夏目漱石「三四郎」本文と解説7-4 広田「此二十世紀になつてから妙なのが流行(はや)る。利他本位の内容を利己本位で充(み)たすと云ふ六づかしい遣口(やりくち)なんだが」
◇本文
其時広田さんは急にうんと云つて、何か思ひ出した様である。
「うん、まだある。此二十世紀になつてから妙なのが流行る。利他本位の内容を利己本位で充たすと云ふ六づかしい遣口なんだが、君そんな人に出逢つたですか」
「何んなのです」
「外の言葉で云ふと、偽善を行ふに露悪を以てする。まだ分からないだらうな。ちと説明し方が悪い様だ。――昔しの偽善家はね。何でも人に善く思はれたいが先に立つんでせう。所が其反対で、人の感触を害する為めに、わざ/\偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思はれない様に仕向けて行く。相手は無論厭な心持がする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善其儘で先方に通用させ様とする正直な所が露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語は飽迄も善に違ないから、――そら、二位一体といふ様な事になる。此方法を巧妙に用ひるものが近来大分殖えて来た様だ。極めて神経の鋭敏になつた文明人種が、尤も優美に露悪家にならうとすると、これが一番好い方法になる。血を出さなければ人が殺せないといふのは随分野蛮な話だからな君、段々流行らなくなる」
広田先生の話し方は、丁度案内者が古戦場を説明する様なもので、実際を遠くから眺めた地位に自らを置いてゐる。それで頗る楽天の趣がある。恰も教場で講義を聞くと一般の感を起させる。然し三四郎には応へた。念頭に美禰子といふ女があつて、此理論をすぐ適用出来るからである。三四郎は頭の中に此標準を置いて、美禰子の凡てを測つて見た。然し測り切れない所が大変ある。先生は口を閉ぢて、例の如く鼻から哲学の烟を吐き始めた。
所へ玄関に足音がした。案内も乞はずに廊下伝ひに這入つて来る。忽ち与次郎が書斎の入口に坐つて、
「原口さんが御出でになりました」と云ふ。只今帰りましたといふ挨拶を省いてゐる。わざと省いたのかも知れない。三四郎には存在な目礼をした許ですぐに出て行つた。
与次郎と敷居際で擦れ違つて、原口さんが這入つて来た。原口さんは仏蘭西式の髭を生やして、頭を五分刈にした、脂肪の多い男である。野々宮さんより年が二つ三つ上に見える。広田先生よりずつと奇麗な和服を着てゐる。
「やあ、暫く。今迄佐々木が宅へ来てゐてね。一所に飯を食つたり何かして――それから、とう/\引張り出されて、……」と大分楽天的な口調である。傍にゐると自然陽気になる様な声を出す。三四郎は原口と云ふ名前を聞いた時から、大方あの画工だらうと思つてゐた。夫れにしても与次郎は交際家だ。大抵な先輩とはみんな知合ひになつてゐるから豪いと感心して硬くなつた。三四郎は年長者の前へ出ると硬くなる。九州流の教育を受けた結果だと自分では解釈してゐる。
やがて主人が原口に紹介して呉れる。三四郎は丁寧に頭を下げた。向かふは軽く会釈した。三四郎はそれから黙つて二人の談話を承はつてゐた。
原口さんは先づ用談から片付けると云つて、近いうちに会をするから出て呉れと頼んでゐる。会員と名のつく程の立派なものは拵へない積だが、通知を出すものは、文学者とか芸術家とか、大学の教授とか、僅かな人数に限つて置くから差支はない。しかも大抵知り合ひの間だから、形式は全く不必要である。目的はたゞ大勢寄つて晩餐を食ふ。それから文芸上有益な談話を交換する。そんなものである。
広田先生は一口「出やう」と云つた。用事は夫で済んで仕舞つた。用事は夫れで済すんで仕舞つたが、それから後の原口さんと広田先生の会話が頗る面白かつた。 (青空文庫より)
