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夏目漱石「三四郎」本文と解説8-7 三四郎「あなたの肖像を描くとか云つてゐました。本当ですか」。美禰子「えゝ、高等モデルなの」。男は是より以上に気の利いた事が云へないたちで黙つて仕舞つた。

◇本文

 二人は半町程無言の儘(まゝ)連れ立つて来た。其間三四郎は始終美禰子の事を考へてゐる。此女は我儘に育つたに違ひない。それから家庭にゐて、普通の女性以上の自由を有して、万事意の如く振舞ふに違ない。かうして、誰の許諾も経ずに、自分と一所に、往来を歩くのでも分かる。年寄の親がなくつて、若い兄が放任主義だから、()うも出来るのだらうが、是が田舎であつたら(さぞ)困ることだらう。此女に三輪田の御光さんの様な生活を送れと云つたら、()うする気かしらん。東京は田舎と違つて、万事が明け放しだから、此方(こちら)の女は、大抵斯うなのかも分からないが、遠くから想像して見ると、もう少しは旧式の様でもある。すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのも成程と思ひ当る。但し俗礼に拘(かゝ)はらない所丈がイブセン流なのか、或は腹の底の思想迄も、さうなのか。其所(そこ)は分からない。

 そのうち本郷の通へ出た。一所に歩いてゐる二人は、一所に歩いてゐながら、相手が何所(どこ)へ行くのだか、全く知らない。今迄に横町を三つ(ばかり)曲つた。曲るたびに、二人の足は申し合せた様に無言の儘同じ方角へ曲つた。本郷の通りを四丁目の角へ来る途中で、女が聞いた。

何処(どこ)()らつしやるの」

「あなたは何所へ行くんです」

 二人は一寸顔を見合せた。三四郎は至極真面目である。女は(こら)へ切れずに又白い歯を(あらは)した。

「一所に入らつしやい」

 二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。三十間程行くと、右側に大きな西洋館がある。美禰子は其前に(とま)つた。帯の間から薄い帳面と、印形(いんぎょう)を出して、

「御願ひ」と云つた。

「何ですか」

「是で御金を取つて頂戴」

 三四郎は手を出だして、帳面を受取つた。真中に小口当座預金通帳とあつて、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎は帳面と印形を持つた儘、女の顔を見て立つた。

「三拾円」と女が金高(きんだか)を云つた。(あたか)も毎日銀行へ金を取りに行き()けた者に対する口振りである。幸ひ、三四郎は国にゐる時分、かう云ふ帳面を以て度々豊津迄出掛かけた事がある。すぐ石段を上つて、戸を開けて、銀行の中へ這入つた。帳面と印形を掛りのものに渡して、必要の金額を受取つて出て見ると、美禰子は待つてゐない。もう切り通しの方へ二十間 (ばかり)歩き出してゐる。三四郎は急いで追い付いた。すぐ受取つたものを渡さうとして、隠袋(ぽつけつと)へ手を入れると、美禰子が、

「丹青会の展覧会を御覧になつて」と聞いた。

「まだ覧ません」

「招待券を二枚貰つたんですけれども、つい(ひま)がなかつたものだから、まだ行かずにゐたんですが、行つて見ませうか」

「行つても()いです」

「行きませう。もう、ぢき閉会になりますから。私、一遍は見て置かないと原口さんに済まないのです」

「原口さんが招待券を呉れたんですか」

「えゝ。あなた原口さんを御存じなの?」

「広田先生の所で一度会ひました」

「面白い方でせう。馬鹿囃を稽古なさるんですつて」

「此間は鼓を(なら)ひたいと云つてゐました。夫れから――」

「夫れから?」

「夫れから、あなたの肖像を描くとか云つてゐました。本当ですか」

「えゝ、高等モデルなの」と云つた。男は是より以上に気の利いた事が云へない性質(たち)である。それで黙つて仕舞つた。女は何とか云つて貰ひたかつたらしい。 (青空文庫より)


