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夏目漱石「三四郎」本文と解説8-4 其女は何の為に君を愚弄するのか強ひて考へて見ろと云はれたら、三四郎は自分の己惚れを罰する為とは全く考へ得なかつたに違ない。

◇本文

 三四郎は其晩与次郎の性格を考へた。永く東京に居るとあんなになるものかと思つた。それから里見へ金を借りに行く事を考へた。美禰子の所へ行く用事が出来たのは嬉しい様な気がする。然し頭を下げて金を借りるのは難有(ありがた)くない。三四郎は生れてから今日に至る迄、人に金を借りた経験のない男である。其上貸すと云ふ当人が娘である。独立した人間ではない。たとひ金が自由になるとしても、兄の許諾を得ない内証の金を借りたとなると、借りる自分は兎に角、あとで、貸した人の迷惑になるかも知れない。或はあの女の事だから、迷惑にならない様に始めから出来てゐるかとも思へる。何しろ()つて見やう。逢つた上で、借りるのが面白くない様子だつたら、断わつて、少時(しばらく)下宿の払を延ばして置いて、国から取り寄せれば事は済む。――当用は此所(こゝ)迄考へて句切りを付けた。あとは散漫に美禰子の事が頭に浮かんで来る。美禰子の顔や手や、襟や、帯や、着物やらを、想像に任せて、()けたり()つたりしてゐた。ことに明日逢ふ時に、どんな態度で、どんな事を云ふだらうと其光景が十通りにも廿(にじ)つ通りにもなつて色々に出て来る。三四郎は本来から()んな男である。用談があつて人と会見の約束などをする時には、先方が()う出るだらうといふ事許り想像する。自分が、こんな顔をして、こんな事を、こんな声で云つて()らう抔とは決して考へない。しかも会見が済むと後から屹度 其方(そのほう)を考へる。さうして後悔する。

 ことに今夜は自分の方を想像する余地がない。三四郎は此間から美禰子を疑つてゐる。然し疑ふばかりで一向埒が明かない。さうかと云つて面と向つて、聞き(ただ)すべき事件は一つもないのだから、一刀両断の解決抔は思ひも寄らぬ事である。もし三四郎の安心の為に解決が必要なら、それはたゞ美禰子に接触する機会を利用して、先方の様子から、()い加減に最後の判決を自分に与へて仕舞ふ丈である。明日の会見は此判決に欠くべからざる材料である。だから、色々に向かふを想像して見る。しかし、どう想像しても、自分に都合の好い光景ばかり出て来る。それでゐて、実際は甚だ疑はしい。丁度汚い所を奇麗な写真に取つて眺めてゐる様な気がする。写真は写真として何所(どこ)迄も本当に違ひないが、実物の汚ない事も争はれないと一般で、同じでなければならぬ筈の二つが決して一致しない。

 最後に嬉しい事を思ひ付いた。美禰子は与次郎に金を貸すと云つた。けれども与次郎には渡さないと云つた。実際与次郎は金銭の上に於ては、信用し(にく)い男かも知れない。然し其意味で美禰子が渡さないのか、どうだか疑はしい。もし其意味でないとすると、自分には甚だ頼母(たのも)しい事になる。たゞ金を貸して呉れる丈でも充分の好意である。自分に逢つて手渡しにしたいと云ふのは――三四郎は此所(こゝ)迄 己惚(おのぼ)れて見たが、(たちま)ち、

「矢っ張り愚弄ぢやないか」と考へ出して、急に赤くなつた。もし、ある人があつて、其女は何の為に君を愚弄するのかと聞いたら、三四郎は恐らく答へ得なかつたらう。強ひて考へて見ろと云はれたら、三四郎は愚弄其物に興味を()つてゐる女だからと迄は答へたかも知れない。自分の己惚(おのぼ)れを罰する為とは全く考へ得なかつたに違ない。――三四郎は美禰子の為に己惚れしめられたんだと信じてゐる。 (青空文庫より)


◇解説

「三四郎は其晩与次郎の性格を考へた」。「永く東京に居るとあんなになるものか」?


「それから里見へ金を借りに行く事を考へた」

・「美禰子の所へ行く用事が出来たのは嬉しい様な気がする。然し頭を下げて金を借りるのは難有(ありがた)くない」。「人に金を借りた経験のない男」であり、また、「貸すと云ふ当人が娘である」からだ。「兄の許諾を得ない内証の金を借りたとなると」「あとで、貸した人の迷惑になるかも知れない」。「或はあの女の事だから、迷惑にならない様に始めから出来てゐるかとも思へる」。

