夏目漱石「三四郎」本文と解説9-4 佐々木「己が金を返さなければこそ、君が美禰子さんから金を借りる事が出来た。――君、あの女を愛してゐるんだらう。いつ迄も借りて置いてやれ」
◇本文
帰り路に与次郎が三四郎に向つて、突然借金の言訳けをし出した。月の冴えた比較的寒い晩である。三四郎は殆んど金の事などは考へてゐなかつた。言訳を聞くのでさへ本気ではない。どうせ返す事はあるまいと思つてゐる。与次郎も決して返すとは云はない。たゞ返せない事情を色々に話す。其話し方のほうが三四郎には余程面白い。――自分の知つてる去る男が、失恋の結果、世の中が厭になつて、とう/\自殺を仕様と決心したが、海もいや河もいや、噴火口は猶いや、首を縊(くゝ)るのは尤もいやと云ふ訳で、已を得ず短銃を買つて来た。買つて来て、まだ目的を遂行しないうちに、友達が金を借りに来た。金はないと断わつたが、是非どうかして呉れと訴へるので、仕方なしに、大事の短銃を借して遣つた。友達はそれを質に入れて一時を凌いだ。都合がついて、質を受出して返しに来た時は、肝心の短銃の主はもう死ぬ気がなくなつて居た。だから此男の命は金を借りに来られた為に助かつたと同じ事である。
「さう云ふ事もあるからなあ」と与次郎が云つた。三四郎には只 可笑しい丈である。其外には何等の意味もない。高い月を仰いで大きな声を出して笑つた。金を返されないでも愉快である。与次郎は、
「笑つちや不可」と注意した。三四郎は猶可笑しくなつた。
「笑はないで、よく考へて見ろ。己が金を返さなければこそ、君が美禰子さんから金を借りる事が出来たんだらう」
三四郎は笑ふのを已めた。
「それで?」
「それ丈で沢山ぢやないか。――君、あの女を愛してゐるんだらう」
与次郎は善く知つてゐる。三四郎はふんと云つて、又高い月を見た。月の傍に白い雲が出た。
「君、あの女には、もう返したのか」
「いゝや」
「何時迄も借りて置いてやれ」
呑気な事を云ふ。三四郎は何とも答へなかつた。しかし何時迄も借りて置く気は無論無かつた。実は必要な弐拾円を下宿へ払つて、残りの拾円を其翌日すぐ里見の家へ届けやうと思つたが、今返しては却つて、好意に背いて、よくないと考へ直して、折角門内に這入られる機会を犠牲にして迄、引き返した。其時何かの拍子で、気が緩んで、其十円をくづして仕舞つた。実は今夜の会費も其内から出てゐる。自分の許ではない。与次郎のもその内から出てゐる。あとには、漸やく二三円残つてゐる。三四郎は夫で冬 襯衣を買はうと思つた。
実は与次郎が到底返しさうもないから、三四郎は思ひ切つて、此間国元へ三十円の不足を請求した。充分な学資を月々貰つてゐながら、たゞ不足だからと云つて請求する訳には行かない。三四郎はあまり嘘を吐いた事のない男だから、請求の理由に至つて困却した。仕方がないからたゞ友達が金を失くして弱つてゐたから、つい気の毒になつて貸してやつた。其結果として、今度は此方が弱る様になつた。どうか送つて呉れと書いた。
直ぐ返事を出して呉れば、もう届く時分であるのにまだ来ない。今夜あたりは殊によると来てゐるかも知れぬ位に考へて、下宿へ帰つて見ると、果して、母の手蹟で書いた封筒がちやんと机の上に乗つてゐる。不思議な事に、何時も必ず書留で来るのが、今日は三銭切手一枚で済ましてある。開いて見ると、中は例になく短かい。母としては不親切な位、用事丈で申し納めて仕舞つた。依頼の金は野々宮さんの方へ送つたから、野々宮さんから受取れといふ差図に過ぎない。三四郎は床を取つて寐た。 (青空文庫より)
◇解説
広田の東大教授昇進計画懇親会の帰り道。
「帰り路に与次郎が三四郎に向つて、突然借金の言訳けをし出した」。
「殆んど金の事などは考へてゐなかつた」三四郎は、「言訳を聞くのでさへ本気ではない。どうせ返す事はあるまいと思つてゐる」。これに対し、「与次郎も決して返すとは云はない。たゞ返せない事情を色々に話す。其話し方のほうが三四郎には余程面白い」。
佐々木はこんなエピソードを語り出す。
自殺のためのピストルを友人に貸し、友人はそれを質入れして「一時を凌」ぐ。「都合がついて、質を受出して返しに来た時は、肝心の短銃の主はもう死ぬ気がなくなつて居た。だから此男の命は金を借りに来られた為に助かつたと同じ事である」。三四郎にとってこの話は「只 可笑しい丈である。其外には何等の意味もない」。彼は、「金を返されないでも愉快」だった。
