表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
83/117

夏目漱石「三四郎」本文と解説8-9 美禰子は野々宮を見るや否や、二三歩後戻りをして三四郎のそばへ来た。人に目立たぬ位に、自分の口を三四郎の耳へ近寄せ、何かさゝやいた。

◇本文

 美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間許離れて、原口さんが立つてゐる。原口さんの後ろに、少し重り合つて、野々宮さんが立つてゐる。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るや否や、二三歩後戻りをして三四郎の(そば)へ来た。人に目立たぬ位に、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。さうして何か私語(さゝや)いた。三四郎には何を云つたのか、少しも分からない。聞き直さうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返して行つた。もう挨拶をしてゐる。野々宮は三四郎に向つて、

「妙な連れと来ましたね」と云つた。三四郎が何か答へやうとするうちに、美禰子が、

「似合ふでせう」と云つた。野々宮さんは何とも云はなかつた。くるりと後ろを向いた。後ろには畳一枚程の大きな画がある。其画は肖像画である。さうして一面に黒い。着物も帽子も背景から区別の出来ない程光線を受けてゐない中に、顔ばかり白い。顔は瘠せて、頬の肉が落ちてゐる。

「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに云つた。原口は今しきりに美禰子に何か話してゐる。――もう閉会である。来観者も大分減つた。開会の初めには毎日事務へ来てゐたが、此頃は滅多に顔を出さない。今日は久し振りに、此方(こつち)へ用があつて、野々宮さんを引張つて来た所だ。うまく出つ食はしたものだ。此会を仕舞ふと、すぐ来年の準備にかゝらなければならないから、非常に忙しい。何時(いつ)もは花の時分に開くのだが、来年は少し会員の都合で早くする積りだから、丁度会を二つ続けて開くと同じ事になる。必死の勉強をやらなければならない。それ迄に是非美禰子の肖像を描き上げて仕舞ふ積である。迷惑だらうが大晦日でも描かして呉れ。

「其代り此所(こゝ)ん所へ掛ける積です」

 原口さんは此時始めて、黒い画の方を向いた。野々宮さんは其間ぽかんとして同じ画を眺めてゐた。

「どうです。エ゛ラスケスは。尤も模写ですがね。しかも余り上出来ではない」と原口が始めて説明する。野々宮さんは何にも云ふ必要がなくなつた。

「どなたが御写しになつたの」と女が聞いた。

「三井です。三井はもつと旨いんですがね。此画はあまり感服出来ない」と一二歩 退()がつて見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、旨く行かないね」

 原口は首を曲げた。三四郎は原口の首を曲げた所を見てゐた。

「もう、皆な見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子に(ばかり)話しかける。

「まだ」

「どうです。もう()して、一所に出ちや。西洋軒で御茶でも上げます。なに私は用があるから、どうせ一寸行かなければならない。――会の事でね、マネジヤーに相談して置きたい事がある。懇意の男だから。――今丁度御茶に()い時分です。もう少しするとね、御茶には遅し晩餐(ヂンナー)には早し、中途半端になる。どうです。一所に()らつしやいな」

 美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでも()い顔をしてゐる。野々宮は立つた儘関係しない。

「折角来たものだから、皆な見て行きませう。ねえ、小川さん」

 三四郎はえゝと云つた。

「ぢや、()うなさい。此奥の別室にね。深見さんの遺画があるから、それ丈見て、帰りに西洋軒へ入らつしやい。先へ行つて待つてゐますから」

難有(ありがと)う」

「深見さんの水彩は普通の水彩の積で見ちや不可(いけ)ませんよ。何所(どこ)迄も深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になつてゐると、中々面白い所が出て来ます」と注意して、原口は野々宮と出て行つた。美禰子は礼を云つて其後影を見送つた。二人は振り返らなかつた。 (青空文庫より)


◇解説

原口の展覧会での美禰子と三四郎。

「里見さん」とだしぬけに誰かから大きな声で呼ばれる。声の主は原口だった。

このあと、美禰子と野々宮の、なかなかの心理戦が描かれる。


「美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間許離れて、原口さんが立つてゐる。原口さんの後ろに、少し重り合つて、野々宮さんが立つてゐる」

…原口の後ろに立つ、細く背の高い野々宮。


「美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るや否や、二三歩後戻りをして三四郎の(そば)へ来た。人に目立たぬ位に、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。さうして何か私語(さゝや)いた。三四郎には何を云つたのか、少しも分からない。聞き直さうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返して行つた」

…この場面の立ち位置を確認しておくと、美禰子と三四郎は一間ほど離れ、美禰子は三四郎の方を振り返り、「その横顔を熟視していた」。そこに突然自分の名が呼ばれたので、美禰子は驚いただろう。若い男に見とれていたのだから。振り返った彼女の視線は、当然野々宮に注がれる。まずいところを見られてしまったという思いがある。

