると座敷のうちで、突然どたり、ばたりと云ふ音がした。誰か組打を始めたらしい。三四郎は必定(ひつじょう)喧嘩と思ひ込んだ。風呂敷包を提げた儘、仕切りの唐紙を鋭く一尺許明あけて(きつ)と覗き込んだ。広田先生が茶の袴を穿()いた大きな男に組み敷かれてゐる。先生は俯伏(うつぶし)の顔を際どく畳から上げて、三四郎を見たが、にやりと笑ひながら、

「やあ、御出で」と云つた。上の男は一寸振り返つた儘(まゝ)である。

「先生、失礼ですが、起きて御覧なさい」と云ふ。何でも先生の手を逆に取つて、(ひぢ)関節(つがひ)(おもて)から、膝頭で(おさ)へてゐるらしい。先生は下から、到底起きられない旨を答へた。上の男は、それで、手を離して、膝を立てゝ、袴の(ひだ)を正しく、居住居(ゐずまゐ)を直した。見れば立派な男である。先生もすぐ起き直つた。

「成程」と云つてゐる。

「あの流で行くと、無理に逆らつたら、腕を折る恐れがあるから、危険です」

 三四郎は此問答で、始めて、此両人の今何をしてゐたかを悟つた。

「御病気ださうですが、もう(よろ)しいんですか」

「えゝ、もう宜しい」

 三四郎は風呂敷包を解いて、中にあるものを、二人の間に広げた。

「柿を買つて来ました」

 広田先生は書斎へ行つて、小刀(ナイフ)を取つて来る。三四郎は台所から庖丁を持つて来た。三人で柿を食ひ出した。食ひながら、先生と知らぬ男はしきりに地方の中学の話を始めた。生活難の事、紛擾(ふんじょう)の事、一つ所に長く()まつてゐられぬ事、学科以外に柔術の教師をした事、ある教師は、下駄の台を買つて、鼻緒は古いのを、()()へて、用ひられる丈用ひる位にしてゐる事、今度辞職した以上は、容易に口が見付かりさうもない事、(やむ)を得ず、それ迄妻を国元へ預けた事――中々尽きさうもない。

 三四郎は柿の(たね)を吐き出しながら、此の男の顔を見てゐて、情けなくなつた。今の自分と、此男と比較して見ると、丸で人種が違ふ様な気がする。此男の言葉のうちには、もう一遍学生生活がして見たい。学生生活程気楽なものはないと云ふ文句が何度も繰り返された。三四郎は此文句を聞くたびに、自分の寿命も(わづ)か二三年の間なのか知らんと、盆槍(ぼんやり)考へ始めた。与次郎と蕎麦などを食ふ時の様に、気が冴えない。

 広田先生は又立つて書斎に入つた。帰つた時は、手に一巻の書物を持つてゐた。表紙が赤黒くつて、切り口の(ほこり)で汚れたものである。

「是が此間話したハイドリオタフヒア。退屈なら見てゐ玉へ」

 三四郎は礼を述べて書物を受け取つた。

寂寞(じやくまく)罌粟花(けし)を散らすや(しき)りなり。人の記念に対しては、永劫に(あたひ)すると否とを問ふ事なし」といふ句が眼に付いた。先生は安心して柔術の学士と談話をつゞける。――中学教師抔の生活状態を聞いて見ると、みな気の毒なもの許の様だが、真に気の毒と思ふのは当人丈である。なぜといふと、現代人は事実を好むが、事実に伴ふ情操は切り棄てる習慣である。切り棄てなければならない程、世間が切迫してゐるのだから仕方がない。其証拠には新聞を見ると分かる。新聞の社会記事は十の九迄悲劇である。けれども我々は此悲劇を悲劇として味はう余裕がない。たゞ事実の報道として読む丈である。自分の取る新聞抔は、死人十何人と題して、一日に変死した人間の年齢、戸籍、死因を六号活字で一行づゝに書く事がある。簡潔明瞭の(きよく)である。又泥棒早見と云ふ欄があつて、何所(どこ)へどんな泥棒が入つたか、一目に分かる様に泥棒がかたまつてゐる。是も至極便利である。すべてが、この調子と思はなくつちや不可(いけな)い。辞職もその通り。当人には悲劇に近い出来事かも知れないが、他人には()れ程痛切な感じを与へないと覚悟しなければなるまい。其積りで運動したら好からう。

