表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
77/117

夏目漱石「三四郎」本文と解説8-3 佐々木「文芸家の会は多分上野の西洋軒になるだらう。なに会費なんか、心配しなくつてもいい。無ければ僕が出して置くから」 三四郎はたちまちさきの弐拾円の件を思ひ出した。

◇本文

 運動は着々歩を進めつゝある。暇さへあれば下宿へ出掛けて行つて、一人一人に相談する。相談は一人一人に限る。大勢寄ると、各自(めいめい)が自分の存在を主張しやうとして、稍(やゝ)ともすれば異を()てる。それでなければ、自分の存在を閑却された心持になつて、初手から冷淡に構へる。相談はどうしても一人、一人に限る。其代り暇は()る。金も要る。それを苦にしてゐては運動は出来ない。それから相談中には広田先生の名前を余り出さない事にする。我々の為の相談でなくつて、広田先生の為の相談だと思はれると、事が纏まらなくなる。

 与次郎は此方法で運動の歩を進めてゐるのださうだ。それで今日迄の所は旨く行つた。西洋人 (ばかり)では不可(いけ)ないから、是非共日本人を入れて貰はうといふ所迄話は来た。是から先はもう一遍寄つて、委員を撰んで、学長なり、総長なりに、我々の希望を述べに()(ばかり)である。尤も会合丈はほんの形式だから略しても()い。委員になるべき学生も大体は知れてゐる。みんな広田先生に同情を持つてゐる連中だから、談判の模様によつては、此方(こつち)から先生の名を当局者へ持ち出すかも知れない。……

 聞いてゐると、与次郎一人で天下が自由になる様に思はれる。三四郎は(すくな)からず与次郎の手腕に感服した。与次郎は又此間の晩、原口さんを先生の所へ連れて来た事に就いて、弁じ出した。

「あの晩、原口さんが、先生に文芸家の会をやるから出ろと、勧めてゐたらう」と云ふ。三四郎は無論覚えてゐる。与次郎の話によると、実はあれも自身の発起に係るものださうだ。其理由は色々あるが、まづ第一に手近な所を云へば、あの会員のうちには、大学の文科で有力な教授がゐる。其男と広田先生を接触させるのは、此際先生に取つて、大変な便利である。先生は変人だから、求めて誰とも交際しない。然し此方(こつち(で相当の機会を作つて、接触させれば、変人なりに附合(つきあ)つて行く。……

()う云ふ意味があるのか、(ちつ)とも知らなかつた。それで君が発起人だと云ふんだが、会をやる時、君の名前で通知を出して、さう云ふ偉い人達がみんな寄つて来るのかな」

 与次郎は、しばらく真面目に、三四郎を見てゐたが、やがて苦笑ひをして(わき)を向いた。

「馬鹿云つちや不可(いけ)ない。発起人つて、表向きの発起人ぢやない。たゞ僕がさう云ふ会を企だてたのだ。つまり僕が原口さんを勧めて、万事原口さんが周旋する様に(こしらへ)たのだ」

「さうか」

「さうかは田臭(でんしう)だね。時に君もあの会へ出るが()い。もう近いうちに有る(はづ)だから」

「そんな偉い人ばかり出る所へ行つたつて仕方がない。僕は()さう」

「又田臭を放つた。偉い人も偉くない人も社会へ頭を出した順序が違ふ丈だ。なにあんな連中、博士とか学士とか云つたつて、会つて話して見ると何でもないものだよ。第一向ふがさう偉いとも何とも思つてやしない。是非出て置くが()い。君の将来の為だから」

何所(どこ)であるのか」

「多分上野の西洋軒になるだらう」

「僕はあんな所へ這入(はい)つた事がない。高い会費を取るんだらう」

「まあ弐円位だらう。なに会費なんか、心配しなくつても()い。無ければ僕が出して置くから」

 三四郎は(たちま)ちさきの弐拾円の件を思ひ出した。けれども不思議に可笑(おか)しくならなかつた。与次郎は其上銀座の何所(どこ)とかへ天麩羅を食ひに行かうと云ひ出した。金はあると云ふ。不思議な男である。云ひなり次第になる三四郎も是は断わつた。其代り一所に散歩に出た。帰りに岡野へ寄つて、与次郎は栗饅頭を沢山買つた。これを先生に見舞(みやげ)に持つて行くんだと云つて、袋を抱へて帰つていつた。 (青空文庫より)


◇解説

広田を東大教授に就けるという「運動は着々歩を進めつゝある」。「下宿」にいる学生「一人一人」への「相談」は、「暇は()る」し「金も要る」。「広田先生の名前を余り出さない事に」したのは、「広田先生の為の相談だと思はれると、事が纏まらなくなる」からだ。「与次郎は此方法で運動の歩を進めてゐるのださうだ」。「是から先はもう一遍寄つて、委員を撰んで、学長なり、総長なりに、我々の希望を述べに()(ばかり)である」。


「与次郎の手腕」は、原口を通して「文芸家の会」に広田を誘ったこと。「あの会員のうちには、大学の文科で有力な教授がゐる。其男と広田先生を接触させるのは、此際先生に取つて、大変な便利である」と考えたからだ。場所は「上野の西洋軒」。

「僕はあんな所へ這入(はい)つた事がない。高い会費を取るんだらう」と心配すると、「なに会費なんか、心配しなくつても()い。無ければ僕が出して置くから」と言われ、「三四郎は(たちま)ちさきの弐拾円の件を思ひ出した」。自分が金を貸した相手からのおごりに、腹立ちよりも「不思議」な「可笑(おか)し」さを感じる三四郎。「与次郎は其上銀座の何所(どこ)とかへ天麩羅を食ひに行かうと云ひ出した。金はあると云ふ」。これにも三四郎は腹を立てず、「不思議な男」と感じるのみだったが、「云ひなり次第になる三四郎も是は断わつた」。


「帰りに岡野へ寄つて、与次郎は栗饅頭を沢山買つた。これを先生に見舞(みやげ)に持つて行くんだと云つて、袋を抱へて帰つていつた」。その金はどこから出ているのか。また、少しでもあるならば、その金を返すべきではないか。金は天下の回り物というが、佐々木の気楽さ、無計画性は、特に金についてよく表れる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