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夏目漱石「三四郎」本文と解説8-1 三四郎は昨日母から来たばかりの手紙の中をのぞいて「金はこゝにある」と云つた。与次郎は「ありがたい。親愛なる小川君」と急に元気のいい声で落語家の様な事を云つた。

◇本文

 三四郎が与次郎に金を借した顛末は、()うである。

 此間の晩九時頃になつて、与次郎が雨の中を突然 ()つて来て、冒頭から大いに弱つたと云ふ。見ると、例になく顔の色が悪い。始めは秋雨に濡れた冷たい空気に吹かれ過ぎたからの事と思つてゐたが、座に就いて見ると、悪いのは顔色ばかりではない。珍らしく銷沈してゐる。三四郎が「具合でも()くないのか」と尋ねると、与次郎は鹿の様な眼を二度程ぱちつかせて、かう答へた。

「実は金を失くなしてね。困つちまつた」

 そこで、一寸心配さうな顔をして、烟草の(けむり)を二三本鼻から吐いた。三四郎は黙つて待つてゐる訳にも行かない。どう云ふ種類の金を、どこで失くなしたのかと段々聞いて見ると、すぐ解つた。与次郎は烟草の烟の、二三本鼻から出切る間丈控へてゐたばかりで、その後は、一部始終を訳もなくすら/\と話して仕舞つた。

 与次郎の失くした金は、(たか)で弐拾円、但し人のものである。去年広田先生が此前の家を借りる時分に、三ヶ月の敷金に窮して、足りない所を一時野々宮さんから用達(ようだ)つて貰つた事がある。然るに其金は野々宮さんが、妹にワ゛イオリンを買つて遣らなくてはならないとかで、わざ/\国元の親父さんから送らせたものださうだ。それだから今日が今日必要といふ程でない代りに、延びれば延びる程よし子が困る。よし子は現に今でもワ゛イオリンを買はずに済ましてゐる。広田先生が返さないからである。先生だつて返せればとうに返すんだらうが、月々余裕が一文も出ない上に、月給以外に決して稼がない男だから、つい夫なりにしてあつた。所が此夏高等学校の受験生の答案調べを引き受けた時の手当が六十円此頃になつて漸く受け取れた。それで漸く義理を済ます事になつて、与次郎が其使ひを云ひ付かつた。

「その金を失くなしたんだから済まない」と与次郎が云つてゐる。実際済まない様な顔付でもある。何所(どこ)へ落としたんだと聞くと、なに落としたんぢやない。馬券を何枚とか買つて、みんな無くなして仕舞つたのだと云ふ。三四郎も是れには呆れ返つた。あまり無分別の度を通り越してゐるので意見をする気にもならない。其上本人が悄然としてゐる。是を平常(いつも)の活溌々地と比べると、与次郎なるものが二人居るとしか思はれない。其対照が烈し過ぎる。だから可笑(おか)しいのと気の毒なのとが一所になつて三四郎を襲つて来た。三四郎は笑ひ出した。すると与次郎も笑ひ出した。

「まあ()いや、どうかなるだらう」と云ふ。

「先生はまだ知らないのか」と聞くと、

「まだ知らない」

「野々宮さんは」

「無論、まだ知らない」

「金は何時(いつ)受取つたのか」

「金は此月始まりだから、今日で丁度二週間程になる」

「馬券を買つたのは」

「受け取つた明る日だ」

「夫れから今日迄 其儘(そのまゝ)にして置いたのか」

「色々奔走したが出来ないんだから仕方がない。已を得なければ今月末迄 此儘(このまゝ)にして置かう」

「今月末になれば出来る見込でもあるのか」

「文芸時評社から、どうかなるだらう」

 三四郎は立つて、机の抽出(ひきだし)を開けた。昨日母から来たばかりの手紙の中を(のぞ)いて、

「金は此所(こゝ)にある。今月は国から早く送つて来た」と云つた。与次郎は、

難有(ありがた)い。親愛なる小川君」と急に元気の()い声で落語家の様な事を云つた。

 二人は十時過ぎ雨を冒して、追分の通りへ出て、角の蕎麦屋へ這入つた。三四郎が蕎麦屋で酒を飲む事を覚えたのは此時である。其晩は二人共愉快に飲んだ。勘定は与次郎が払つた。与次郎は中々人に払はせない男である。 (青空文庫より)


◇解説

「用事を(こしらへ)る男」(7-1)佐々木に、「三四郎は此間与次郎に弐十円借した。二週間後には文芸時評社から原稿料が取れる筈だから、それ迄立替てくれろと云ふ。事理(わけ)を聞いて見ると、気の毒であつたから、国から送つて来た(ばかり)為替(かはせ)を五円引いて、余りは悉く借して仕舞つた。まだ返す期限ではないが、広田の話を聞いて見ると少々心配になる」(7-1)とあった。


「三四郎が与次郎に金を借した顛末は、()うである」。

・「晩九時頃」、「雨の中を突然 ()つて来て、冒頭から大いに弱つたと云ふ。見ると、例になく顔の色が悪い」

…三四郎は何事が起ったかと思っただろう。

・「悪いのは顔色ばかりではない。珍らしく銷沈してゐる。三四郎が「具合でも()くないのか」と尋ねると、与次郎は鹿の様な眼を二度程ぱちつかせて、かう答へた。「実は金を失くなしてね。困つちまつた」