「だつて先生位余裕があるなら、少しは痛切に感じても()ささうなものだが」と柔術の男が真面目な顔をして云つた。此時は広田先生も三四郎も、さう云つた当人も一度に笑つた。此男が中々帰りさうもないので三四郎は、書物を借りて、勝手から表へ出た。 (青空文庫より)


◇解説

病気見舞に広田宅を訪れた三四郎。彼は既に、誰もいないのに勝手口から勝手に「のそ/\上がり込」むことができる存在だ。

見舞いの手土産の「()なり大きな風呂敷包み」の「中には樽柿が一杯入つてゐる」。「今度来る時は、何か買つてこいと、与次郎の注意があつたから、追分の通で買つて来た」ものだ。

「座敷のうちで、突然どたり、ばたりと云ふ音がした」。「仕切りの唐紙を鋭く一尺許明あけて(きつ)と覗き込」むと、「広田先生が茶の袴を穿()いた大きな男に組み敷かれてゐる」。

広田は「にやりと笑ひながら、「やあ、御出で」と云つた」。ケンカではなく「柔術」の体験だった。


広田の病気は「もう宜しい」ようだ。三人で柿を食ひながら、「先生と知らぬ男はしきりに地方の中学の話を始めた」。生活難、紛擾、一つ所に長く()まつてゐられぬ、学科以外に柔術の教師をした、下駄の台を買つて、鼻緒は古いのを()()へて、用ひられる丈用ひる位にしてゐる、今度辞職した以上は、容易に口が見付かりさうもない、それ迄妻を国元へ預けた、等々「中々尽きさうもない」。広田先生の相手の「大きな男」は、地方の中学校教師をしていたようだ。広田を「先生」と呼んでおり、広田のもとの生徒なのだろう。


「紛擾」(ふんじょう)…(国と国との間の)争いごと。(三省堂新明解国語辞典)


「三四郎は柿の(たね)を吐き出しながら、此の男の顔を見てゐて、情けなくなつた」。「此男の言葉のうちには、もう一遍学生生活がして見たい。学生生活程気楽なものはないと云ふ文句が何度も繰り返され」、「三四郎は此文句を聞くたびに、自分の寿命も(わづ)か二三年の間なのか知らんと、盆槍(ぼんやり)考へ始め」「気が冴えない」。

三四郎は、「今の自分と、此男と比較して見ると、丸で人種が違ふ様な気がする」とするが、それほどの違いはないだろう。「大きな男」の姿は、数年後の三四郎の姿と重ならないとも限らない。今のままではこの男と同じ運命をたどる可能性も低くなく、「情けなくなった」と処断する権利が三四郎にあるわけではない。

三四郎自身、うすうす気づいている。自分もこの男のようになる可能性があることを。しかしその現実をあからさまに見せられた嫌悪感を彼は抱いたということ。

前に、大学の卒業生が就職に苦労していることが話題となっていた。東大の学生といえども、就職難だった。


「翌日も例刻に学校へ行つて講義を聞いた。講義の間に今年の卒業生が何所其所へ幾何で売れたと云ふ話を耳にした。誰と誰がまだ残つてゐて、それがある官立学校の地位を競争してゐる噂だ抔と話してゐるものがあつた。三四郎は漠然と、未来が遠くから眼前に押し寄せる様な鈍い圧迫を感じたが、それはすぐ忘れて仕舞つた。」(3-3)


