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夏目漱石「三四郎」本文と解説9-9 佐々木「(美禰子は原口の所に)毎日々々画に描(か)かれに行く。もう余っ程出来たらう」

◇本文

 人の通らない軒燈(けんとう)ばかり明らかな露地を抜けて表へ出ると、風が吹く。北へ向き直ると、まともに顔へ当たる。時を切つて、自分の下宿の方から吹いてくる。其時三四郎は考へた。此風のなかを、野々宮さんは、妹を送つて里見迄連れて行つて遣るだらう。

 下宿の二階へ上がつて、自分の室へ這入つて、坐つて見ると、矢っ張り風の音がする。三四郎は斯う云ふ風の音を聞く度に、運命といふ字を思ひ出す。ごうと鳴つて来る度に(すく)みたくなる。自分ながら決して強い男とは思つてゐない。考へると、上京以来自分の運命は大概与次郎の為に(こしら)へられてゐる。しかも多少の程度に於て、和気 靄然(あいぜん)たる翻弄を受ける様に製へられてゐる。与次郎は愛すべき悪戯(いたづら)ものである。向後も此愛すべき悪戯ものゝ為に、自分の運命を握られてゐさうに思ふ。風がしきりに吹く。慥かに与次郎以上の風である。

 三四郎は母から来た三拾円を枕元へ置いて寐た。此三拾円も運命の翻弄が産んだものである。此三拾円が是から先どんな働きをするか、丸で分からない。自分はこれを美禰子に返しに行く。美禰子がこれを受取るときに、又 一煽(ひとあほり)来るに極つてゐる。三四郎は成るべく大きく来れば好いと思つた。

 三四郎はそれなり寐付いた。運命も与次郎も手を下し様のない位すこやかな眠りに入つた。すると半鐘の音で眼が覚めた。何所(どこ)かで人声(ひとごゑ)がする。東京の火事は是で二返目である。三四郎は寐巻の上へ羽織を引掛けて、窓を明けた。風は大分落ちてゐる。向ふの二階屋が風の鳴るなかに、真黒に見える。家が黒い程、家の後ろの空は赤かつた。

 三四郎は寒いのを我慢して、しばらく此赤いものを見詰めてゐた。其時三四郎の頭には運命があり/\と赤く映つた。三四郎は又暖かい布団のなかに潜り込んだ。さうして、赤い運命のなかで狂ひ回る多くの人の身の上を忘れた。

 夜が明ければ(つね)の人である。制服を着けて、帳面(ノート)を持つて、学校へ出た。たゞ三拾円を(ふところ)にする事だけは忘れなかつた。生憎時間割の都合が悪い。三時迄ぎつしり詰まつてゐる。三時過ぎに行けば、よし子も学校から帰つて来てゐるだらう。ことに依れば里見恭助といふ兄も在宅(うち)かも知れない。人がゐては、金を返すのが、全く駄目の様な気がする。

 又与次郎が話し掛けた。

「昨夜は御談義を聞いたか」

「なに御談義といふ程でもない」

「左うだらう、野々宮さんは、あれで理由(わけ)の解つた人だからな」と云つて何所(どこ)かへ行つて仕舞つた。二時間後の講義のときに又出逢つた。

「広田先生の事は大丈夫旨く行きさうだ」と云ふ。どこ迄事が運んだかと聞いて見ると、

「いや心配しないでも好い。いづれ(ゆつく)り話す。先生が君がしばらく来ないと云つて、聞いてゐたぜ。時々行くが好い。先生は一人ものだからな。吾々が慰めて()らんと、不可(いかん)。今度何か買つて来い」と云ひつ放して、それなり消えて仕舞つた。すると、次の時間に又何処からか現れた。今度は何と思つたか、講義の最中に、突然、

「金受取りたりや」と電報の様なものを白紙(しらかみ)へ書いて出した。三四郎は返事を書かうと思つて、教師の方を見ると、教師がちやんと此方(こつち)を見てゐる。白紙を丸めて足の下へ()げた。講義が終るのを待つて、始めて返事をした。

「金は受取つた。此所(こゝ)にある」

「左うか夫れは好かつた。返す積りか」

「無論返すさ」

「それが好からう。早く返すが好い」

「今日返さうと思ふ」

「うん午過ぎ遅くならゐるかもしれない」

「何所かへ行くのか」

「行くとも、毎日々々画に()かれに行く。もう余っ程出来たらう」

「原口さんの所か」

「うん」

 三四郎は与次郎から原口さんの宿所を聞き取つた。 (青空文庫より)


◇解説

母から送られた金を、野々宮から受け取った後の場面。美禰子の野々宮への接近とよし子の縁談話に、三四郎の心はおだやかでない。


「人の通らない軒燈(けんとう)ばかり明らかな露地」。「風が吹く。北へ向き直ると、まともに顔へ当たる」。孤独や焦燥を感じる三四郎は「考へた。此風のなかを、野々宮さんは、妹を送つて里見迄連れて行つて遣るだらう」と。妹を媒介に接近する野々宮への憂慮。


