夏目漱石「三四郎」本文と解説7-3 広田「昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。里見といふ女も一種の露悪家で、野々宮の妹はまたあれなりに露悪家だから面白い」
◇本文
「御母さんの云ふ事は成るべく聞いて上げるが可い。近頃の青年は我々時代の青年と違つて自我の意識が強過ぎて不可い。吾々の書生をして居る頃には、する事為す事 一として他を離れた事はなかつた。凡てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であつた。それを一口にいふと教育を受けるものが悉く偽善家であつた。その偽善が社会の変化で、とう/\張り通せなくなつた結果、漸々(ぜんぜん)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過ぎて仕舞つた。昔しの偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。――君、露悪家といふ言葉を聞いた事がありますか」
「いゝえ」
「今僕が即席に作つた言葉だ。君も其露悪家の一人――だかどうだか、まあ多分さうだらう。与次郎の如きに至ると其最たるものだ。あの君の知つてる里見といふ女があるでせう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね。あれはまた、あれなりに露悪家だから面白い。昔しは殿様と親父丈が露悪家で済んでゐたが、今日では各自(めい/\)同等の権利で露悪家になりたがる。尤も悪い事でも何でもない。臭いものの蓋を除れば肥桶で、美事な形式を剥ぐと大抵は露悪になるのは知れ切つてゐる。形式丈美事だつて面倒な許だから、みんな節約して木地丈で用を足してゐる。甚だ痛快である。天醜爛漫としてゐる。所が此爛漫が度を越すと、露悪家同志が御互に不便を感じて来る。其不便が段々 高じて極端に達した時利他主義が又復活する。それが又形式に流れて腐敗すると又利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はさう云ふ風にして暮して行くものと思へば差支ない。さうして行くうちに進歩する。英国を見給へ。此両主義が昔からうまく平衡が取れてゐる。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチエも出ない。気の毒なものだ。自分丈は得意の様だが、傍から見れば堅くなつて、化石しかゝつてゐる。……」
三四郎は内心感心した様なものゝ、話が外れて飛んだ所へ曲つて、曲りなりに太くなつて行くので、少し驚ろいてゐた。すると広田さんも漸く気が付いた。
「一体何を話してゐたのかな」
「結婚の事です」
「結婚?」
「えゝ、私が母の云ふ事を聞いて……」
「うん、左(さう/\)。なるべく御母さんの言ふ事を聞かなければ不可い」と云つてにこ/\してゐる。丸で小供に対する様である。三四郎は別に腹も立たなかつた。
「我々が露悪家なのは、可いですが、先生時代の人が偽善家なのは、どういふ意味ですか」
「君、人から親切にされて愉快ですか」
「えゝ、まあ愉快です」
「屹度? 僕はさうでない、大変親切にされて不愉快な事がある」
「どんな場合ですか」
「形式丈は親切に適つてゐる。然し親切自身が目的でない場合」
「そんな場合があるでせうか」
「君、元日に御目出度うと云はれて、実際御目出たい気がしますか」
「そりや……」
「しないだらう。それと同じく腹を抱へて笑ふだの、転げかへつて笑ふだのと云ふ奴に、一人だつて実際笑つてやつはない。親切も其通り。御役目に親切をして呉れるのがある。僕が学校で教師をしてゐる様なものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たら定めて不愉快だらう。之に反して与次郎の如きは露悪党の領袖だけに、度々僕に迷惑を掛けて、始末に了へぬいたづらものだが、悪気がない。可愛らしい所がある。丁度亜米利加人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為程正直なものはなくつて、正直程厭味のないものは無いんだから、万事正直に出られない様な我々時代の小六づかしい教育を受けたものはみんな気障だ」
此所(こゝ)迄の理窟は三四郎にも分つてゐる。けれども三四郎に取つて、目下痛切な問題は、大体にわたつての理窟ではない。実際に交渉のある或る格段な相手が、正直か正直でないかを知りたいのである。三四郎は腹の中で美禰子の自分に対する素振をもう一遍考へて見た。所が気障か気障でないか殆んど判断が出来ない。三四郎は自分の感受性が人一倍鈍いのではなからうかと疑がひ出した。 (青空文庫より)
◇解説
今話は広田の有名な「露悪家」の論理が展開される。以下、その考えをまとめる。
・「近頃の青年は我々時代の青年と違つて自我の意識が強過ぎて不可い」。
・「吾々の書生をして居る頃には、する事為す事 一として他を離れた事はなかつた。凡てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であつた。それを一口にいふと教育を受けるものが悉く偽善家であつた」…「他本位」の行動は「偽善」である。
・「その偽善が社会の変化で、とう/\張り通せなくなつた結果、漸々(ぜんぜん)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過ぎて仕舞つた。昔しの偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある」