広田はそのような三四郎の様子を鋭く感じる。「是が此間話したハイドリオタフヒア。退屈なら見てゐ玉へ」と本を渡す。なお「ハイドリオタフヒア」は、次話にも登場する。


「ハイドリオタフヒア」…「壺葬論」。イギリスの医者で著述家であるトーマス・ブラウンが1658年に書いた本。古代の骨壺発見を基に死体処理のさまざまの様式について考究されている。(角川文庫注釈)


寂寞(じやくまく)罌粟花(けし)を散らすや(しき)りなり。人の記念に対しては、永劫に(あたひ)すると否とを問ふ事なし」

「寂寞」(じゃくまく・せきばく)…(物音が何もしない意)ものさびしくて、気持ちが満たされない様子だ。(三省堂新明解国語辞典)

「罌粟」(けし)…罌粟の花は「赤」い。『三四郎』や『それから』にとっては、危機の色だ。


けし…「西洋では安眠の象徴とされ、ローマ神話の眠りの神ソムヌスは女神ケレスを眠らせるために、これを与えたといい、キリスト教世界でもケシは天国での眠りを意味する。また多産の象徴ともされ、ケレスは穀物の神でもあり小麦と雛ゲシの花冠をかぶる。さらに死と復活の象徴でもあり、ケレスはいったん眠ったが再び元気で目を覚ます。これは穀物の種子が永遠に実り続いていくことを語っている」(「世界宗教用語大事典」中経出版)


「淋しさがケシの花をしきりに散らす。その様子は、死んだ人の記念として、永遠に値するかどうかに関わらない」


広田と「柔術の学士」との談話は続く。

広田は、「中学教師抔の生活状態を」「真に気の毒(ひどい・悲惨だ)と思ふのは当人丈である」。「なぜといふと、現代人は事実を好むが、事実に伴ふ情操は切り棄てる習慣」だからだ。それは「切り棄てなければならない程、世間が切迫してゐるのだから仕方がない」と言う。

「其証拠には」「新聞の社会記事は十の九迄悲劇である。けれども我々は此悲劇を悲劇として味はう余裕がない。たゞ事実の報道として読む丈である」。新聞は「簡潔明瞭の(きよく)であ」り、「至極便利である」。

「辞職もその通り」で、「当人には悲劇に近い出来事かも知れないが、他人には()れ程痛切な感じを与へないと覚悟しなければなるまい。其積りで運動したら好からう」。

これに対し「柔術の学士」は、「だつて先生位余裕があるなら、少しは痛切に感じても()ささうなものだが」と「真面目な顔をして云つた」。「切迫」していない広田には、自分を気の毒だと感じる余裕があるはずであり、同情してほしい。ということ。

三人は「一度に笑つた」。


「此男が中々帰りさうもないので三四郎は、書物を借りて、勝手から表へ出た」。


今話では、冒頭に広田の病気が示されるのが、やや唐突だ。さらに、三四郎がせっかく見舞いに訪ねたのに当人はとても元気な様子で、以前の教え子と柔術体験をしている。また、話題として挿入される「ハイドリオタフヒア」の内容が分かりにくいし、「死」の説明の材料として適切かどうか微妙だ。漱石は、若い血によって体も心も熱くなっている三四郎には、他者の死がまだ遠い存在だということを述べようとしている。その説明の材料として持ち出されたのが「ハイドリオタフヒア」だった。

先ほども述べたが、生の背中には死が常に寄り添っている。人はこのことを忘れるわけにはいかない。どんなに元気で若さ溢れる人であっても、何かの拍子に病気になったり死んだりすることがある。

また、死を思うことによって思考も人生も深みを増す。若さや命を謳歌するだけでは、楽しみや幸福の上っ面しか感じることはできない。


この物語において、やや唐突で話の筋から外れている・不要かのように見える「死」や「自殺」のエピソードが挟み込まれているのは、以上のような理由による。人は、「死」を思うことなしに、充実した深みのある「生」を生きる・味わうことはできない。

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