夏目漱石「三四郎」本文と解説8-5 三四郎が半ば感覚を失つた眼を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子がいつの間にか立つてゐる。美禰子はにこりと笑つた。「とうとういらしつた」
◇本文
翌日は幸ひ教師が二人欠席して、午からの授業が休みになつた。下宿へ帰るのも面倒だから、途中で一品料理の腹を拵へて、美禰子の家へ行つた。前を通つた事は何遍でもある。けれども這入るのは始てゞある。瓦葺の門の柱に里見恭助といふ標札が出でてゐる。三四郎は此所(こゝ)を通る度に、里見恭助といふ人はどんな男だらうと思ふ。まだ逢つた事がない。門は締つてゐる。潜(くゞり)から這入ると玄関迄の距離は存外短かい。長方形の御影石が飛びとびに敷いてある。玄関は細い奇麗な格子で閉て切つてある。電鈴を押す。取次の下女に、「美禰子さんは御宅ですか」と云つた時、三四郎は自分ながら気恥づかしい様な妙な心持がした。他の玄関で、妙齢の女の在否を尋ねた事はまだない。甚だ尋ね悪い気がする。下女の方は案外真面目である。しかも恭しい。一旦奥へ這入つて、又出て来て、丁寧に御辞儀をして、どうぞと云ふから尾いて上がると応接間へ通した。重い窓掛けの懸つてゐる西洋室である。少し暗い。
下女は又、「暫く、どうか……」と挨拶をして出て行つた。三四郎は静かな室の中に席を占めた。正面に壁を切り抜いた小さい暖炉がある。其上が横に長い鏡になつてゐて、前に蝋燭立てが二本ある。三四郎は左右の蝋燭立ての真中に自分の顔を写して見て、又坐つた。
すると奥の方でワ゛イオリンの音がした。それが何所からか、風が持つて来て捨てゝ行つた様に、すぐ消えて仕舞つた。三四郎は惜い気がする。厚く張つた椅子の脊に倚りかゝつて、もう少し遣れば可いがと思つて耳を澄ましてゐたが、音は夫限で已んだ。約一分も立つうちに、三四郎はワ゛イオリンの事を忘れた。向ふにある鏡と蝋燭立てを眺めてゐる。妙に西洋の臭ひがする。それから加徒の連想がある。何故加徒だか三四郎にも解らない。其時ワ゛イオリンが又鳴つた。今度は高い音と低い音が二三度急に続いて響いた。それでぱつたり消えて仕舞つた。三四郎は全く西洋の音楽を知らない。然し今の音は、決して、纏つたものゝ一部分を弾いたとは受け取れない。たゞ鳴らした丈である。その無作法にたゞ鳴らした所が、三四郎の情緒によく合つた。不意に天から二三粒落ちて来た、出鱈目の雹の様である。
三四郎が半ば感覚を失つた眼を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子が何時の間にか立つてゐる。下女が閉てたと思つた戸が開いてゐる。戸の後ろに掛けてある幕を片手で押し分けた美禰子の胸から上が明らかに写つてゐる。美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑つた。
「入らつしやい」
女の声は後ろで聞こえた。三四郎は振り向かなければならなかつた。女と男は直に顔を見合せた。其時女は廂の広い髪を一寸前に動かして礼をした。礼をするには及ばない位に親しい態度であつた。男の方は却つて椅子から腰を浮かして頭を下げた。女は知らぬ風をして、向ふへ廻つて、鏡を脊に、三四郎の正面に腰を卸した。
「とう/\ 入らしつた」
同じ様な親しい調子である。三四郎には此一言が非常に嬉しく聞えた。女は光る絹を着てゐる。先刻から大分待たしたところを以て見ると、応接間へ出る為にわざわざ奇麗なのに着換へたのかも知れない。それで端然と坐つてゐる。眼と口に笑を帯びて無言の儘三四郎を見守つた姿に、男は寧ろ甘い苦しみを感じた。凝として見らるゝに堪へない心の起つたのは、其癖女の腰を卸すや否やである。三四郎はすぐ口を開いた。殆んど発作に近い。
