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夏目漱石「三四郎」本文と解説9-7 野々宮「よし子に縁談の口がある。国へさう云つてやつたら、両親も異存はないと返事をして来た」

◇本文

 二人は追分の通りを細い露路に折れた。折れると中に家が沢山ある。暗い路を戸毎(こごと)の軒燈が照らしてゐる。其軒燈の一つの前に(とま)つた。野々宮は此奥にゐる。

 三四郎の下宿とは殆んど一丁程の距離である。野々宮が此所(こゝ)へ移つてから、三四郎は二三度訪問した事がある。野々宮の部屋は広い廊下を突き当つて、二段ばかり真直ぐに上ると、左手に離れた二間(ふたま)である。南向に余所(よそ)の広い庭を殆んど縁の下に控へて、昼も夜も至極静かである。此離座敷に立て籠つた野々宮さんを見た時、成程家を畳んで、下宿をするのも悪い思付ではなかつたと、始めて来た時から、感心した位、居心地の好い所である。其時野々宮さんは廊下へ下りて、下から自分の部屋の軒を見上げて、一寸見給へ藁葺(わらぶき)だと云つた。成程珍らしく屋根に瓦を置いてなかつた。

 今日は夜だから、屋根は無論見えないが、部屋の中には電燈が()いてゐる。三四郎は電燈を見るや否や藁葺を思ひ出した。さうして可笑(おか)しくなつた。

「妙な御客が落ち合つたな。入口で逢つたのか」と野々宮さんが妹に聞いてゐる。妹は然らざる旨を説明してゐる。序に三四郎の様な襯衣(シヤツ)を買かつたら好からうと助言してゐる。夫れから、此間のワ゛イオリンは和製で音が悪くつて不可(いけな)い、買ふのを是迄延期したのだから、もう少し良いいのと買ひ()へて呉れと頼んでゐる。()めて美禰子さん位のなら我慢すると云つてゐる。其外似たり寄つたりの駄々をしきりに()ねてゐる。野々宮さんは別段怖い顔もせず、と云つて、優しい言葉も掛けず、たゞ()うか/\と聞いてゐる。

 三四郎は此間何にも云はずにゐた。よし子は愚な事ばかり述べる。且つ少しも遠慮をしない。それが馬鹿とも思へなければ、我儘とも受取れない。兄との応対を傍にゐて聞いてゐると、広い日当たりの好い畠へ出た様な心持がする。三四郎は来たるべき御談義の事を丸で忘れて仕舞つた。其時突然驚ろかされた。

「あゝ、私忘れてゐた。美禰子さんの御言伝(おことづけ)があつてよ」

()うか」

「嬉しいでせう。嬉しくなくつて?」

 野々宮さんは(かゆ)い様な顔をした。さうして、三四郎の方を向いた。

「僕の妹は馬鹿ですね」と云つた。三四郎は仕方なしに、たゞ笑つてゐた。

「馬鹿ぢやないわ。ねえ、小川さん」

 三四郎は又笑つてゐた。腹の中ではもう笑ふのが厭になつた。

「美禰子さんがね、兄さんに文芸協会の演芸会に連れて行つて頂戴つて」

「里見さんと一所に行つたら()からう」

「御用が有るんですつて」

「御前も行くのか」

「無論だわ」

 野々宮さんは行くとも行かないとも答へなかつた。又三四郎の方を向いて、今夜妹を呼んだのは真面目な用のあるのだのに、あんな呑気ばかり云つてゐて困ると話した。聞いて見ると、学者丈あつて、存外淡泊である。よし子に縁談の口がある。国へさう云つてやつたら、両親も異存はないと返事をして来た。夫れに就て本人の意見をよく確める必要が起つたのだと云ふ。三四郎はたゞ結構ですと答へて、成るべく早く自分の方を片付けて帰らうとした。そこで、

「母からあなたに御面倒を願つたさうで」と切り出した。野々宮さんは、

「何、大して面倒でもありませんがね」とすぐに机の抽出(ひきだし)から、預かつたものを出して、三四郎に渡した。 (青空文庫より)


◇解説

「二人は追分の通りを細い露路に折れた。折れると中に家が沢山ある。暗い路を戸毎(こごと)の軒燈が照らしてゐる。其軒燈の一つの前に(とま)つた。野々宮は此奥にゐる」。「野々宮の部屋は広い廊下を突き当つて、二段ばかり真直ぐに上ると、左手に離れた二間(ふたま)である」

…その研究で世界に名の知られる野々宮の、ミニマリスト下宿生活。野々宮は基本的に「静か」な人だ。研究も生活も、静かなところで営まれている。だから、派手とは言わないが、美禰子とは不似合いだ。

三四郎も「感心した位、居心地の好い所である」。その点で、野々宮と三四郎の感覚は共通している。

最先端の研究をしている野々宮の、古風な「藁葺(わらぶき)」の下宿という対比が、いい味を出している。


「今日は夜だから、屋根は無論見えないが、部屋の中には電燈が()いてゐる。三四郎は電燈を見るや否や藁葺を思ひ出した。さうして可笑(おか)しくなつた」…藁ぶき屋根に電灯のミスマッチの「可笑(おか)し」さ。