その瞬間、彼女は策を弄する。「見るや否や、二三歩後戻りをして三四郎の(そば)へ来」、そうして「人に目立たぬ位に、自分の口を三四郎の耳へ近寄せ」、「さうして何か私語(さゝや)いた」。これらはすべて、野々宮の気を引くための演技だ。別の男のそばに行き、さらにその耳に口を近づけ、何事かをささやく。それを見た野々宮は、当然嫉妬する。彼にそうさせるための美禰子の演技。三四郎にささやいた言葉に意味はないので、「三四郎には何を云つたのか、少しも分からない」。彼女はささやくふりをしただけだ。

つい先ほどまでは三四郎に見とれ、その瞬間を見られてしまった彼女は、今度は野々宮の心をくすぐろうとする。三四郎も野々宮も、いったいどちらに彼女の心があるのかが分からない不安を抱くことになる。

瞬時の判断でそのようなことができる美禰子。


「野々宮は三四郎に向つて、「妙な連れと来ましたね」と云つた。三四郎が何か答へやうとするうちに、美禰子が、「似合ふでせう」と云つた。野々宮さんは何とも云はなかつた。くるりと後ろを向いた」

…「妙な連れと来ましたね」は、本来、美禰子に掛ける言葉だ。野々宮は彼女にそう聞きただすことができない人なのだ。だから三四郎が犠牲になった。真面目な三四郎は、ふたりでここにいる複雑な事情をどう話そうか思案する。しかし次の瞬間美禰子が、「似合ふでせう」と、さらに嫉妬をあおるような事を言う。野々宮にとってはふたりが「似合」ってもらっては困る。美禰子は野々宮を困らせるようなことを、わざと皆の前で言ってしまっている。本音を言うわけにもいかない野々宮は、「何とも云はなかつた」。何とも言いようがなかったのだ。彼ができることは、「くるりと後ろを向」くことだけだ。

ふたりの男がひとりの女に完全にもてあそばれる。ふたりの男を手玉に取る、美禰子の小悪魔性が発揮された場面。

なお、このことについては、次話で三四郎と美禰子の話題となる。


美禰子は展覧会の「招待券を二枚もらった」(8-8)。その一枚の相手として今回選ばれたのは、三四郎だった。一方の野々宮がここにいるのは、原口に「引張つて」来られたからだ。

しかも「似合うでしょう」という聞き捨てならないセリフ。野々宮にしてみれば、美禰子の展覧会鑑賞の相手として、なぜ三四郎が選ばれたのかに深い疑念を持ち嫉妬する。美禰子は三四郎に乗り換えようとしているのではないかと。


「後ろには畳一枚程の大きな画がある。其画は肖像画である。さうして一面に黒い。着物も帽子も背景から区別の出来ない程光線を受けてゐない中に、顔ばかり白い。顔は瘠せて、頬の肉が落ちてゐる」

…これは野々宮そのものだ。暗い穴倉でひとり研究を続ける彼の恋は、成就せずに終わるだろう。


「うまく出つ食はしたものだ」

…三四郎、野々宮、美禰子の三人にとっては、逆にまずい所で「出つ食はした」。


「美禰子の肖像」は、「何時(いつ)もは花の時分に開くのだが、来年は少し会員の都合で早くする」展覧会で発表される。その時彼女は別の男と結婚をする。


「「それ迄に是非美禰子の肖像を描き上げて仕舞ふ積である。迷惑だらうが大晦日でも描かして呉れ。

「其代り此所(こゝ)ん所へ掛ける積です」

 原口さんは此時始めて、黒い画の方を向いた。野々宮さんは其間ぽかんとして同じ画を眺めてゐた」

…好きな相手が年末年始もモデルとして奪われてしまうことに、何の感想も苦情も漏らさない野々宮の恋愛下手さ加減。美禰子は何か言ってもらいたいだろう。


「「もう、皆な見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子に(ばかり)話しかける」

…これは、ともに芸術を語る相手が美禰子しかいないからだ。まだ若い三四郎も理系の野々宮も、その役ではない。若い女性だから美禰子に話しているのではない。


原口に、「西洋軒で御茶でも上げます」と誘われた美禰子は、野々宮ではなく「三四郎を見た。三四郎はどうでも()い顔をしてゐる。野々宮は立つた儘関係しない」。美禰子はさらに、「折角来たものだから、皆な見て行きませう。ねえ、小川さん」と誘い、「三四郎はえゝと云つた」。

ここは三四郎と来場したため、彼を中心に話をしている美禰子だが、三角関係の力学が不安定な場面。当然脇に置かれた野々宮は面白くない。冷静・傍観者を装うしかない。


原口の、「深見さんの水彩は普通の水彩の積で見ちや不可(いけ)ませんよ。何所(どこ)迄も深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になつてゐると、中々面白い所が出て来ます」という「注意」は、美禰子にしか理解できない。だから、原口は彼女に言ったのだ。


「原口は野々宮と出て行つた。美禰子は礼を云つて其後影を見送つた。二人は振り返らなかつた」

…野々宮は美禰子を置いて立ち去る。そうして「振り返らなかった」。彼は心理的に美禰子との距離を感じ、「振り返らな」いことで、美禰子に罰を与えている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