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夏目漱石「三四郎」本文と解説7-6 母は本当に親切なものであると、つくづく感心した。其晩一時頃迄かゝつて長い返事を母にやつた。其なかには東京はあまり面白い所ではないと云ふ一句があつた。

◇本文

 戸外(そと)は寒い。空は高く晴れて、何処(どこ)から露が降るかと思ふ位である。手が着物に触ると、触つた所だけが冷やりとする。人通りの少ない小路を二三度折れたり曲つたりして行くうちに、突然 辻占(つぢうら)屋に逢つた。大きな丸い提灯を()けて、腰から下を真赤にしてゐる。三四郎は辻占が買つて見たくなつた。然し敢て買はなかつた。杉垣に羽織の肩が触る程に、赤い提燈を()けて通した。しばらくして、暗い所を(はす)に抜けると、追分の通りへ出た。角に蕎麦屋がある。三四郎は今度は思ひ切つて暖簾(のれん)を潜(くゞ)つた。少し酒を飲む為である。

 高等学校の生徒が三人ゐる。近頃学校の先生が(ひる)の弁当に蕎麦を食ふものが多くなつたと話してゐる。蕎麦屋の担夫(かつぎ)午砲(どん)が鳴ると、蒸籠(せいろ)(たね)ものを山の様に肩へ載せて、急いで校門を這入つてくる。此所(こゝ)の蕎麦屋はあれで大分儲かるだらうと話してゐる。何とかいふ先生は夏でも釜揚 饂飩(うどん)を食ふが、どう云ふものだらうと云つてゐる。大方胃が悪いんだらうと云つてゐる。其外色々の事を云つてゐる。教師の名は大抵呼び()てにする。中に一人広田さんと云つたものがある。それから何故広田さんは独身でゐるかといふ議論を始めた。広田さんの所へ行くと女の裸体画が懸けてあるから、女が嫌なんぢやなからうと云ふ説である。尤も其裸体画は西洋人だから当てにならない。日本の女は嫌かも知れないといふ説である。いや失恋の結果に違ないと云ふ説も出た。失恋してあんな変人になつたのかと質問したものもあつた。然し若い美人が出入するといふ噂があるが本当かと聞き(ただ)したものもあつた。

 段々聞いてゐるうちに、要するに広田先生は偉い人だといふ事になつた。何故偉いか三四郎にも能く解らないが、兎に角此三人は三人ながら与次郎の書いた「偉大なる暗闇」を読んでゐる。現にあれを読んでから、急に広田さんが好きになつたと云つてゐる。時々は「偉大なる暗闇」のなかにある警句抔を引用して来る。さうして盛んに与次郎の文章を()めてゐる。零余子とは誰だらうと不思議がつてゐる。何しろ余程よく広田さんを知つてゐる男に相違ないといふ事には三人共同意した。

 三四郎は(そば)に居て成程と感心した。与次郎が「偉大なる暗闇」を書く(はづ)である。文芸時評の売れ高の少ないのは当人の自白した通であるのに、例々しく彼の所謂大論文を掲げて得意がるのは、虚栄心の満足以外に何の為になるだらうと疑つてゐたが、是で見ると活版の勢力は矢張り大したものである。与次郎の主張する通り、一言でも半句でも云はない方が損になる。人の評判はこんな所から()がり、又こんな所から落ちると思ふと、筆を執るものゝ責任が恐ろしくなつて、三四郎は蕎麦屋を出た。

 下宿へ帰ると、酒はもう醒めて仕舞つた。何だか詰まらなくつて不可(いけ)ない。机の前に坐つて、ぼんやりしてゐると、下女が下から湯沸かしに熱い湯を入れて持つて来た(つい)でに、封書を一通置いて行つた。又母の手紙である。三四郎はすぐ封を切つた。今日は母の手蹟を見るのが甚だ嬉しい。

 手紙は()なり長いものであつたが、別段の事も書いてない。ことに三輪田の御光さんについては一口も述べてないので大いに難有(ありがた)かつた。けれども中に妙な助言がある。

 御前は小供の時から度胸がなくつて不可ない。度胸の悪いのは大変な損で、試験の時なぞにはどの位困るか知れない。興津の(たか)さんは、あんなに学問が出来て、中学校の先生をしてゐるが、検定試験を受けるたびに、身体が(ふる)へて、うまく答案が出来ないんで、気の毒な事に(いま)だに月給が上がらずにゐる。友達の医学士とかに頼んで(ふる)への()まる丸薬を拵らへて貰つて、試験前に飲んで出たが矢っ張り顫へたさうである。御前のはぶる/\顫へる程でもない様だから、平生から治薬(じやく)に度胸の(すわ)る薬を東京の医者に拵らへて貰つて飲んで見ろ。(なほ)らない事もなからうと云ふのである。

