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夏目漱石「三四郎」本文と解説9-1 与次郎が勧めるので、三四郎はとう/\西洋軒の会へ出た。

◇本文

与次郎が勧めるので、三四郎はとう/\西洋軒の会へ出た。其時三四郎は黒いつむぎの羽織を着た。此羽織は、三輪田の御光さんの御母さんが織つて呉れたのを、紋付に染めて、御光さんが縫ひ上げたものだと、母の手紙に長い説明がある。小包みが届いた時、一応着て見て、面白くないから、戸棚へ入れて置いた。それを与次郎が、勿体ないから是非着ろ/\と云ふ。三四郎が着なければ、自分が持つて行つて着さうな勢であつたから、つい着る気になつた。着て見ると悪くはない様だ。

 三四郎は此 出立いでたちで、与次郎と二人で西洋軒の玄関に立つてゐた。与次郎の説によると、御客はうして迎へべきものださうだ。三四郎はそんな事とは知らなかつた。第一自分が御客の積りでゐた。かうなると、紬の羽織では何だか安つぽい受附の気がする。制服を着て来ればかつたと思つた。其うち会員が段々来る。与次郎は来る人をつらまへて屹度きつと何とか話をする。ことごとく旧知の様にあしらつてゐる。御客が帽子と外套を給仕に渡して、広い階子段の横を、暗い廊下の方へ折れると、三四郎に向つて、今のは誰某だれそれがしだと教へて呉れる。三四郎は御蔭おかげで知名な人の顔を大分覚えた。

 其内御客は略(ほゞ)集つた。約三十人足らずである。広田先生もゐる。野々宮さんもゐる。――是は理学者だけれども、画や文学が好きだからと云ふので、原口さんが、無理に引つ張り出したのださうだ。原口さんは無論ゐる。一番先へ来て、世話を焼いたり、愛嬌を振り蒔いたり、仏蘭西式のひげつまんで見たり、万事忙しさうである。

 やがて着席となつた。各自(めい/\)勝手な所へ坐る。譲るものもなければ、争ふものもない。其内でも広田先生はのろいにも似合はず一番に腰をおろして仕舞つた。たゞ与次郎と三四郎丈が一所になつて、入口に近く座を占めた。其他は悉く偶然の向ひ合せ、隣り同志であつた。

 野々宮さんと広田先生の間にしまの羽織を着た批評家が坐つた。向ふには庄司と云ふ博士が座に着いた。是は与次郎の所謂いわゆる文科で有力な教授である。フロツクを着た品格のある男であつた。髪を普通の倍以上長くしてゐる。それが電燈の光で、黒く渦を捲いて見える。広田先生の坊主頭と較べると大分相違がある。原口さんは大分離れて席を取つた。彼方あちらの角だから、遠く三四郎と真向ひになる。折襟をりえりに、幅の広い黒繻子くろしゆすを結んだ先がぱつと開いて胸一杯になつてゐる。与次郎が、仏蘭西の画工アーチストは、みんなあゝ云ふ襟飾(えりかざりを着つけるものだと教へて呉れた。三四郎は肉汁(そつぷ)を吸ひながら、丸で兵児(へこ)帯の結目の様だと考へた。其うち談話が段々始つた。与次郎は麦酒(ビール)丈飲む。何時(いつ)もの様に口を利かない。流石(さすが)の男も今日は少々 謹(つゝし)んでゐると見える。三四郎が、小さな声で、

(ちと)、ダーター、フアブラを()らないか」と云ふと、「今日は不可(いけな)い」と答へたが、すぐ横を向いて、隣りの男と話を始めた。あなたの、あの論文を拝見して、大いに利益を得ましたとか何とか礼を述べてゐる。所が其論文は、彼が自分の前で、盛んに罵倒したものだから、三四郎には頗る不思議の思ひがある。与次郎は又 此方(こつち)を向いた。

「其羽織は中々立派だ。()く似合ふ」と白い紋を殊更(ことさら)注意して眺めてゐる。其時向ふの端から、原口さんが、野々宮に話しかけた。元来が大きな声の人だから、遠くで応対するには都合が()い。今迄向ひ合せに言葉を(かは)してゐた広田先生と庄司といふ教授は、二人の応答を途中で遮る事を恐れて、談話をやめた。其他の人もみんな黙つた。会の中心点が始めて出来上(あが)つた。

(青空文庫より)


◇解説

「与次郎が勧める」「西洋軒の会へ」、「三四郎はとう/\」出かける。その装束である「黒いつむぎの羽織」は、「三輪田の御光さんの御母さんが織つて呉れたのを、紋付に染めて、御光さんが縫ひ上げたもの」だ。その由来は、懐かしくも遠く古い世界に住む「母の手紙に長い説明が」あった。三四郎は「一応着て見て、面白くないから、戸棚へ入れて置いた」。これまで彼をあたたかく包んでくれていた場所からの贈り物も、今の三四郎の心には届かない。むしろじゃま・不要なものでしかない。母心や御光さんの愛に、今の彼は動かされない。