・「何しろ()つて見やう。逢つた上で、借りるのが面白くない様子だつたら、断わつて、少時(しばらく)下宿の払を延ばして置いて、国から取り寄せれば事は済む」。


「あとは散漫に美禰子の事が頭に浮かんで来る」。

・「美禰子の顔や手や、襟や、帯や、着物やら」

・「明日逢ふ時に、どんな態度で、どんな事を云ふだらうと其光景が十通りにも廿(にじ)つ通りにもなつて色々に出て来る」。


〇「本来」の「三四郎」

・「用談があつて人と会見の約束などをする時には、先方が()う出るだらうといふ事許り想像する。自分が、こんな顔をして、こんな事を、こんな声で云つて()らう抔とは決して考へない。しかも会見が済むと後から屹度 其方(そのほう)を考へる。さうして後悔する」。会見での相手の出方ばかりを気にし、自分がどうするかを考えない。そうして、後からそのことを後悔。漱石の作品の男の登場人物は、たいてい「恐れる男」だ。三四郎もその一人ということ。争いを望まない、神経が鋭敏な人。その上で、やはり自我はあり、その他者への作用も望む。このような人の方が、むしろ多いだろう。


「ことに今夜は自分の方を想像する余地がない」。

・「三四郎は此間から美禰子を疑つてゐる。然し疑ふばかりで一向埒が明かない」。

・「さうかと云つて面と向つて、聞き(ただ)すべき事件は一つもないのだから、一刀両断の解決抔は思ひも寄らぬ事である」。

・「明日の会見は此判決に欠くべからざる材料である。だから、色々に向かふを想像して見る。しかし、どう想像しても、自分に都合の好い光景ばかり出て来る。それでゐて、実際は甚だ疑はしい」。

…三四郎は、美禰子の、自分への気持ちを量りかねている。自分が好きなのか、ただからかっているだけなのか。


「汚い所を奇麗な写真に取つて眺めてゐる様な気がする。写真は写真として何所(どこ)迄も本当に違ひないが、実物の汚ない事も争はれないと一般で、同じでなければならぬ筈の二つが決して一致しない」

…実物・実際は「汚い」。しかしそれを写した「写真」は「奇麗」に出来上がっている。その二つの不同一性が、彼を不安にさせる。美禰子の自分への愛は「実際は甚だ疑はしい」のに、自分の心に写る想像・「写真」は、「自分に都合の好い光景ばかり出て来る」ということ。


しかし三四郎は自分に都合のいいように考えてしまう。

「最後に嬉しい事を思ひ付いた」。

「美禰子は与次郎に金を貸すと云つた」

→①「けれども与次郎には渡さないと云つた。実際与次郎は金銭の上に於ては、信用し(にく)い男かも知れない。然し其意味で美禰子が渡さないのか、どうだか疑はしい」。

→②「もし其意味でない(「金銭の上に於ては、信用し(にく)い男」だから貸さないのではない)とすると、自分には甚だ頼母(たのも)しい事になる。たゞ金を貸して呉れる丈でも充分の好意である。自分に逢つて手渡しにしたいと云ふのは――」。つまり三四郎は、美禰子が自分に「好意」を持っているから金を貸そうとしたのだと考えている。しかも、それを「自分に逢つて手渡しにしたいと云ふのは」、好きな自分に会うために、わざわざ自分に手渡ししたいと言っているのだろうと「己惚(おのぼ)れて見た」ということ。


しかし三四郎は、「(たちま)ち」我に返り、「矢っ張り愚弄ぢやないか」と疑う。彼女は自分をからかうために、このような(はかりごと)をめぐらせているのではないか。「と考へ出して、急に赤くなつた」。


「もし、ある人があつて、其女は何の為に君を愚弄するのかと聞いたら、三四郎は恐らく答へ得なかつたらう。強ひて考へて見ろと云はれたら、三四郎は愚弄其物に興味を()つてゐる女だからと迄は答へたかも知れない。自分の己惚(おのぼ)れを罰する為とは全く考へ得なかつたに違ない」。

…美禰子が自分に金を貸す意思を示し、しかもそれを取りに来させようとする理由は、「愚弄」のためだと考える三四郎。しかしそもそも彼女が愚弄する理由は分からない。「愚弄其物に興味を()つてゐる女だから」という理由までは、三四郎は考え付いたかもしれない。そのような三四郎を語り手は批判する。彼女の意思は、彼女の属性によるのではなく、三四郎自身に問題・理由があるからなのだと。美禰子が三四郎を「愚弄」しようとしているとすれば、それは、「己惚(おのぼ)れを罰する為」なのだと。

だが、そもそも「己惚(おのぼ)れを罰する為」に、自分に気のある相手を「愚弄」するというのはいかがかと思う。それは、恋愛をゲームのように考える態度だ。素直でなく、策を弄している。しかし語り手は、この場面でのふたりの関係を、先ほど説明したように考えている。


「――三四郎は美禰子の為に己惚れしめられたんだと信じてゐる」。

…美禰子にはその気も無いのに、三四郎が恋愛関係を想定し、勝手に盛り上がっているだけ。美禰子は自分に「好意」を持っているという勝手な「己惚れ」。そうして、そのような気持ちにさせたのは、美禰子のせいだと

考える三四郎の愚かさ、という意味。

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