さまざま心配事が重なり、三四郎の心は穏やかでない。「下宿の二階へ上がつて、自分の室へ這入つて、坐つて見」ても、「矢っ張り風の音がする」。「斯う云ふ風の音を聞く度に、運命といふ字を思ひ出」し、「ごうと鳴つて来る度に(すく)みたくなる。自分ながら決して強い男とは思つてゐない」。急に弱気になり始めた三四郎。


「考へると、上京以来自分の運命は大概与次郎の為に(こしら)へられてゐる」ように思われる。「しかも多少の程度に於て、和気 靄然(あいぜん)たる翻弄を受ける様に製へられてゐる」。

和気靄然(わきあいぜん)」…なごやかな気分がみなぎっているさま。(日本国語大辞典)

三四郎の「運命」を握る男・佐々木。しかしそれは決して暗鬱なことではなく、むしろ和やかなものだと感じる三四郎。20円(20万円)もの金をなかなか返さない相手にしては、ずいぶん甘い鑑定だ。


与次郎という「愛すべき悪戯ものゝ為に」、これからも「自分の運命を握られてゐさうに思ふ」。「しきりに吹く」風も、佐々木のようだと感じる三四郎。


漱石は、佐々木を「愛すべき悪戯もの」と設定したいようだが、これまでの描写では、あまりそのようには受け取れない。むしろその自分勝手さや、混乱だけを招き他者に迷惑をかける印象が強い。

トリックスターは、場をかき乱すが、それまでの混沌や課題をやがて昇華させる働きをする。佐々木の働きは混乱だけで終わる。


「三四郎は母から来た三拾円を」大切に「枕元へ置いて寐た」。「此三拾円も運命の翻弄が産んだもの」と感じる三四郎。「此三拾円が是から先どんな働きをするか、丸で分からない」。「美禰子がこれを受取るときに、又 一煽(ひとあほり)来るに極つてゐる。三四郎は成るべく大きく来れば好いと思つた」。野々宮と美禰子が接近している。結果はどうあれ、自分にも恋のひと波乱が欲しいと思っているのだ。


「三四郎はそれなり寐付いた。運命も与次郎も手を下し様のない位すこやかな眠りに入つた」。さまざまな煩いがあっても、屈託する間もなく眠りに落ちることができるのが若さだろう。


「すると半鐘の音で眼が覚めた。何所(どこ)かで人声(ひとごゑ)がする」。心の安寧を乱す「東京の火事」。「三四郎は寐巻の上へ羽織を引掛けて、窓を明けた」。「向ふの二階屋が風の鳴るなかに、真黒に見える。家が黒い程、家の後ろの空は赤かつた。三四郎は寒いのを我慢して、しばらく此赤いものを見詰めてゐた。其時三四郎の頭には運命があり/\と赤く映つた」。

『それから』において「赤」は、物語の転換点や重要な場面には必ずと言っていいほど出てきており、漱石は意図してそのような効果を「赤」に持たせている。物語の終末部では、「赤」が代助の精神を崩壊させてしまうほどの強力な力を発揮する。このように「赤」は、興奮、狂気、破滅、死の象徴として、『それから』の重要な場面・展開部に表れる。

『三四郎』においても、登場人物たちの運命が大きく動こうとしている今、三四郎の運命の展開が焦点となる。


三四郎は、「又暖かい布団のなかに潜り込んだ。さうして、赤い運命のなかで狂ひ回る多くの人の身の上を忘れた」。世の人々は、毎日の生活に汲々としている。それに比べれば三四郎の恋の悩みなど、大したことではない。「赤」い度合いがまるで違うのだ。「暖かい布団のなかに潜り込」めば「赤い運命のなかで狂ひ回る多くの人の身の上を忘れ」ることができ、また、「夜が明ければ(つね)の人である」。昨日の悩みなどすっかり忘れてしまう。


いつもと同じように「制服を着けて、帳面(ノート)を持つて、学校へ出た」。いつもと違うのは、「三拾円を(ふところ)にする事」だ。「生憎時間割の都合が悪」く、「三時迄ぎつしり詰まつてゐる」。「三時過ぎに行けば、よし子も学校から帰つて来てゐるだらう。ことに依れば里見恭助といふ兄も在宅(うち)かも知れない」。「人がゐては、金を返すのが、全く駄目の様な気がする」。


「又」波乱の源である「与次郎が話し掛けた」。

「昨夜は御談義を聞いたか」や、「左うだらう、野々宮さんは、あれで理由(わけ)の解つた人だからな」などは、金を借りて困らせている相手にいうセリフではない。下手に出なければならないところなのに上から目線。礼儀や情が分からない人だ。人の気も知らず、「云つて何所(どこ)かへ行つて仕舞つた」。

「二時間後の講義のときに又出逢つた」時には、広田先生の話をしたなり「消えて仕舞つた」。

「次の時間に又何処からか現れた」時には、「講義の最中に、突然、「金受取りたりや」と電報の様なものを白紙(しらかみ)へ書いて出し」、「早く返すが好い」と急かす。

佐々木は里見家の事情に詳しく、美禰子が原口のもとに「毎日々々画に()かれに行く。もう余っ程出来たらう」という情報を寄せる。

絵の中の人になりつつある美禰子。

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