「佐々木が……」 (青空文庫より)
◇解説
三四郎を魅惑する効果抜群の、西洋風な部屋、バイオリンの音、美禰子の登場の仕方、そのしぐさ・表情と衣装。彼は完全に美禰子の世界に引き込まれる。
「翌日」、「美禰子の家へ行つた」三四郎。
「前を通つた事は何遍でもある。けれども這入るのは始てゞある」とは、彼女目当てでその近辺を歩いたこともあることを暗示する。
「瓦葺の門の柱に里見恭助といふ標札が出でてゐる」
…この後に続く家の説明も併せて、ある程度の資産があることを感じさせる。
「三四郎は此所(こゝ)を通る度に、里見恭助といふ人はどんな男だらうと思ふ。まだ逢つた事がない」。
「取次の下女に、「美禰子さんは御宅ですか」と云つた時、三四郎は自分ながら気恥づかしい様な妙な心持がした。他の玄関で、妙齢の女の在否を尋ねた事はまだない。甚だ尋ね悪い気がする」
…うぶな大学生男子の様子。
「下女の方は案外真面目である。しかも恭しい。一旦奥へ這入つて、又出て来て、丁寧に御辞儀をして、どうぞと云ふから尾いて上がると応接間へ通した」
…このように上品な下女を雇用できる里見家。
「重い窓掛けの懸つてゐる西洋室である。少し暗い」
「正面に壁を切り抜いた小さい暖炉がある。其上が横に長い鏡になつてゐて、前に蝋燭立てが二本ある。」
…重厚なカーテン、西洋室、暖炉。西洋文化に親しむ資産家。
「三四郎は左右の蝋燭立ての真中に自分の顔を写して見て、又坐つた」
…西洋風の部屋の真中で、愛する女を待つドキドキ。
「すると奥の方でワ゛イオリンの音がした。それが何所からか、風が持つて来て捨てゝ行つた様に、すぐ消えて仕舞つた」
…美禰子の弾くバイオリンの音。それは「奥の方」から「風が持つて来て、捨てゝ行つた様に、すぐ消えて仕舞つた」。鼓動が収まらない三四郎の胸を、その音はさらに掻き立てる。
「三四郎は惜い気がする。厚く張つた椅子の脊に倚りかゝつて、もう少し遣れば可いがと思つて耳を澄ましてゐたが、音は夫限で已んだ」
…美禰子のバイオリンの音は、とても効果的に三四郎に作用する。その音は三四郎の心をつかむ。もっと聞いていたいという思い。
「鏡と蝋燭立て」は「妙に西洋の臭ひ」がし、また「加徒」を連想させる。里見家は、キリスト教なのかもしれない。
様々なことを想像していた「其時ワ゛イオリンが又鳴つた。今度は高い音と低い音が二三度急に続いて響いた。それでぱつたり消えて仕舞つた」。「全く西洋の音楽を知らない」三四郎だが、「今の音は、決して、纏つたものゝ一部分を弾いたとは受け取れない。たゞ鳴らした丈である。その無作法にたゞ鳴らした所が、三四郎の情緒によく合つた」。
「不意に天から二三粒落ちて来た、出鱈目の雹の様である」とは、突然の乱れた音が、印象強く三四郎の心を打ったということ。
西洋風の室内、バイオリンの乱れた音、そこから生じる様々な想像・イメージ。
「三四郎が半ば感覚を失つた眼を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子が何時の間にか立つてゐる」。これも大変効果的な登場の仕方だ。イメージの混乱のさなかにいる三四郎の前に突然現れた女性は、女神のように彼の目に映っただろう。意外性は、人の心を強くつかむ。またそれが実像ではなく、鏡の中の像であることは幻想的だ。
「下女が閉てたと思つた戸が開いてゐる。戸の後ろに掛けてある幕を片手で押し分けた美禰子の胸から上が明らかに写つてゐる。美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑つた」
…「下女が閉てたと思つた戸が開いてゐる」意外性。また、「戸の後ろに掛けてある幕」を美禰子の「片手」が「押し分け」ている様子と、「美禰子の胸から上」だけが「明らかに写つてゐる」のがとても良く効果的で、一枚の絵になっている。しぐさがストップされ、その目はこちらをじっと見ている。次の瞬間「にこりと笑」われたら、すべての男性は恋に落ちるだろう。
現実の美禰子なのか、夢の中の美禰子なのか。鏡を通した視線のやり取りは、三四郎に不思議な感覚を抱かせる。
鏡の中の美禰子。彼女はいつも、フレーム・絵画の中の女性として描かれる。これは彼女が、幻想の中の存在であることや、そこに永遠に封じ込められることを表す。男性の理想像の封印。夢と現実がないまぜになったような不思議な感覚を男性は感じる。
「「入らつしやい」 女の声は後ろで聞こえた」
…この言葉は、三四郎を我に返らせる。しかしその声は「後ろ」にある。目の前の鏡に映る美禰子の虚像。その口は確かに動いたはずなのに、彼女の現実の声は「後ろ」にある。夢と現実のあわいがまだおぼろげだ。三四郎はまだ、真の覚醒には至っていない。
目覚めるためには、「三四郎は振り向かなければならなかつた」。そうして「女と男は直に顔を見合せた」。ここで三四郎はやっと、現実の美禰子に会うことができた。「女と男」という言い方は、この時の美禰子と三四郎が、そのような存在であったことを表す。また、「女」が先なのは、美禰子の存在の方が優位にあることを表す。
「其時女は廂の広い髪を一寸前に動かして礼をした。礼をするには及ばない位に親しい態度であつた」
…美禰子はすべてを計算し、分かった上で行っている。「親しい態度」を演じている。
「男の方は却つて椅子から腰を浮かして頭を下げた」
…うぶな三四郎は、既に完全に彼女の支配下にある。
「女は知らぬ風をして、向ふへ廻つて、鏡を脊に、三四郎の正面に腰を卸した」
…すべて計算の上のこと。三四郎のうぶさをとがめない、そんなことは気にする必要も無いというそぶり。「鏡を脊に、三四郎の正面に腰を卸した」からには、その鏡の中に美禰子の後ろ姿が写っている。三四郎は、実像の正面と、虚像としての裏面という複雑な二重構造の美禰子と相対している。まるでマジシャンのように三四郎を幻惑する美禰子。
興味のない男に、ここまで手の込んだことはしない。やはり彼女は、三四郎に好意を持っている。
彼女はまだ、声を発していない。当然、三四郎は、彼女の一挙手一投足に注目することになる。
「「とう/\ 入らしつた」 同じ様な親しい調子である。三四郎には此一言が非常に嬉しく聞えた」。
…好きな人の声が聞こえた。それだけでうれしいものだ。しかもその内容が、自分を待ち受けていたというものならなおさらだ。
「女は光る絹を着てゐる。先刻から大分待たしたところを以て見ると、応接間へ出る為にわざわざ奇麗なのに着換へたのかも知れない」
…美禰子が三四郎を迎えるすべての事柄は、三四郎への関心・好意を表している。「わざわざ奇麗なのに着換へた」という見立ては合っているし、それは三四郎への好意からだ。
したがって、前話で、三四郎の自惚れを戒めるために美禰子が彼を呼んだのだとする語り手の見解は誤りだ。しかも彼女は、20円もの金を貸そうとしている。
「端然と坐」る「眼と口に笑を帯びて無言の儘三四郎を見守つた姿に、男は寧ろ甘い苦しみを感じた」。「男」とは、三四郎の男性性を表す。こんな人に「眼と口に笑を帯びて無言の儘」「見守」られたら、「男」はたまらない。三四郎でなくとも、「甘い」苦痛を感じるだろう。
「凝として見らるゝに堪へない心の起つたのは、其癖女の腰を卸すや否やである」。
…美禰子が椅子に腰かけると同時に、その視線に苦痛を感じた「三四郎はすぐ口を開いた」。「殆んど発作に近い」という表現が面白い。美禰子から感じる「甘い苦しみ」は、三四郎を脊髄反射させる。彼は挨拶も忘れ、いきなり「佐々木が……」と本題に入る。