◇解説
前話の「露悪家」の論理を承けた部分。前話で広田は次のように言っていた。
「偽善」とは、「形式丈は親切に適つてゐる。然し親切自身が目的でない場合」であり、「御役目に親切をして呉れる」ことが「不愉快」だ。
「万事正直に出られない様な我々時代の小六づかしい教育を受けたもの(偽善家)はみんな気障だ」。
今話で広田は、「二十世紀になつてから妙なのが流行る」とする。
・「利他本位の内容を利己本位で充たすと云ふ六づかしい遣口」=「偽善を行ふに露悪を以てする」=「人の感触を害する為めに、わざ/\偽善をやる」。
・「相手には偽善としか思はれない様に仕向けて行く。相手は無論厭な心持がする。そこで本人の目的は達せられる」。
・「偽善を偽善其儘で先方に通用させ様とする正直な所が露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語は飽迄も善に違ないから、――そら、二位一体といふ様な事になる。此方法を巧妙に用ひるものが近来大分殖えて来た様だ。極めて神経の鋭敏になつた文明人種が、尤も優美に露悪家にならうとすると、これが一番好い方法になる」。
広田の論理をまとめる。
「極めて神経の鋭敏になつた文明人種が、尤も優美に露悪家にならう」、露悪を行おうとする時には、「わざ/\偽善を」行い、「相手」を「厭な心持」にするという「方法」を取る。
相手が偽善だと分かるようにわざと偽善を行い、偽善と露悪が入れ子のような形になっている様子を、「二位一体」と言っている。露悪のために偽善を行い、偽善を行うことがやがて露悪となる。偽善を行うことにより、相手を嫌な気分にさせようとすることを、「優美」だと考える。
随分まわりくどく、粘着質な攻撃だ。
広田の論理が「三四郎には応へた」。「念頭に美禰子といふ女があつて、此理論をすぐ適用出来るからである」。
これまで自分に向けて行われていた美禰子の誘惑的行為は「偽善」であり、その裏には、それによって自分を不快にさせようという露悪家の心理が働いていると、三四郎は受け取っている。「然し」まだ「測り切れない所が大変ある」ようにも感じる。
このような時に登場し、場面を開放するのが、トリックスター的存在の佐々木だ。
「所へ玄関に足音がし」、「案内も乞はずに廊下伝ひに這入つて来」、「忽ち与次郎が書斎の入口に坐つて、「原口さんが御出でになりました」と云ふ。只今帰りましたといふ挨拶を省いてゐる。わざと省いたのかも知れない。三四郎には存在な目礼をした許ですぐに出て行つた」。
「与次郎と敷居際で擦れ違つて」入ってきたのは、原口だった。
〇原口の特徴
・仏蘭西式の髭を生やして、頭を五分刈にした、脂肪の多い男…画家だけあって、洋風だ。
・野々宮さんより年が二つ三つ上に見える…広田よりは若い
・広田先生よりずつと奇麗な和服を着てゐる…経済的余裕がある
・佐々木が宅へ来て、一所に飯を食つたり何かして…佐々木と懇意
・大分楽天的な口調。傍にゐると自然陽気になる様な声を出す。
・画工
「それから、とう/\引張り出されて、……」とは、佐々木が原口に依頼して「会」を開き、広田を「大学の教授」の目に触れさせようとしたもの。
「三四郎は年長者の前へ出ると硬くなる。九州流の教育を受けた結果だと自分では解釈してゐる」。「やがて主人が原口に紹介して呉れる。三四郎は丁寧に頭を下げた。」…地方出身者である三四郎の様子。
原口の依頼に広田は「一口「出やう」と云つた。用事は夫で済んで仕舞つた」…広田と原口の親密さ・信頼関係がうかがわれる。
「用事は夫れで済すんで仕舞つたが、それから後の原口さんと広田先生の会話が頗る面白かつた」…読者の興味をつなぐ上手な末文。