夏目漱石「三四郎」本文と解説8-2 佐々木「ありや妙な女で、年の行かない癖に姉さんじみた事をするのが好きな性質(たち)なんだから、引き受けさへすれば、安心だ」
◇本文
夫から今日に至る迄与次郎は金を返さない。三四郎は正直だから下宿屋の払ひを気にしてゐる。催促はしないけれども、どうかして呉れれば可いがと思つて、日を過ごすうちに晦日近くなつた。もう一日二日しか余つてゐない。間違つたら下宿の勘定を延ばして置かう抔といふ考はまだ三四郎の頭に上らない。必ず与次郎が持つて来て呉れる――と迄は無論彼を信用してゐないのだが、まあどうか工面して見様位の親切 気はあるだらうと考へてゐる。広田先生の評によると与次郎の頭は浅瀬の水の様に始終移つてゐるのださうだが、無暗に移る許で責任を忘れる様では困る。まさかそれ程の事もあるまい。
三四郎は二階の窓から往来を眺めてゐた。すると向から与次郎が足早にやつて来た。窓の下迄来て仰向いて、三四郎の顔を見上げて、「おい、居るか」と云ふ。三四郎は上から、与次郎を見下ろして「うん、居る」と云ふ。此馬鹿見た様な挨拶が上下で一句交換されると、三四郎は部屋の中へ首を引込める。与次郎は階子段をとん/\上がつて来た。
「待つてゐやしないか。君の事だから下宿の勘定を心配してゐるだらうと思つて、大分奔走した。馬鹿気てゐる」
「文芸時評から原稿料を呉れたか」
「原稿料つて。原稿料はみんな取つて仕舞つた」
「だつて此間は月末に取る様に云つてゐたぢやないか」
「さうかな。夫れは聞違ひだらう。もう一文も取るのはない」
「可笑な。だつて君は慥かに左う云つたぜ」
「なに、前借りをしやうと云つたのだ。所が中中貸さない。僕に貸すと返さないと思つてゐる。怪しからん。僅か二十円 許の金だのに。いくら偉大なる暗闇を書いて遣つても信用しない。詰らない。厭になつちまつた」
「ぢや金は出来ないのか」
「いや外で拵たよ。君が困るだらうと思つて」
「さうか。それは気の毒だ」
「所が困つた事が出来た。金は此所(こゝ)にはない。君が取りに行かなくつちや」
「何所へ」
「実は文芸時評が可けないから、原口だの何だの二三軒歩いたが、何所も月末で都合がつかない。それから最後に里見の所へ行つて――里見といふのは知らないかね。里見恭助。法学士だ。美禰子さんの兄さんだ。あすこへ行つた所が、今度は留守で矢っ張り要領を得ない。其うち腹が減つて歩くのが面倒になつたから、とう/\美禰子さんに逢つて話しをした」
「野々宮さんの妹が居やしないか」
「なに午少し過ぎだから学校に行つてる時分だ。それに応接間だから居たつて構やしない」
「さうか」
「それで美禰子さんが、引受けてくれて、御用立て申しますと云ふんだがね」
「あの女は自分の金があるのかい」
「そりや、何うだか知らない。然し兎に角大丈夫だよ。引き受けたんだから。ありや妙な女で、年の行かない癖に姉さんじみた事をするのが好きな性質なんだから、引き受けさへすれば、安心だ。心配しないでも可い。宜しく願つて置けば構はない。所が一番仕舞になつて、御金は此所にありますが、あなたには渡せませんと云ふんだから驚いたね。僕はそんなに不信用なんですかと聞くと、えゝと云つて笑つてゐる。厭になつちまつた。ぢや小川を遣しますかなと又聞いたら、えゝ小川さんに御手渡し致しませうと云はれた。どうでも勝手にするが可い。君取りに行けるかい」
「取りに行かなければ、国へ電報でも掛けるんだな」
「電報はよさう。馬鹿気げてゐる。いくら君だつて借りに行けるだらう」
「行ける」
是で漸く弐拾円の埒が明いた。それが済むと、与次郎はすぐ広田先生に関する事件の報告を始めた。 (青空文庫より)
◇解説
前話では、三四郎が佐々木に金を貸した場面が語られた。
「与次郎は金を返さない」ため、「三四郎は正直だから下宿屋の払ひを気にしてゐる。催促はしないけれども、どうかして呉れれば可いがと思つて、日を過ごすうちに晦日近くなつた。もう一日二日しか余つてゐない」。「広田先生の評によると与次郎の頭は浅瀬の水の様に始終移つてゐるのださうだが、無暗に移る許で責任を忘れる様では困る。まさかそれ程の事もあるまい」、「どうか工面して見様位の親切 気はあるだらうと考へてゐる」。広田先生から預かった金を馬券購入に使い、散財してしまった学友を、まだこのように信用する様子は、地方出身の三四郎の人の良さと世慣れなさを表す。
「三四郎は二階の窓から往来を眺めてゐた」以降の部分は、マンガのカット割りのようで面白く、映像的な描写だ。「馬鹿見た様な挨拶」の後、「与次郎は階子段をとん/\上がつて来た」。
「待つてゐやしないか。君の事だから下宿の勘定を心配してゐるだらうと思つて、大分奔走した。馬鹿気てゐる」