◇解説

三四郎が美禰子に金を借りに行った場面。借りたいのか借りたくないのかはっきりしない三四郎の態度に、ふたりはやや距離を置く。


「二人は半町程無言の儘(まゝ)連れ立つて来た。其間三四郎は始終美禰子の事を考へてゐる」。

・「此女は我儘に育つたに違ひない。それから家庭にゐて、普通の女性以上の自由を有して、万事意の如く振舞ふに違ない」…仮に美禰子と結婚すると、そのようになるだろうとの予想も含む。

・「かうして、誰の許諾も経ずに、自分と一所に、往来を歩くのでも分かる。年寄の親がなくつて、若い兄が放任主義だから、()うも出来るのだらうが、是が田舎であつたら(さぞ)困ることだらう」…これが当時の若い女性が置かれた位置だろう。

・「此女に三輪田の御光さんの様な生活を送れと云つたら、()うする気かしらん。東京は田舎と違つて、万事が明け放しだから、此方(こちら)の女は、大抵斯うなのかも分からないが、遠くから想像して見ると、もう少しは旧式の様でもある」…都会の美禰子と田舎の御光さんとの比較により、同じ明治の女性にも、住む地域によって違いがあり、特に美禰子の先進性は突出していること。

・「すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのも成程と思ひ当る。但し俗礼に拘(かゝ)はらない所丈がイブセン流なのか、或は腹の底の思想迄も、さうなのか。其所(そこ)は分からない」…自立の思想が確立しているかどうかの深浅を述べた部分。

ただ、その隣を一緒に歩いているのは三四郎であり、彼は自身の行動の責任をまったく顧慮していない。誰の許可も得ずに若い男と若い女が一緒に歩くことを真に避けたいのであれば、イプセンなど持ち出さずとも、そう言えばいいし、また、そうしなければいい。三四郎は美禰子を批判的に見ているが、自省が欠けている。彼の本音は、美禰子と一緒に歩くことを喜んでいる。


「一所に歩いてゐる二人は、一所に歩いてゐながら、相手が何所(どこ)へ行くのだか、全く知らない」以降は、互いに意地の張り合いをしていて面白い。美禰子もとうとう「(こら)へ切れずに又白い歯を(あらは)した」。


「四丁目の角を切り通しの方へ折れ」「三十間程行くと、右側に大きな西洋館」があり、それは銀行だった。美禰子は「帯の間から薄い帳面と、印形(いんぎょう)を出して」、「是で御金を取つて頂戴」と依頼する。

帳面の「真中に小口当座預金通帳とあつて、横に里見美禰子殿と書いてある」。彼女に依頼された「三拾円」「を受取つて出て見ると、美禰子は待つてゐない。もう切り通しの方へ二十間 (ばかり)歩き出してゐる」。「急いで追い付」き、「すぐ受取つたものを渡さうとして、隠袋(ぽつけつと)へ手を入れると、美禰子が、「丹青会の展覧会を御覧になつて」と聞いた」。彼女は金を受け取らず、話題を変えてしまう。三四郎はそのレールに乗り、会話を進める。


原口に「二枚貰つた」招待券。「行つて見ませうか」とは、デートの誘いだ。三四郎は、「行つても()いです」とぶっきらぼうに答える。

美禰子と原口は、「一遍は見て置かないと原口さんに済まない」、美禰子の「肖像を描く」関係にある。


「あなたの肖像を描くとか云つてゐました。本当ですか」という問いに、「えゝ、高等モデルなの」と答える美禰子。うぶな「男は是より以上に気の利いた事が云へない性質である。それで黙つて仕舞つた」。「モデル」であり、その上「高等」であるという洒落に応えることができない未熟さ。「つまらぬ男」とポイされるが落ちだ。

ここは男女の会話をしているので、「男」・「女」と述べている。


「女は何とか云つて貰ひたかつたらしい」

…ここで気の利いた事を言えるかどうかで、「男」の価値は決まるだろう。美禰子に三四郎はそぐわない。

自立した詩的な女・美禰子と世慣れぬ未熟者・三四郎。このふたりがうまくいくはずはない。

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