「「妙な御客が落ち合つたな。入口で逢つたのか」と野々宮さんが妹に聞いてゐる」…これと同じような場面が以前にもあった。原口の展覧会へ行くことを美禰子から誘われて向かうと、そこでふたりは野々宮と出くわす。野々宮にとって三四郎は、自分が大切に思う女となぜだか一緒にいることが多い、不思議・邪魔な存在だろう。しかしここで野々宮は、少しの嫌味を言うだけで深くは追究しない。


「野々宮は三四郎に向つて、「妙な連れと来ましたね」と云つた。三四郎が何か答へやうとするうちに、美禰子が、「似合ふでせう」と云つた。野々宮さんは何とも云はなかつた。くるりと後ろを向いた」(8-9)


兄に対し妹は、「遠慮」なく思うがままを主張する。

・「三四郎の様な襯衣(シヤツ)を買かつたら好からうと助言」。

・「此間のワ゛イオリンは和製で音が悪くつて不可(いけな)い、買ふのを是迄延期したのだから、もう少し良いいのと買ひ()へて呉れ」。「()めて美禰子さん位のなら我慢する」。

「其外似たり寄つたりの駄々をしきりに()ねてゐる」よし子は、兄に甘えているのだ。

これに対し「野々宮さんは別段怖い顔もせず、と云つて、優しい言葉も掛けず、たゞ()うか/\と聞いてゐる」。わがままで甘えん坊な妹への適切な対応。


「三四郎は此間何にも云はずにゐた」…他人が口をはさむことではない。「愚な事ばかり述べ」、「少しも遠慮をしない」よし子だが、三四郎には「それが馬鹿とも思へなければ、我儘とも受取れない」どころか、「兄との応対を傍にゐて聞いてゐると、広い日当たりの好い畠へ出た様な心持がする」。兄妹のやり取りが、言葉は辛辣で荒くとも、雰囲気はほっこりとあたたかいからだ。甘える妹と、それをあたたかく受けとめる兄。

しかしこの後三四郎は、野々宮から謹んで「御談義」を聞かねばならぬ。


三四郎は「其時突然驚ろかされ」る。

①よし子が兄を訪ねた理由は、「美禰子さんの御言伝(おことづけ)」を伝えるためだった。「(左)うか」と軽く受け流そうとする兄を、妹は、「嬉しいでせう。嬉しくなくつて?」とひやかす。兄は「(かゆ)い様な顔をし」、「さうして、三四郎の方を向」き、「僕の妹は馬鹿ですね」と言う。妹をダシにした照れ隠し。三四郎も「仕方なしに、たゞ笑」うことしかできない。

素直な妹は、「馬鹿ぢやないわ。ねえ、小川さん」と言う。「三四郎は又笑つてゐた」。兄に対してと同じ反応しかできない。「腹の中ではもう笑ふのが厭になつた」。自分を間に挟んでの兄弟のやり取りに、困ってしまう三四郎。おまけにその内容が、自分が好きな女と野々宮とのデートの約束なのだ。(妹付きだが)

美禰子からの「文芸協会の演芸会」の誘いに、野々宮は三四郎を気にし、「行くとも行かないとも答へなかつた」。


②「今夜妹を呼んだのは真面目な用のある」からだ。「よし子に縁談の口がある。国へさう云つてやつたら、両親も異存はないと返事をして来た。夫れに就て本人の意見をよく確める必要が起つたのだと云ふ」。突然のよし子の縁談話に、三四郎は驚いたろう。しかし彼はただ「結構です」とだけ答え、「成るべく早く自分の方を片付けて帰らうとした」。兄妹のプライベートなことに口をはさむ権利がない彼には、無難な受け答えしかできない。

一方で、縁談話を聞いたよし子の反応が気になるところだ。


三四郎は、とにかく母から届いているはずの金を早く受け取りたいと考える。「そこで、「母からあなたに御面倒を願つたさうで」と切り出した」。野々宮は、「「何、大して面倒でもありませんがね」とすぐに机の抽出(ひきだし)から、預かつたものを出して、三四郎に渡した」。


物事にあまりこだわらない、「学者丈あつて、存外淡泊」な野々宮。彼は妹の縁談話を三四郎の前ですることを気にしない。また、しつこく説教をするタイプでもない。


美禰子の野々宮への接近とよし子の縁談という、気になる女性ふたりの状況の変化は、三四郎をやきもきさせただろう。「どちらにしようかな」から、「どちらも失ってしまう」への急変。登場人物たちの人間関係が、大きく変化しようとしている。


よし子の縁談話は、恋愛と結婚がまだ結び付かない三四郎に、目の前の女性たちにとって結婚は現実なのだということを気づかせる。修行中の自分にはまだ早く遠いことが、気になる女性たちにはいま真剣に考えるべきことなのだという、男女それぞれが置かれた環境や人生における位置・ライフプランの違いを、驚きとともに知る三四郎だった。

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こんばんは! ずっと楽しく読ませていただいております。 今後も応援していきますね。 では、風邪などひかぬよう、 ご自愛ください❤️ m(_ _)m
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