…人から金を借りておいて、その返済のための奔走を「馬鹿気てゐる」とは無礼な言い方だ。恩を感じていない者の物言い。「君の事だから下宿の勘定を心配してゐるだらう」というのも、大きなお世話としか言いようがない。下宿の勘定の心配は、普通の人であればすることだ。それをしないのは、この物語では佐々木ぐらいだ。
「文芸時評から原稿料を呉れたか」
「原稿料つて。原稿料はみんな取つて仕舞つた」
「だつて此間は月末に取る様に云つてゐたぢやないか」
「さうかな。夫れは聞違ひだらう。もう一文も取るのはない」
…これも人をバカにした話だ。以前は嘘で言い訳したことになる。
「可笑な。だつて君は慥かに左う云つたぜ」
「なに、前借りをしやうと云つたのだ。所が中中貸さない。僕に貸すと返さないと思つてゐる。怪しからん。僅か二十円 許の金だのに。いくら偉大なる暗闇を書いて遣つても信用しない。詰らない。厭になつちまつた」
…三四郎の言う通り、佐々木は「慥かに左う云つた」。それを急に「なに、前借りをしやうと云つたのだ」と言い訳・すり替える不誠実さ。そればかりか、「僕に貸すと返さないと思つてゐる。怪しからん」と一人で勝手に論を進めて憤る。また、「二十円」は、「僅か」な金ではないから人に借りているのだ。どんなに「厭」になったとしても、何とか用立てる必要が佐々木にはあるのに、彼はそれを自覚しない。
「ぢや金は出来ないのか」
「いや外で拵たよ。君が困るだらうと思つて」
…「君が困るだらうと思つて」が余計だ。これではまるで三四郎が悪いような言い方。ここは「君のために」ではなく、当然返すべき金だ。だから三四郎も、「さうか。それは気の毒だ」などと慰撫する必要はない。
「所が困つた事が出来た。金は此所(こゝ)にはない。君が取りに行かなくつちや」
…返す相手に「取りに行」かせる無礼。縁を切られるだろう。
「原口だの何だの二三軒歩いたが、何所も月末で都合がつかない。それから最後に里見の所へ行つて」、「とう/\美禰子さんに逢つて話しをした」。突然の申し出に、美禰子も戸惑っただろう。佐々木と美禰子は、金の貸し借りをする関係にないが、佐々木はそれをまったく気にしない。
「ありや妙な女で、年の行かない癖に姉さんじみた事をするのが好きな性質なんだから、引き受けさへすれば、安心だ。心配しないでも可い。宜しく願つて置けば構はない」
…美禰子はくしゃみをしているだろう。親切から金を貸した相手から、まさかこのような批評をされているとは思わないだろう。佐々木は美禰子への感謝の心が無い。
「所が一番仕舞になつて、御金は此所にありますが、あなたには渡せませんと云ふんだから驚いたね。僕はそんなに不信用なんですかと聞くと、えゝと云つて笑つてゐる」
…この美禰子の見立ては正解だ。佐々木に渡したら、必ず使い込まれてしまう。
「ぢや小川を遣しますかなと又聞いたら、えゝ小川さんに御手渡し致しませうと云はれた。どうでも勝手にするが可い。君取りに行けるかい」
…このような事情であれば、金は三四郎が取りに行くしかないだろう。
しかしここで読者も三四郎も、佐々木の論理に騙されてはいけない。そもそも三四郎の金を借りたのは佐々木であり、彼が自分で働くなり身内から借りるなりして返済しなければならない金だ。それなのに佐々木は、美禰子から借りて三四郎に返済しようとする。これは借金の借り換えに過ぎず、佐々木の返済の義務は消滅していない。今度は美禰子が被害者になるだけだ。
また、この形をとると、まるで三四郎が美禰子から金を借りたような錯覚に陥る。(そうしてこの後そのような流れになる)
「取りに行かなければ、国へ電報でも掛けるんだな」
…三四郎は親がかりであり、これでは親に迷惑がかかる。
「電報はよさう。馬鹿気げてゐる。いくら君だつて借りに行けるだらう」
…まったく無礼な言い方だ。自分が金を返せないから友人が親に頼ろうとしていることを、「馬鹿気ている」とは口が裂けても言えないだろう。好き好んでそんな電報を掛けたいわけではない。また、「いくら君だつて借りに行けるだらう」というのも失礼な言い方で、佐々木のせいでそうせざるをえなくなっていることへの顧慮が全くない。まるで子供だと決めつけている。普通であれば、友情が壊れる場面だ。
しかし三四郎はそれらのことにこだわらない。彼は素直に、「行ける」と承諾する。また、「是で漸く弐拾円の埒が明いた」と納得・安心してしまう。素直で愚かな世慣れない田舎出の青年。
「それが済むと、与次郎はすぐ広田先生に関する事件の報告を始めた」
…当然、借金問題は解決していないため、「済」んではいない。しかしふたりの話題は、広田先生に移る。金に汚い佐々木がたくらむことは、必ず失敗するだろう。しかもそれは、彼だけでなく、他者をまきこみ迷惑をかけるところが厄介だ。広田の困惑と立腹が、既に目に浮かぶ。