 三四郎は馬鹿々々しいと思つた。けれども馬鹿々々しいうちに大いなる慰藉を見出だした。母は本当に親切なものであると、つくづく感心した。其晩一時頃迄かゝつて長い返事を母に()つた。其なかには東京はあまり面白い所ではないと云ふ一句があつた。 (青空文庫より)


◇解説

前話で広田と画家の原口が、美禰子について論評していた後の場面。広田が「あの女は自分の行きたい所でなくっちゃ行きっこない。勧めたってだめだ。好きな人があるまで独身で置くがいい」と言ったのに対し、原口は「まったく西洋流だね」と答えていた。


戸外(そと)は寒い。空は高く晴れて、何処(どこ)から露が降るかと思ふ位である。手が着物に触ると、触つた所だけが冷やりとする。人通りの少ない小路を二三度折れたり曲つたりして行くうちに」

…三四郎の心もこの状態にある。「冷やり」とさびしい。また、進む方向が「折れたり曲つたりして」定まらぬ。だから彼は、「辻占(つぢうら)屋に逢つた」時、「辻占が買つて見たくなつた」のだ。これから自分はどうすればいいかの指針を得たいため。「然し敢て買はなかつた。杉垣に羽織の肩が触る程に、赤い提燈を()けて通した」。彼は自分で自分の進路を考え決定しようとする。


ところで次作『それから』では、「赤」が危機の色であることはこれまでも示した通り。辻占屋が「大きな丸い提灯を()けて、腰から下を真赤にしてゐる」は、三四郎が人生に迷う様子をあらわし、「赤い提燈を()けて通した」は自力で危機を回避しようとしていることを表す。


「角に蕎麦屋がある。三四郎は今度は思ひ切つて暖簾(のれん)を潜(くゞ)つた。少し酒を飲む為である」

…飲酒により、迷いの鬱屈をしばし紛らそうとする三四郎。


蕎麦屋には「高等学校の生徒が三人」おり、「学校の先生」のうわさ話に花が咲いていた。

先生たちのうわさを「色々」「云つてゐる」。「教師の名は大抵呼び()てにする」「中に一人広田さんと云つたものがある」。広田だけは「さん」付けで尊重されているようだ。

「段々」話が進む「うちに、要するに広田先生は偉い人だといふ事になつた」。「何故偉いか三四郎にも能く解らない」とは、三四郎がまだ広田の真価を図りかねている様子。以前、その絵の知識に感嘆はしていたが。

「此三人は三人ながら与次郎の書いた「偉大なる暗闇」を読んで」おり、「あれを読んでから、急に広田さんが好きになつたと云つてゐる」。「是で見ると活版の勢力は矢張り大したものである。与次郎の主張する通り、一言でも半句でも云はない方が損になる。人の評判はこんな所から()がり、又こんな所から落ちると思ふと、筆を執るものゝ責任が恐ろしく」なる。これは漱石自身の感慨でもあるが、ペンの持つ力を改めて認識した三四郎。次は、母のペンによりしばし慰められる彼だった。


「酒はもう醒め」、「何だか詰まらなくつて不可(いけ)ない」。下宿の「机の前に坐つて、ぼんやりしてゐると、下女が」「封書を一通置いて行つた。又母の手紙である」。「又」とは、彼のもとに届く「手紙」はたいてい母からのものということ。「三四郎はすぐ封を切つた」。「今日は母の手蹟を見るのが甚だ嬉しい」からだ。故郷からの懐かしい手紙。人生の道筋に迷う自分に、帰る場所があるという安心感。


母の手紙には「妙な助言」があった。

「御前は小供の時から度胸がなくつて不可(いけ)ない。度胸の悪いのは大変な損で、試験の時なぞにはどの位困るか知れない」。それではどんなに「学問が出来て」も評価されない。「月給」も上がらない。「御前のはぶる/\顫へる程でもない様だから、平生から治薬(じやく)に度胸の(すわ)る薬を東京の医者に拵らへて貰つて飲んで見ろ。(なほ)らない事もなからう」。三四郎は、上京の折に出会った女や、自分からは美禰子に向かって進めないことを想起しただろう。

「東京の医者」であれば、何か特別に効く「度胸の(すわ)る薬」を「拵らへ」てくれるだろうと考える、田舎の母。「馬鹿々々しいと思」う半面、「馬鹿々々しいうちに大いなる慰藉を見出だした。母は本当に親切なものであると、つくづく感心した」。息子の自分の性格を見抜き、母なりに対策を提案してくれた。三四郎は、その恩に報いるため、「其晩一時頃迄かゝつて長い返事を母に()つた」。


「其なかには東京はあまり面白い所ではないと云ふ一句があつた」。今後の指針が得られず、女性との関係もうまく進まないため、やや自信喪失の気味。かつて上京の折に、「是から東京に行く。大学に這入る。有名な学者に接触する。趣味品性の具はつた学生と交際する。図書館で研究をする。著作をやる。世間が喝采する。母が嬉しがる」(1-5)と、青雲の志を抱いていた勢いはない。

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