佐々木の、「己が金を返さなければこそ、君が美禰子さんから金を借りる事が出来たんだらう」という論理。金を貸してくれた三四郎への恩を棚に上げ、まるで自分のおかげで三四郎がいい目を見ていると言わんばかりだ。この2つはまるで別のことなのに。つまり、佐々木が三四郎から金を借りていることと、三四郎が美禰子から金を借りることによってその関係性が深まることは、まったく関係ない。恩を感謝すべき相手に、逆に恩を売ろうとする佐々木の狡猾さ。でたらめな論理だ。
佐々木はさらに続ける。「君、あの女を愛してゐるんだらう」。これも余計なお世話だ。三四郎は、美禰子の歓心を買おうとして彼女から金を借りたわけではない。すべては友人である佐々木のためだ。
確かに「与次郎は善く知つてゐる」。しかしそのでたらめな論理に、「三四郎はふんと云つて、又高い月を見た」。先の2つは本来無関係だし、余計なお世話だということ。
「月の傍に白い雲が出た」…少しの時間の経過と、三四郎が思索し、心情が変化していることを表す。
「何時迄も借りて置いてやれ」…借金の大本の原因は、佐々木が広田先生の家賃を使い込んだせいだ。だから、三四郎がいつ美禰子に金を返すかは佐々木には関係ないだけでなく、かえって余計な配慮ということになる。だから、自分の罪を棚上げにするこのセリフは、三四郎には「呑気」としか受け取れない。「三四郎は何とも答へなかつた」。
「しかし何時迄も借りて置く気は無論無かつた」…借金は、相手の迷惑となる。彼のこの考えの方が当然だ。
三四郎のその後の金策の様子が語られる。
「必要な弐拾円を下宿へ払つて、残りの拾円を其翌日すぐ里見の家へ届けやうと思つたが、今返しては却つて、好意に背いて、よくないと考へ直して、折角門内に這入られる機会を犠牲にして迄、引き返した」。三四郎は、このような配慮ができる男だ。また、この表現から、美禰子から30円借りたことがわかる。1円を1万円とすると、30万円だ。普通若い女から借りる額ではない。
次が悪い。「其時何かの拍子で、気が緩んで、其十円をくづして仕舞つた。実は今夜の会費も其内から出てゐる」。これでは佐々木を責められない。
「自分の許ではない。与次郎のもその内から出てゐる」。それなのにいつまでも借りておけと「呑気」なことを言う佐々木の無責任さ。
「あとには、漸やく二三円残つてゐる。三四郎は夫で冬 襯衣を買はうと思つた」…普通ここは、わずかに残った「二三円」であっても返すところだ。若さからか、三四郎にもいい加減な部分がある。
「実は与次郎が到底返しさうもないから、三四郎は思ひ切つて、此間国元へ三十円の不足を請求した」…佐々木のせいでまったく無関係な三四郎の親までが迷惑を被る。
三四郎は「充分な学資を月々貰つて」いる。親は充分なサポートをしているのだ。地方に住むからには、よほどの資産家か、苦労しての仕送り捻出だろう。従って、その意味でも、「たゞ不足だからと云つて請求する訳には行かない」。「あまり嘘を吐いた事のない男」だが、「仕方がないからたゞ友達が金を失くして弱つてゐたから、つい気の毒になつて貸してやつた。其結果として、今度は此方が弱る様になつた。どうか送つて呉れと書いた」。何も知らぬ親はいい迷惑だ。
さすがにこれはいかんと思った親は、まず、息子への返事をわざと遅らせ、反省の機会と期間を与える。「直ぐ返事を出して呉れば、もう届く時分であるのにまだ来ない」。
また、「不思議な事に、何時も必ず書留で来るのが、今日は三銭切手一枚で済まして」あり、「中は例になく短か」く、「母としては不親切な位、用事丈で申し納めて仕舞つた」。「依頼の金は野々宮さんの方へ送つたから、野々宮さんから受取れといふ差図」は、息子の指導を野々宮に託すためだ。先輩の忠言が必要だとの判断。身の程知らずの借金などするなと、親は言いたいのだ。
これに対し、「三四郎は床を取つて寐た」と簡略に述べ、またその内容も親の対応を意に介していない様子は、三四郎の若さ・思慮の浅さを表している。
現在も、東京の大学で学ぶためには、生活費も含め高額の費用(1000万円)が必要だ。多少の遠慮を三四郎も感じているようだが、金に困ってその援助をすぐに親に頼る姿は、地方出のお坊ちゃんとしか言えない。リアルには、自分でバイトして返すところだ。実際に、生活費にも困った『こころ』のKは、夜間学校で講師をして稼いだ。そのため心の病に罹るのだが、これが本来の姿・対応だろう。
妙な因縁で美禰子から金を借りることになった三四郎。その金は、美禰子からの愛の提示だ。三四郎はそれにどう応えるかが試されている。