…「偽善」が困難になり「自己本位」・「我意識」が発達すると「露悪」となる。
・「露悪家」該当者…三四郎、与次郎(其最たるもの)、美禰子(一種の露悪家)、よし子(あれはまた、あれなりに露悪家だから面白い)。
昔…殿様と親父丈
今日…各自(めい/\)同等の権利で露悪家になりたがる
「尤も悪い事でも何でもない。臭いものの蓋を除れば肥桶で、美事な形式を剥ぐと大抵は露悪になるのは知れ切つてゐる。形式丈美事だつて面倒な許だから、みんな節約して木地丈で用を足してゐる。甚だ痛快である。天醜爛漫としてゐる」
…「偽善家」は、本来・内心は悪であるのに、表面は善を装っている。我々は、本当は「臭いもの」・「肥桶」であるのに、その表面は、「蓋」・「美事な形式」をまとっている。昔は「偽善」を偽装していたのだが、今はそれを解き、悪・「木地」をそのままさらけ出していることが「露悪」だ。本当の自分を飾らない様子は、「天真爛漫」とも言える。
・「所が此爛漫が度を越すと、露悪家同志が御互に不便を感じて来る。其不便が段々 高じて極端に達した時利他主義が又復活する。それが又形式に流れて腐敗すると又利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はさう云ふ風にして暮して行くものと思へば差支ない。さうして行くうちに進歩する。英国を見給へ。此両主義が昔からうまく平衡が取れてゐる。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチエも出ない。気の毒なものだ。自分丈は得意の様だが、傍から見れば堅くなつて、化石しかゝつてゐる。……」
…自我の過度な発動→「利他主義」の復活→「利己主義」に帰参→→→(際限ない)=「進歩」
・イギリスは利己主義と利他主義のバランスが取れているため、「進歩しない」
広田は、①「進歩」とは利己主義と利他主義の際限のない変遷・推移により可能となるものであり、②その二つのバランスがうまく取れすぎているイギリスはかえって進歩しないとする。われわれ読者には、①・②それぞれの説明と、①と②の関係性の説明が欲しいところだ。これは三四郎も同様だった。
「三四郎は内心感心した様なものゝ、話が外れて飛んだ所へ曲つて、曲りなりに太くなつて行くので、少し驚ろいてゐた。すると広田さんも漸く気が付いた。
「一体何を話してゐたのかな」
「結婚の事です」
「結婚?」
「えゝ、私が母の云ふ事を聞いて……」
「うん、左(さう/\)。なるべく御母さんの言ふ事を聞かなければ不可い」と云つてにこ/\してゐる。丸で小供に対する様である。三四郎は別に腹も立たなかつた」
…このあたりの広田の様子から、彼は自分の論理に酔っているようにも見える。それは決して詭弁を弄する類のものではないが、若い大学生である三四郎を前に、自分の自由な考え・思索の道筋を開陳している先生の姿だ。しかし、論理を論理で補完・展開するうちに、テーマは何かを見失ってしまった。三四郎の方も生徒として、先生の論をたどる。
・「偽善」とは、「形式丈は親切に適つてゐる。然し親切自身が目的でない場合」であり、「御役目に親切をして呉れる」ことだ。広田はそこに、「不愉快」を感じる。
たとえば「教師」の実際の「目的は衣食にあ」り、「生徒から見たら定めて不愉快だらう」。教師は、生徒への「親切」・教育が目的ではなく、金を稼ぐことが本来の目的だからだ。
・「与次郎の如きは露悪党の領袖」だが、「悪気がない。可愛らしい所がある」。「それ自身が目的である行為程正直なものはなくつて、正直程厭味のないものは無い」。
・「万事正直に出られない様な我々時代の小六づかしい教育を受けたもの(偽善家)はみんな気障だ」
「此所(こゝ)迄の理窟は三四郎にも分つてゐる。けれども三四郎に取つて、目下痛切な問題は、大体にわたつての理窟ではない。実際に交渉のある或る格段な相手(美禰子)が、正直か正直でないかを知りたいのである。三四郎は腹の中で美禰子の自分に対する素振をもう一遍考へて見た。所が気障か気障でないか殆んど判断が出来ない。三四郎は自分の感受性が人一倍鈍いのではなからうかと疑がひ出した」
…美禰子は「正直」に自分をアピールし、三四郎を誘惑し、また、詩を語る。彼女は、「謎の女」ではない。その「素振をもう一遍考へて見」ても、「気障か気障でないか殆んど判断が出来ない」のであれば、三四郎に彼女と恋愛をする資格はない。「三四郎は自分の感受性が人一倍鈍いのではなからうかと疑がひ出した」。今更の感がある。
まず、三四郎自身は美禰子をどう思っているのか。愛を抱いているのであれば、それをどう伝え成就させるのか。これらの主体性や能動性が、三四郎には無い。美禰子の自分に対する思いにばかり気を取られる。
美禰子にしてみれば、さまざまたくさん不足している未熟な男だ。自分が興味を示しても気づかない。
「感受性」の「鈍」さに、今ごろ気づく三四郎。そもそも彼は、自分が美禰子にふさわしい男であることを前提にしている。自身の不適格性に気づかない。高慢と言うべきだ。
男性としてというよりも、人として未熟な三四郎。知識も知恵もウイットも無い。「感受性」が「鈍い」だけでなく、自己評価もできない彼は、やはり美禰子の相手ではない。
地方出身の大学生は、当然、人生経験も知恵も浅い。三四郎が未熟なのは、そのことに気づかないことだ。彼は自分が美禰子と交際しても良い存在だと思っている。その資格を疑わない。
周回遅れの彼が、美禰子に追いつくことは不可能だ。一方、美禰子のゴールは近い。
○「露悪家」について
露悪家ばかりの世は住みにくい。本当の自分・欲望・エゴの露出による軋轢。町の至るところで散る火花。まさに「炎上」する世界。広田によると、「露悪」にも種類と程度が人それぞれあるようだ。