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夏目漱石「三四郎」本文と解説7-2 広田さんは髭の下から歯を出して笑つた。割合に奇麗な歯を持つてゐる。三四郎は其時急になつかしい心持がした。

◇本文

 三四郎が広田の家へ来るには色々な意味がある。一つは、此人(このひと)の生活其他が普通のものと変つてゐる。ことに自分の性情とは全く容れない様な所がある。そこで三四郎は()うしたらあゝなるだらうと云ふ好奇心から参考の為め研究に来る。次に此人の前へ出ると呑気(のんき)になる。世の中の競争があまり苦にならない。野々宮さんも広田先生と同じく世外の趣はあるが、世外の功名心の為めに、流俗の嗜慾(しよく)を遠ざけてゐるかの様に思はれる。だから野々宮さんを相手に二人限(ふたりぎり)で話してゐると、自分も早く一人前の仕事をして、学海に貢献しなくては済まない様な気が起る。焦慮(いらつい)(たま)らない。そこへ行くと広田先生は太平である。先生は高等学校でたゞ語学を教へる丈で、外に何の芸もない――と云つては失礼だが、外に何等の研究も公けにしない。しかも泰然と取り澄ましてゐる。其所(そこ)に、此呑気の源は伏在してゐるのだらうと思ふ。三四郎は近頃女に(とら)はれた。恋人に囚はれたのなら、(かへ)つて面白いが、惚れられてゐるんだか、馬鹿にされてゐるんだか、怖がつて()いんだか、(さげす)んで可いんだか、()すべきだか続けべきだか訳の分からない囚はれ方である。三四郎は忌々敷(いま/\しく)なつた。さう云ふ時は広田さんに限る。三十分程先生と相対してゐると心持が悠揚になる。女の一人や二人どうなつても構はないと思ふ。実を云ふと、三四郎が今夜出掛けて来たのは七分 (がた)此意味である。

 訪問理由の第三は大分矛盾してゐる。自分は美禰子に苦しんでゐる。美禰子の傍に野々宮さんを置くと(なお)苦しんで来る。その野々宮さんに尤も近いものは此先生である。だから先生の所へ来ると、野々宮さんと美禰子との関係が(おのづか)ら明瞭になつてくるだらうと思ふ。これが明瞭になりさへすれば、自分の態度も判然 ()める事が出来る。其癖二人の事を未だ(かつ)て先生に聞いた事がない。今夜は一つ聞いて見やうかしらと、心を動かした。

「野々宮さんは下宿なすつたさうですね」

「えゝ、下宿したさうです」

「家を持つたものが、又下宿をしたら不便だらうと思ひますが、野々宮さんは()く……」

「えゝ、そんな事には一向無頓着な(ほう)でね。あの服装を見ても分る。家庭的な人ぢやない。其代り学問にかけると非常に神経質だ」

「当分あゝ()つて御出での積りなんでせうか」

「分からない。又突然家を持つかも知れない」

「奥さんでも御貰(おもら)ひになる御考へはないんでせうか」

「あるかも知れない。()いのを周旋して()り玉へ」

 三四郎は苦笑ひをした。余計な事を云つたと思つた。すると広田さんが、

「君はどうです」と聞いた。

「私は……」

「まだ早いですね。今から細君を持つちやあ大変だ」

「国のものは勧めますが」

「国の誰が」

「母です」

「御母さんの云ふ通り持つ気になりますか」

「中々なりません」

 広田さんは髭の下から歯を出して笑つた。割合に奇麗な歯を持つてゐる。三四郎は其時急になつかしい心持がした。けれども其なつかしさは美禰子を離れてゐる。野々宮を離れてゐる。三四郎の眼前の利害には超絶したなつかしさであつた。三四郎は(これ)で、野々宮抔の事を聞くのが恥づかしい気がし出して、質問を()めて仕舞つた。すると広田先生が又話し出した。―― (青空文庫より)


◇解説

「三四郎が広田の家へ来るには色々な意味がある」。

①「此人(このひと)の生活其他が普通のものと変つてゐる。ことに自分の性情とは全く容れない様な所がある。そこで三四郎は()うしたらあゝなるだらうと云ふ好奇心から参考の為め研究に来る」

②「此人の前へ出ると呑気(のんき)になる。世の中の競争があまり苦にならない」。「広田先生は太平である。先生は高等学校でたゞ語学を教へる丈で、外に何の芸もない――と云つては失礼だが、外に何等の研究も公けにしない。しかも泰然と取り澄ましてゐる。其所(そこ)に、此呑気の源は伏在してゐるのだらうと思ふ」。「三十分程先生と相対してゐると心持が悠揚になる。女の一人(美禰子)や二人(よし子)どうなつても構はないと思ふ。実を云ふと、三四郎が今夜出掛けて来たのは七分 (がた)此意味である」…美禰子の引力を逃れるための広田訪問だった。


「三四郎は近頃女に(とら)はれた。恋人に囚はれたのなら、(かへ)つて面白いが、惚れられてゐるんだか、馬鹿にされてゐるんだか、怖がつて()いんだか、(さげす)んで可いんだか、()すべきだか続けべきだか訳の分からない囚はれ方である。三四郎は忌々敷(いま/\しく)なつた」

…三四郎を美禰子側から見ると、気が利かず、知識も乏しく、会話が続かない、意思表示をはっきりとしない、優柔不断な若者だ。これまでのふたりのやり取りからは、むしろ美禰子の方が我慢強く彼に接している。詩の世界の趣を教えてあげようとさえしている。それにうまく乗ることができずに滑り落ちてしまうのは三四郎の方だ。