…いつもと違う佐々木の様子に、さらに心配になる三四郎。「鹿の様な眼を二度程ぱちつかせて」がおかしい。とてもオーバーな演技。

・「そこで、一寸心配さうな顔をして、烟草の(けむり)を二三本鼻から吐いた」

…急いでやって来て、開口一番、「大いに弱った」と言った割にはもったいをつけて間を置く。相手の三四郎から弱った理由を尋ねるように仕向けている。「三四郎は黙つて待つてゐる訳にも行かない。どう云ふ種類の金を、どこで失くなしたのかと段々聞いて見ると、すぐ解つた。与次郎は烟草の烟の、二三本鼻から出切る間丈控へてゐたばかりで、その後は、一部始終を訳もなくすら/\と話して仕舞つた」。


・「与次郎の失くした金は、(たか)で弐拾円、但し人のもの」

…単純に当時の1円を現在の1万円と換算すると、20万円になる。

・もともとの金の動きは次の通り。

「わざ/\国元の親父さんから送らせた」

→「野々宮さんが、妹にワ゛イオリンを買つて遣らなくてはならない」

→「去年広田先生が此前の家を借りる時分に、三ヶ月の敷金に窮して、足りない所を一時野々宮さんから用達(ようだ)つて貰つた」

・「それだから今日が今日必要といふ程でない代りに、延びれば延びる程よし子が困る。よし子は現に今でもワ゛イオリンを買はずに済ましてゐる」

・「先生だつて返せればとうに返すんだらうが、月々余裕が一文も出ない上に、月給以外に決して稼がない男だから、つい夫なりにしてあつた」

→「此夏高等学校の受験生の答案調べを引き受けた時の手当が六十円此頃になつて漸く受け取れた」

→「それで漸く義理を済ます事になつて、与次郎が其使ひを云ひ付かつた」が、「その金を失くなしたんだから済まない」。「馬券を何枚とか買つて、みんな無くなして仕舞つた」


以上の顛末をまとめると、

〇野々宮の親の「弐拾円」

→よし子のバイオリン購入費用

→広田の敷金に用立て

〇入試業務の手当て60円

→佐々木が返済の使い

→野々宮に返済せず、馬券に投入・散財。


広田に60円の臨時収入があったことから、なにがしかの利子を付けて返金しようとした可能性がある。佐々木はそれを全額、馬券購入に使いこんでしまった。

(入試業務で60万円は、いい臨時収入だ)


広田が困っていることを見かねて貸した野々宮。

しかもその金の出どころは野々宮の親。

当初の使い道はよし子のバイオリンの購入費用。

広田の臨時収入を賭け事に使い込み。

佐々木は、野々宮の親、宗八、よし子、広田に迷惑をかけたことになる。しかも人から預かった金の使い込み。


人から預かった金を使い込む行為は、「横領罪」に該当する可能性がある。

〇「刑法」第三十八章 横領の罪 第二百五十二条

「自己の占有する他人の物を横領した者は、五年以下の懲役に処する」

「他人から預かったお金」は「他人の物」にあたり、その使い込みは「横領」と判断される。状況によっては詐欺罪など、別の罪に問われる可能性もある。


ということで、「三四郎も是れには呆れ返つた。あまり無分別の度を通り越してゐるので意見をする気にもならない」。

佐々木は、表面上、「悄然としてゐる。是を平常(いつも)の活溌々地と比べると、与次郎なるものが二人居るとしか思はれない」。

三四郎は、「其対照が烈し過ぎる」ため、「可笑(おか)しいのと気の毒なのとが一所になつて」「襲つて来た」結果、「笑ひ出した」。


「すると与次郎も笑ひ出した」…ここは当人が笑ってはいけない場面。そこで笑ってしまうのが佐々木だ。彼はさらに、「まあ()いや、どうかなるだらう」と気楽な事を言う。


このことを「先生は」「まだ知ら」ず、「野々宮さん」も「無論、まだ知らない」。

金を受け取ったのは、「今日で丁度二週間程になる」。「馬券を買つたのは」、「受け取つた明る日w」。「已を得なければ今月末迄 此儘(このまゝ)にして置かう」。「文芸時評社から、どうかなるだらう」。気楽すぎる佐々木。


三四郎は「昨日母から来たばかりの手紙の中を(のぞ)いて」、「金は此所(こゝ)にある。今月は国から早く送つて来た」と言い、佐々木にその金を渡してしまう。

「与次郎は、「難有(ありがた)い。親愛なる小川君」と急に元気の()い声で落語家の様な事を云つた」。どこまでもお調子者だ。こんな人に貸したが最後、その金は永遠に戻っては来ないだろう。それは、次の様子からもうかがわれる。


「二人は十時過ぎ雨を冒して、追分の通りへ出て、角の蕎麦屋へ這入つた。三四郎が蕎麦屋で酒を飲む事を覚えたのは此時である。其晩は二人共愉快に飲んだ。勘定は与次郎が払つた。与次郎は中々人に払はせない男である」

…蕎麦屋で愉快に酒を飲んだ二人分の勘定を、相手から借りた金で支払うという矛盾。めちゃくちゃな男だ。「与次郎は中々人に払はせない男である」とあるが、ここは男気を発揮する場面ではない。語り手のちゃかした表現。


事理(わけ)を聞いて見ると、気の毒であつたから」(7-1)と、学友に情けをかける三四郎。後で裏切られ、傷つかなければよいのだが。お人好しにもほどがある。


佐々木の消沈は、完全な演技か、または真実この人はこういう人かのどちらかだが、そのとらえどころのなさが、この物語における彼のトリックスター的役割だろう。

思慮のない子供は停滞した場を乱す。それが良い方に向かうか、悪い方に転ぶか、この後の展開に読者の興味は引かれる。

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