夏目漱石「三四郎」本文と解説9-8 よし子「だつて仕方がないぢや、ありませんか。知りもしない人の所へ、行くか行かないかつて、聞いたつて。好きでも嫌ひでもないんだから、何にも云ひ様はありやしないわ」
◇本文
「御母さんが心配して、長い手紙を書いて寄こしましたよ。三四郎は余義ない事情で月々つきの学資を友達に貸したと云ふが、いくら友達だつて、さう無暗に金を借りるものぢやあるまいし、よし借りたつて返す筈だらうつて。田舎のものは正直だから、さう思ふのも無理はない。それからね、三四郎が貸すにしても、あまり貸し方が大袈裟だ。親から月々学資を送つて貰ふ身分でゐながら、一度に弐拾円の三十円のと、人に用立てるなんて、如何にも無分別だとあるんですがね――何だか僕に責任が有る様に書いてあるから困る。……」
野々宮さんは三四郎を見て、にや/\笑つてゐる。三四郎は真面目に「御気の毒です」といつた許である。野々宮さんは、若いものを、極め付ける積で云つたんで無いと見えて、少し調子を変へた。
「なに、心配する事はありませんよ。何でもない事なんだから。たゞ御母さんは、田舎の相場で、金の価値を付けるから、三拾円が大変重くなるんだね。何でも参拾円あると、四人の家族が半年食つて行けると書いてあつたが、そんなものかな、君」と聞いた。よし子は大きな声を出して笑つた。三四郎にも馬鹿気てゐる所が頗る可笑しいんだが、母の言ひ条が、全く事実を離れた作り話でないのだから、其所に気が付いた時には、成程軽卒な事をして悪かつたと少しく後悔した。
「さうすると、月に五円の割だから、一人前一円二十五銭に当たる。それを三十日に割り付けると、四銭ばかりだが――いくら田舎でも少し安過ぎる様だな」と野々宮さんが計算を立てた。
「何を食べたら、その位で生きてゐられるでせう」とよし子が真面目に聞き出だした。三四郎も後悔する暇がなくなつて、自分の知つてゐる田舎生活の有様を色々話して聞かした。其中には宮籠といふ慣例もあつた。三四郎の家では、年に一度づゝ村全体へ十円寄附する事になつてゐる。其時には六十戸から一人づゝ出て、其六十人が、仕事を休んで、村の御宮へ寄つて、朝から晩迄、酒を飲みつゞけに飲んで、御馳走を食ひつゞけに食ふんだといふ。
「それで十円」とよし子が驚ろいてゐた。御談義は是で何所かへ行つたらしい。それから少し雑談をして一段落付いた時に、野々宮さんが改めて、斯う云つた。
「何しろ、御母さんの方ではね。僕が一応事情を調べて、不都合がないと認めたら、金を渡して呉れろ。さうして面倒でも其事情を知らせて貰ひたいといふんだが、金は事情も何も聞かないうちに、もう渡して仕舞つたしと、――何うするかね。君慥か佐々木に貸したんですね」
三四郎は美禰子から洩れて、よし子に伝はつて、それが野々宮さんに知れてゐるんだと判じた。然し其金が巡り巡つてワ゛イオリンに変形したものとは兄妹とも気が付かないから一種妙な感じがした。たゞ「左うです」と答へて置いた。
「佐々木が馬券を買つて、自分の金を失くなしたんだつてね」
「えゝ」
よし子は又大きな声を出して笑つた。
「ぢや、好加減に御母さんの所へさう云つて上げやう。然し今度から、そんな金はもう貸さない事に為たら好いでせう」
三四郎は貸さない事にする旨を答へて、挨拶をして、立ち掛けると、よし子も、もう帰らうと云ひ出した。
「先刻の話をしなくつちや」と兄が注意した。
「能くつてよ」と妹が拒絶した。
「能くはないよ」
「能くつてよ。知らないわ」
兄は妹の顔を見て黙つてゐる。妹は、また斯う云つた。
「だつて仕方がないぢや、ありませんか。知りもしない人の所へ、行くか行かないかつて、聞いたつて。好きでも嫌ひでもないんだから、何にも云ひ様はありやしないわ。だから知らないわ」
三四郎は知らないわの本意を漸く会得した。兄妹を其儘にして急いで表へ出た。 (青空文庫より)
◇解説
金を佐々木に貸したばかりに、今度は自分の下宿代の支払いに困ってしまい、故郷の母親に依頼した金が野々宮のもとに届いた場面。母親は、野々宮の苦言とともにその金を息子に渡してもらおうと考えている。
「余義ない事情で月々つきの学資を友達に貸したと云ふが、いくら友達だつて、さう無暗に金を借りるものぢやあるまいし、よし借りたつて返す筈だらう」。
