夏目漱石「三四郎」本文と解説7-1 広田「佐々木は用事が出来る男ぢやない。用事を拵(こしらへ)る男でね。あゝ云ふ馬鹿は少ない」
◇本文
裏から回つて婆さんに聞くと、婆さんが小さな声で、与次郎さんは昨日から御帰りなさらないと云ふ。三四郎は勝手口に立つて考へた。婆さんは気を利かして、まあ御這入りなさい。先生は書斎に御出ですからと云ひながら、手を休めずに、膳椀を洗つてゐる。今 晩食が済んだ許の所らしい。
三四郎は茶の間を通り抜けて、廊下伝ひに書斎の入口迄来た。戸が開いてゐる。中から「おい」と人を呼ぶ声がする。三四郎は敷居のうちへ這入つた。先生は机に向つてゐる。机の上には何があるか分からない。高い脊が研究を隠してゐる。三四郎は入口に近く坐つて、
「御勉強ですか」と丁寧に聞いた。先生は顔丈後ろへ捩ぢ向けた。髭の影が不明瞭にもぢや/\してゐる。写真版で見た誰かの肖像に似てゐる。
「やあ、与次郎かと思つたら、君ですか、失敬した」と云つて、席を立つた。机の上には筆と紙がある。先生は何か書いてゐた。与次郎の話に、うちの先生は時々何か書いてゐる。然し何を書いてゐるんだか、他の者が読んでも些とも分からない。生きてゐるうちに、大著述にでも纏められゝば結構だが、あれで死んで仕舞つちやあ、反古が積る許だ。実に詰らない。と嘆息してゐた事がある。三四郎は広田の机の上を見て、すぐ与次郎の話を思ひ出した。
「御邪魔なら帰ります。別段の用事でもありません」
「いや、帰つてもらふ程邪魔でもありません。此方の用事も別段の事でもないんだから。さう急に片付ける性質のものを遣つてゐたんぢやない」
三四郎は一寸挨拶が出来なかつた。然し腹のうちでは、此人の様な気分になれたら、勉強も楽に出来て好からうと思つた。しばらくしてから、斯う云つた。
「実は佐々木君の所へ来たんですが、居なかつたものですから……」
「あゝ。与次郎は何でも昨夜から帰らない様だ。時々漂泊して困る」
「何か急に用事でも出来たんですか」
「用事は決して出来る男ぢやない。たゞ用事を拵る男でね。あゝ云ふ馬鹿は少ない」
三四郎は仕方がないから、
「中々気楽ですな」と云つた。
「気楽なら好いけれども。与次郎のは気楽なのぢやない。気が移るので――例へば田の中を流れてゐる小川の様なものと思つてゐれば間違はない。浅くて狭い。しかし水丈は始終変つてゐる。だから、する事が、ちつとも締りがない。縁日へひやかしになど行くと、急に思ひ出した様に、先生松を一鉢御買ひなさいなんて妙な事を云ふ。さうして買ふとも何とも云はないうちに値切つて買つて仕舞ふ。其代り縁日ものを買ふ事なんぞは上手でね。あいつに買はせると大変安く買へる。さうかと思ふと、夏になつてみんなが家を留守にするときなんか、松を座敷へ入れたまんま雨戸を閉てて錠を卸して仕舞ふ。帰つて見ると、松が温気で蒸れて真赤になつてゐる。万事さう云ふ風で洵に困る」
実を云ふと三四郎は此間与次郎に弐十円借した。二週間後には文芸時評社から原稿料が取れる筈だから、それ迄立替てくれろと云ふ。事理を聞いて見ると、気の毒であつたから、国から送つて来た許の為替を五円引いて、余りは悉く借して仕舞つた。まだ返す期限ではないが、広田の話を聞いて見ると少々心配になる。しかし先生にそんな事は打ち明けられないから、反対に、
「でも佐々木君は、大いに先生に敬服して、蔭では先生の為に中々尽力してゐます」と云ふと、先生は真面目になつて、
「どんな尽力をしてゐるんですか」と聞き出した。所が「偉大なる暗闇」其他凡て広田先生に関する与次郎の所為は、先生に話してはならないと、当人から封じられてゐる。やり掛けた途中でそんな事が知れると先生に叱られるに極つてるから黙つて居るべきだといふ。話して可い時には己が話すと明言してