夏目漱石「三四郎」本文と解説8-6 女はいつの間にか、和土(たゝき)の上へ下りた。下りながら三四郎の耳の傍へ口を持つて来て、「怒つていらつしやるの」とさゝやいだ。
◇本文
「佐々木さんが、あなたの所へ入らしつたでせう」と云つて例の白い歯を露した。女の後には前の蝋燭立てが暖炉台の左右に並んでゐる。金で細工をした妙な形の台である。是を蝋燭立てと見たのは三四郎の臆断で、実は何だか分からない。此不可思議の蝋燭立ての後に明らかな鏡がある。光線は厚い窓掛けに遮ぎられて、充分に這入らない。其上天気は曇つてゐる。三四郎は此間に美禰子の白い歯を見た。
「佐々木が来ました」
「何と云つて入らつしやいました」
「僕にあなたの所へ行けと云つて来ました」
「左うでせう。――夫れで入らしつたの」とわざわざ聞いた。
「えゝ」と云つて少し躊躇した。あとから「まあ、左うです」と答へた。女は全く歯を隠した。静かに席を立つて、窓の所へ行つて、外面を眺め出した。
「曇りましたね。寒いでせう、戸外は」
「いゝえ、存外暖かい。風は丸でありません」
「さう」と云ひながら席へ帰つて来た。
「実は佐々木が金を……」と三四郎から云ひ出した。
「分かつてるの」と中途でとめた。三四郎も黙つた。すると
「何うして御失しになつたの」と聞いた。
「馬券を買つたのです」
女は「まあ」と云つた。まあと云つた割に顔は驚ろいてゐない。却つて笑つてゐる。すこし経つて、「悪い方ね」と附け加へた。三四郎は答へずにゐた。
「馬券で中てるのは、人の心を中てるよりむづかしいぢやありませんか。あなたは索引の付いてゐる人の心へ中てて見様となさらない呑気な方だのに」
「僕が馬券を買つたんぢやありません」
「あら。誰が買つたの」
「佐々木が買つたのです」
女は急に笑ひ出だした。三四郎も可笑(おかしくなつた。
「ぢや、あなたが御金が御入り用ぢやなかつたのね。馬鹿々々しい」
「要る事は僕が要るのです」
「本当に?」
「本当に」
「だつて夫ぢや可笑しいわね」
「だから借りなくつても可いんです」
「何故。御厭なの?」
「厭ぢやないが、御兄さんに黙つて、あなたから借りちや、好くないからです」
「何ういふ訳で? でも兄は承知してゐるんですもの」
「左うですか。ぢや借りても好い。――然し借りないでも好い。家へさう云つて遣りさへすれば、一週間位すると来ますから」
「御迷惑なら、強ひて……」
美禰子は急に冷淡になつた。今迄 傍にゐたものが一町許 遠退いた気がする。三四郎は借りて置けば可かつたと思つた。けれども、もう仕方がない。蝋燭立てを見て澄ましてゐる。三四郎は自分から進んで、他の機嫌を取つた事のない男である。女も遠ざかつたぎり近付いて来ない。しばらくすると又立ち上がつた。窓から戸外をすかして見て、
「降りさうもありませんね」と云ふ。三四郎も同じ調子で、「降りさうもありません」と答へた。
「降らなければ、私一寸出て来やうかしら」と窓の所で立つた儘云ふ。三四郎は帰つてくれといふ意味に解釈した。光る絹を着換たのも自分の為ではなかつた。
「もう帰りませう」と立ち上がつた。美禰子は玄関迄送つて来た。沓脱へ下りて、靴を穿いてゐると、上から美禰子が、
「其所迄御一所に出ませう。可いでせう」と云つた。三四郎は靴の紐を結びながら、「えゝ、何うでも」と答へた。女は何時の間にか、和土(たゝき)の上へ下りた。下りながら三四郎の耳の傍へ口を持つて来て、「怒つて入らつしやるの」と私語(さゝや)いだ。所へ下女が周章ながら、送りに出て来た。 (青空文庫より)
◇解説
三四郎が金を借りに美禰子を訪れた場面。
しかしそもそもその借金は、佐々木のものだった。
「「佐々木さんが、あなたの所へ入らしつたでせう」と云つて例の白い歯を露した」
…美禰子の「白い歯」は彼女の美点として三四郎の印象に強く残っている。
「「佐々木が来ました」
「何と云つて入らつしやいました」
「僕にあなたの所へ行けと云つて来ました」
「左うでせう。――夫れで入らしつたの」とわざわざ聞いた。
「えゝ」と云つて少し躊躇した。あとから「まあ、左うです」と答へた」
…佐々木の促しによって自分に会いに来たのかと問う美禰子への戸惑い。
「女は全く歯を隠した。静かに席を立つて、窓の所へ行つて、外面を眺め出した」
…三四郎の気のない返事に、美禰子はやや落胆している。自ら進んで自分に会いに来たのだと言ってほしかったのだ。このような場に慣れない三四郎は、ひとつも気の利いたことが言えない。それを美禰子は物足りなく感じる。この人は自分に興味がないのかと。彼女はわざわざ立ち、自分の姿を三四郎に見せてあげている。
だからこれに続く二人の会話は低調なのだ。
「「実は佐々木が金を……」と三四郎から云ひ出した。
「分かつてるの」と中途でとめた。三四郎も黙つた」
…金を借りる相談に来たことは承知しているので、全部を話さなくても大丈夫だという美禰子の気遣い。
「何うして御失しになつたの」以降の部分から、佐々木の美禰子への説明には嘘があったことが分かる。
「馬券を買つたのです」という男に、「まあ」といい、「笑つて」「すこし経つて、「悪い方ね」と附け加へ」るのは、艶めいている。
「馬券で中てるのは、人の心を中てるよりむづかしいぢやありませんか。あなたは索引の付いてゐる人の心へ中てて見様となさらない呑気な方だのに」
…この言葉には勿論、「私はこんなに好意を表しているのに、それに全く気付かないあなたはずいぶん呑気ね」という意味が掛けられている。三四郎の鈍感さへの批判の言葉。これを裏返せば、美禰子はやはり三四郎が好きなのだ。
馬券に失敗した主は佐々木であることが判明し、「女は急に笑ひ出だした」。停滞していた場がほぐれ、「三四郎も可笑(おかしくなつた」。
「ぢや、あなたが御金が御入り用ぢやなかつたのね。馬鹿々々しい」
「要る事は僕が要るのです」
「本当に?」
「本当に」
「だつて夫ぢや可笑しいわね」
…この後に続く説明は、美禰子の「夫ぢや可笑しい」という疑問への答えにならなければならない。佐々木が広田の借金返済のための金を馬券で擦ってしまい、その分を三四郎から借りていることの説明だ。下宿代の支払いのためにはそれが必要で、三四郎は実際に金が「要る」のだ。そのあたりの事情を、美禰子は全く知らないため、佐々木が擦った金を借りに三四郎が自分のもとにやって来ることは「可笑しい」ということになる。
これらの説明をまったくせず、「夫ぢや可笑しいわね」と指摘された三四郎は、「だから借りなくつても可いんです」と、拗ねてしまう。彼のこの態度は、とても短気で子供だ。この受け答えでは、美禰子には事情が分からない。
また、実際に金を借りに来ていながら、「だから借りなくつても可いんです」と言うのは、論理が破綻している。借りなくてもいいなら、来なければいい。美禰子としては、「この人、何言ってんの? 頭、大丈夫?」としか思えないだろう。
しかし美禰子は腹を立てずに優しく述べる。
「何故。御厭なの?」
「厭ぢやないが、御兄さんに黙つて、あなたから借りちや、好くないからです」
…この三四郎の答えも、前後がつながっておらず、丁寧さに欠ける。先ほどは借りなくてもいいと言い、今度は兄に悪いと言う。そんなに借りたくなければ、そもそもここになぜいるのかとしか美禰子は思えない。
美禰子はまだ腹を立てずに接してあげる。
「何ういふ訳で? でも兄は承知してゐるんですもの」
「左うですか。ぢや借りても好い。――然し借りないでも好い。家へさう云つて遣りさへすれば、一週間位すると来ますから」
…借りたいのか借りたくないのか全く不明な三四郎の受け答え。美禰子は困惑するのみだ。「御迷惑なら、強ひて……」としか言いようがない。
「美禰子は急に冷淡になつた。今迄 傍にゐたものが一町許 遠退いた気がする」
…美禰子のこの様子は当然だ。「急に冷淡に」され、「三四郎は借りて置けば可かつたと」焦る。
「けれども、もう仕方がない。蝋燭立てを見て澄ましてゐる」
…子供の対応としか言いようがない。わがままな駄々っ子。詳しく説明して、場を取り繕うべき場面。
「三四郎は自分から進んで、他の機嫌を取つた事のない男である」
…未熟な三四郎。
「女も遠ざかつたぎり近付いて来ない」
…どう相手していいか分からないのだから、こうするしかないだろう。おまけに美禰子は金を貸したくなくて意地悪しているのではない。彼女は金を貸す気満々なのだ。三四郎の態度が曖昧であることの方が悪い。
「しばらくすると又立ち上がつた。窓から戸外をすかして見て、
「降りさうもありませんね」と云ふ」
…この場面で美禰子は少し間を置き、大人の対応をとる。
「三四郎も同じ調子で、「降りさうもありません」と答へた」
…彼は、こうとしか答えられない男なのだ。
「「降らなければ、私一寸出て来やうかしら」と窓の所で立つた儘云ふ。三四郎は帰つてくれといふ意味に解釈した。光る絹を着換たのも自分の為ではなかつた」
…この三四郎の見立ては誤りであることが後に分かる。美禰子はできるだけ自然な形で三四郎に金を貸し、彼を助けようとしている。「光る絹を着換たの」は、もちろん三四郎の「為」だ。
「女は何時の間にか、和土(たゝき)の上へ下りた。下りながら三四郎の耳の傍へ口を持つて来て、「怒つて入らつしやるの」と私語(さゝや)いだ」
…美禰子はここでやや下手に出ることによって、三四郎の機嫌を取ろうとする。世慣れない三四郎は、ここでも気の利いたことが言えない。「さっきはちょっとカチンときたけど、そんなに気にしてないよ。大丈夫。さっきはごめんね」ぐらい言えないものか。
「所へ下女が周章ながら、送りに出て来た」
…これは無くても問題ない説明なのだが、これは主に、美禰子の外出が予定外であったことを表す。
地方から上京したばかりの三四郎は、恋愛経験も社会経験も不足している。周りの人々はみな、自分よりも、経験値も教養・実績も高い。その意味では、自分に自信が持てず、自分から積極的に動くことを躊躇する彼の気持ちも分かる。
しかし、特に恋愛の場面では、「好き」という感情はそれらを簡単に乗り越える。たとえ未熟者であっても、美禰子はだからこそそのような三四郎に興味を抱いているのだし、それを前提でふたりが交際することは可能だ。三四郎は臆病で、自身を卑下している。
美禰子の物足りなさは、むしろそこにある。