「貸すにしても、あまり貸し方が大袈裟だ。親から月々学資を送つて貰ふ身分でゐながら、一度に弐拾円の三十円のと、人に用立てるなんて、如何にも無分別だ」。
母親の手紙の内容は至極当然だ。
野々宮は、「田舎のものは正直だから、さう思ふのも無理はない」が、「何だか僕に責任が有る様に書いてあるから困る」と言い、「三四郎を見て、にや/\笑つてゐる」。野々宮は、「若いものを、極め付ける積で」言ったのではないのだ。
「三四郎は真面目に「御気の毒です」といつた許である」。自分の不手際で先輩に迷惑をかけることになってしまった謝罪の言葉。今なら「ご迷惑をおかけし、本当に申し訳ありませんでした」と言う所であり、またその意味なのだろうが、「御気の毒」では、自己の罪を認めておらず責任を回避しているように聞こえる。自分の過失を棚に上げ、相手の困難に同情するようだからだ。
野々宮は、「少し調子を変へた」。
「心配する事はありませんよ。何でもない事なんだから」。また、「御母さんは、田舎の相場で、金の価値を付けるから、三拾円が大変重くなる」と三四郎の側に立ち同情する。
「参拾円あると、四人の家族が半年食つて行けると書いてあつたが、そんなものかな、君」という言葉に「よし子は大きな声を出して笑」い、「三四郎にも馬鹿気てゐる所が頗る可笑しいんだが、母の言ひ条が、全く事実を離れた作り話でないのだから、其所に気が付いた時には、成程軽卒な事をして悪かつたと少しく後悔した」。母の言は、あながち嘘でもなく、金の価値を改めて理解した彼は反省する。
ひとり一日「四銭ばかり」の生活に、「いくら田舎でも少し安過ぎる様だな」と野々宮が言い、よし子も、「何を食べたら、その位で生きてゐられるでせう」と「真面目に聞き出だした」。野々宮の出身が明かされていないのだが、野々宮家はそう言えるだけの資産があるのだろう。
三四郎は「田舎生活の有様」・実情を説明する。
「宮籠といふ慣例」は、「三四郎の家では、年に一度づゝ村全体へ十円寄附する事になつてゐる。其時には六十戸から一人づゝ出て、其六十人が、仕事を休んで、村の御宮へ寄つて、朝から晩迄、酒を飲みつゞけに飲んで、御馳走を食ひつゞけに食ふ」。「それで十円」とよし子が驚ろいたのは、「60人分の宴会費用総額が10万円」であったからだ。
また、この説明から、「三四郎の家」が村の「慣例」のために、毎年10万円ほどを支出する余裕があることがわかる。実家は村の中心的な位置にあるのだろう。この経済的余裕があるからこそ、三四郎は東京の大学に通うことができるし、急な支出に耐えられる。
三四郎の田舎生活の説明により、「御談義は是で何所かへ行つたらしい」。彼はひどく責められずに済んだ。
野々宮が改めて尋ねる。
「何しろ、御母さんの方ではね。僕が一応事情を調べて、不都合がないと認めたら、金を渡して呉れろ。さうして面倒でも其事情を知らせて貰ひたいといふんだが」、「君慥か佐々木に貸したんですね」。
佐々木の借金の話は、「美禰子から洩れて、よし子に伝はつて、それが野々宮さんに知れてゐる」ようだ。このグループはツーカーの仲なのだ。
「然し其金が巡り巡つてワ゛イオリンに変形したものとは兄妹とも気が付かないから一種妙な感じがした」三四郎は、「たゞ「左うです」と答へて置いた」。「佐々木が馬券を買つて、自分の金を失くなしたんだつてね」。「よし子は又大きな声を出して笑つた」。野々宮兄妹と美禰子の間では、佐々木が馬券ですってしまい、その金を三四郎が肩代わりしたということになっている。
これらのやり取りをふまえ、野々宮は、「ぢや、好加減に御母さんの所へさう云つて上げやう。然し今度から、そんな金はもう貸さない事に為たら好いでせう」と話をまとめ、三四郎にくぎを刺す。「三四郎は貸さない事にする旨を答へ」た。
「挨拶をして、立ち掛けると、よし子も、もう帰らうと云ひ出した」。彼女は三四郎と帰りたいのだ。また、自分の縁談話を遠ざけようとも思っている。
「先刻の話をしなくつちや」という兄の注意に、「能くつてよ」と「拒絶」するよし子。
兄「能くはないよ」…お前の一生にかかわる大事な話だ!