美禰子は好意を示している。それにうまく反応できないダサさ。東京の大学に出してあげられる田舎の小金持ちの純朴な息子と、都会の詩的なお嬢様とでは、はなからうまくいかないのは目に見えていた。住む世界が違うのだ。

そう考えると、美禰子はなぜ三四郎に興味を持ったのだろうとも思う。「九州色」をした地方出の若い男に、これまで経験したことのない新鮮さを感じていたこともあるだろう。ちょっとちょっかいを出してやろうという思い。カマをかけてやれという遊び心。

ただ、彼女の接し方は、遊び女のそれではなく、意外に誠実さを感じる。その期待に応えられないのは三四郎だった。「三四郎は忌々敷(いま/\しく)なつた」と感じているようだが、手ごたえのなさを感じてイライラしているのは、むしろ美禰子の方だ。

生まれ育った環境の違い、人としての成熟度の違いが、ふたりには決定的にある。その溝を埋めるのは、なかなか容易ではない。そうしてそれは最後までかなわなかった。


③「(②とは)大分矛盾してゐる。自分は美禰子に苦しんでゐる。美禰子の傍に野々宮さんを置くと(なお)苦しんで来る。その野々宮さんに尤も近いものは此先生である。だから先生の所へ来ると、野々宮さんと美禰子との関係が(おのづか)ら明瞭になつてくるだらうと思ふ。これが明瞭になりさへすれば、自分の態度も判然 ()める事が出来る。其癖二人の事を未だ(かつ)て先生に聞いた事がない。今夜は一つ聞いて見やうかしらと、心を動かした」…美禰子への心の迷いを解くための広田訪問。


「野々宮さんは下宿なすつたさうですね」

「えゝ、下宿したさうです」

「家を持つたものが、又下宿をしたら不便だらうと思ひますが、野々宮さんは()く……」

…三四郎の主意は、宗八と美禰子の関係について知りたいというものであり、宗八が一度持った家を手放すことは不便ではないかということへの心配ではない。彼の憂慮は宗八と美禰子の関係がより深まることだ。三四郎は宗八の心配など全くしていないため、この言葉は実意のない空虚なものだ。


「えゝ、そんな事には一向無頓着な(ほう)でね。あの服装を見ても分る。家庭的な人ぢやない。其代り学問にかけると非常に神経質だ」

…心配には及ばないことをわざわざ自分のもとを訪れて尋ねる三四郎に対し、広田は不審に思い、またそんなことを宗八は全くこだわっていないという思いの発言。

なお「家庭的な人ぢやない」という発言は、宗八と美禰子の将来を占うようだ。家庭を顧みず研究に没頭する宗八。詩的な美禰子が彼との未来を描くことは無いだろう。菊人形見物で美禰子は、菊の科学的な解説ばかりする宗八を見捨てて、ひとり会場を後にした。


「当分あゝ()つて御出での積りなんでせうか」

「分からない。又突然家を持つかも知れない」

…なぜこのようなことにこだわって自分に尋ねるのだろうと、広田は思っている。


「奥さんでも御貰(おもら)ひになる御考へはないんでせうか」

「あるかも知れない。()いのを周旋して()り玉へ」

…それは三四郎が心配するようなことでもないし、わざわざ広田の家を訪ねて尋ねる内容でもない。三四郎の出過ぎた質問に、揶揄で返した広田。三四郎に、人の奥さんを周旋する能力も資格も無い。三四郎はまだ自分の「奥さん」さえ確保できていない。あえてこのように言うことで、「君、ちょっと言いすぎだよ」と軽く叱ったのだ。それに気づいた「三四郎は苦笑ひをし」、「余計な事を云つたと思つた」。


三四郎の反省の表情を見て、広田は、「君はどうです」と尋ねる。「人の色恋の心配よりも、お前はどうなの?」ということ。


「まだ早いですね。今から細君を持つちやあ大変だ」

「御母さんの云ふ通り持つ気になりますか」

…まだ若い学生である自分が、故郷の母の言に従って細君を持つ気には、「中々なりません」。


「広田さんは髭の下から歯を出して笑つた。割合に奇麗な歯を持つてゐる」

…広田がこのように歯を出して笑うことは少なく、また、ヘビースモーカーなので、「奇麗な歯」が目に留まったのだ。


「三四郎は其時急になつかしい心持がした」

…この「なつかしい心持」が何に由来するどのような気持ちなのかの説明が無いので、よくわからない。「奇麗な歯」や、「歯を出して笑」うことが懐かしく感じさせる場面は、広田に限らずこれまで登場していない。

前に出てくる「奇麗な歯」は、美禰子のものだった。よし子に届け物を持って行った時に廊下で会った彼女が、「白い」「奇麗な歯」を見せる場面がある。(3-14) しかし今の場面での「なつかしい心持」は、美禰子を想起してのものではない。彼女を想起したのであれば、「なつかし」さどころか、強い心臓の鼓動を感じただろう。

広田への懐かしみは、彼を「広田さん」と「さん」付けにする。


「けれども其なつかしさは美禰子(への愛・執着)を離れてゐる。野々宮(への危惧)を離れてゐる。三四郎の眼前の利害(美禰子と宗八の関係)には超絶したなつかしさであつた。三四郎は(これ)で、野々宮 (など)の事を聞くのが恥づかしい気がし出して、質問を()めて仕舞つた」

…「なつかしさ」は、美禰子の愛の執着を解き、野々宮へのこだわりを忘れさせる。美禰子本人に気持ちを伝えず、また本人に気持ちを尋ねられず、野々宮の動きを警戒し、それらすべての情報を広田から得ようとする狡猾な自分に気づき羞恥する三四郎。


「すると広田先生が又話し出した。――」

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