事情を知らない「与次郎が、勿体ないから是非着ろ/\と云ふ。三四郎が着なければ、自分が持つて行つて着さうな勢であつたから、つい着る気になつた」。さすがに人に遣るのは憚られる。「着て見ると悪くはない様だ」。三四郎をよく知る故郷の母と御光さんの合作は、彼のからだにフィットしている。


「受付」係のため、「三四郎は此 出立いでたちで、与次郎と二人で西洋軒の玄関に立つてゐた」。しかし三四郎は、「そんな」係を割り当てられるとは「知らなかつた。第一自分が御客の積りでゐた」。「御客の積り」が、自分も佐々木の片棒を担ぐひとりにされてしまった。


「紬の羽織では何だか安つぽい」。それよりも「制服を着て来ればかつたと思つた」。母と御光さんの愛が込められたプレゼントよりも、世間の評価・見栄えの良い制服に価値を置く三四郎。「第一の世界」は遠い。


「会員が段々来る。与次郎は来る人をつらまへて屹度きつと何とか話をする。ことごとく旧知の様にあしらつてゐる」。いかにも昵懇であるかの如く、会員たちと馴れ馴れしく振る舞う佐々木。

また、「三四郎に向つて、今のは誰某だれそれがしだと教へて呉れる。三四郎は御蔭おかげで知名な人の顔を大分覚えた」。活動的で顔だけは広い佐々木。


やがて、「約三十人足らず」の「御客は略(ほゞ)集つた」。

・広田。

・「理学者だけれども、画や文学が好きだからと云ふので、原口さんが、無理に引つ張り出した」野々宮。

・「一番先へ来て、世話を焼いたり、愛嬌を振り蒔いたり、仏蘭西式のひげつまんで見たり、万事忙しさう」な原口。原口も佐々木同様、広田の東大教授昇格を積極的に画策するひとりだ。


「やがて着席となつた。各自(めい/\)勝手な所へ坐る。譲るものもなければ、争ふものもない」。会員相互に上下の関係が無いざっくばらんな様子であり、席は、「悉く偶然の向ひ合せ、隣り同志であつた」。

「其内でも広田先生はのろいにも似合はず一番に腰をおろして仕舞つた」。この評言は、三四郎と同化した語り手によるもの。広田は社会・組織内での自分の位置・地位にこだわらないことも表す。

「与次郎と三四郎丈が一所になつて、入口に近く座を占めた」。


その他の参加者には、「しまの羽織を着た批評家」、「文科で有力な教授である」「庄司と云ふ博士」。「フロツクを着た品格のある男で」、「髪を普通の倍以上長くしてゐる。それが電燈の光で、黒く渦を捲いて見える。広田先生の坊主頭と較べると大分相違がある」。東大教授と比べると、やはり広田は見劣りしてしまう。広田に東大教授の位置は似合わないことの暗示。


「原口さんは」、「遠く三四郎と真向ひになる」「彼方あちらの角」に、「大分離れて席を取つた」。この着座位置は、この後の様子から分かるとおり、広田を「会の中心点」にするための配慮。


原口の装束は、「折襟をりえりに、幅の広い黒繻子くろしゆすを結んだ先がぱつと開いて胸一杯になつて」おり、まるで「仏蘭西の画工アーチスト」のようだった。「肉汁(そつぷ)を吸ひ」、西洋文化に触れる三四郎だが、原口の襟飾りは「丸で兵児(へこ)帯の結目の様だと考へた」。西洋と東洋が不格好に折衷しており、東洋の顔をした原口にその装束は似合わない。


「其うち談話が段々始つた」が、「与次郎は麦酒(ビール)丈飲」み、「何時(いつ)もの様に口を利か」ず、機会を窺う。「流石(さすが)の男も今日は少々 謹(つゝし)んでゐると見える」。


このような場と策略に疎い「三四郎が、小さな声で、「(ちと)、ダーター、フアブラを()らないか」と云ふと、佐々木は、「今日は不可(いけな)い」と答へたが、すぐ横を向いて、隣りの男と話を始めた」。三四郎はこの会に物見遊山で参加している。

佐々木が「あの論文を拝見して、大いに利益を得ましたとか何とか礼を述べ」た「其論文は、彼が自分の前で、盛んに罵倒したものだ」。佐々木の愛嬌に誠は無く、すべてはただ広田の東大教授昇格のための方便。だから、「三四郎には頗る不思議の思ひが」あった。


落ち着かない「与次郎は又 此方(こつち)を向」き、「「其羽織は中々立派だ。()く似合ふ」と白い紋を殊更(ことさら)注意して眺めてゐる」。この褒め言葉にも実意は無い。家を代表する古い価値のデザインである「白い紋」は、この場に似合わない。


「其時向ふの端から、原口さんが、野々宮に話しかけた。元来が大きな声の人だから、遠くで応対するには都合が()い」。それは、「会の中心点」を作るためだ。これにより、「今迄向ひ合せに言葉を(かは)してゐた広田先生と庄司といふ教授は、二人の応答を途中で遮る事を恐れて、談話をやめた。其他の人もみんな黙つた」。

これを合図に、いよいよ広田の東大教授昇格の企みが開始・実行される。

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