妹「能くつてよ。知らないわ」
兄「(妹の顔を見て黙つてゐる)」…こいつ、何考えてんの? 「知らないわ」ってどういうこと?
妹「だつて仕方がないぢや、ありませんか。知りもしない人の所へ、行くか行かないかつて、聞いたつて。好きでも嫌ひでもないんだから、何にも云ひ様はありやしないわ。だから知らないわ」
「三四郎は知らないわの本意を漸く会得した」。
よし子の説明はもっともだし、三四郎も納得したようだが、この説明は核心を外している。よし子には既に好きな人がいないのか。いい仲になっていないのか。そもそも結婚についてどう考えているのか。それらの説明がない。彼女の現在の状況や結婚観の説明がされていないのだ。これではただ単に、「縁談」という制度についての意見にとどまっている。その意味では、問題の核心を上手に外した答えとなっている。そうして彼女はそれを意図していただろう。
縁談という、「知りもしない人の所へ、行くか行かないかつて、聞いたつて。好きでも嫌ひでもないんだから、何にも云ひ様はありやしない」と言うよし子。これを推し進めれば、よし子にとっての結婚は、「好き」な人の所へ「行く」ものとなる。このように彼女は自分の考えをさりげなく示している。
三四郎は「兄妹を其儘にして急いで表へ出た」。縁談というごくプライベートな問題の話し合いに、部外者は不要だ。
美禰子からの野々宮への接近とよし子の縁談話は、三四郎を動揺させただろう。自分に気があるそぶりを見せる一方で、美禰子は野々宮をお出かけに誘う。まだ子供のように思われるよし子に縁談話が舞い込む。男女の関係は、広田が言う通り、意図と反応・結果が素直につながらず、どうなるかの予想が全くつかない。
九州から東京の大学に入学した三四郎の世界は急激に広がったが、恋愛という関係性に持ち込めるかもしれないと淡い期待を抱いていた相手の女性がふたりとも自分から離れていこうとしている寂しさや喪失感を抱く三四郎だった。
〇よし子の論理性
一見天然で素直、母性を感じさせるよし子だが、物事を論理的に考える知的な女性だ。今回もその片鱗がうかがえるが、以前、次のような場面があった。
「色々話してゐるうちに、よし子は三四郎に妙な事を聞き出した。それは、自分の兄の野々宮が好きか嫌かと云ふ質問であつた。一寸聞くと丸で頑是ない小供の云ひさうな事であるが、よし子の意味はもう少し深い所にあつた。研究心の強い学問好きの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなる訳である。人情で物をみると、凡てが好き嫌ひの二つになる。研究する気なぞが起るものではない。自分の兄は理学者だものだから、自分を研究して不可い。自分を研究すればする程、自分を可愛がる度は減るのだから、妹に対して不親切になる。けれども、あの位研究好きの兄が、この位自分を可愛がつて呉れるのだから、それを思ふと、兄は日本中で一番好い人に違ないと云ふ結論であつた。
三四郎は此説を聞いて、大いに尤もな様な、又何所か抜けてゐる様な気がしたが、さて何所が抜けてゐるんだか、頭がぼんやりして、一寸分からなかつた。それで表向此説に対しては別段の批評を加へなかつた。たゞ腹の中で、これしきの女の云ふ事を、明瞭に批評し得ないのは、男児として腑甲斐ない事だと、いたく赤面した。同時に、東京の女学生は決して馬鹿に出来ないものだと云ふ事を悟つた。
三四郎はよし子に対する敬愛の念を抱いて下宿へ帰つた」(5-3)
〇「能くつてよ。知らないわ」について
『それから』に、次のような場面がある。兄の娘「縫子」の口癖だ。
「縫という娘は、何か云うと、好くってよ、知らないわと答える。そうして日に何遍となくリボンを掛け易える。近頃はヴァイオリンの稽古に行く。帰って来ると、鋸の目立ての様な声を出して御浚いをする。ただし人が見ていると決して遣らない。室を締め切って、きいきい云わせるのだから、親は可なり上手だと思っている。代助だけが時々そっと戸を明けるので、好くってよ、知らないわと叱られる」(三)
この表現は、当時の女学生たちの口癖だったのだろう。自分の気に入らないことに対する口吻。特に、誰かにちょっかいを出された時に用いたのだろう。「もう、ご勝手に!」という小さな怒りがかわいらしい。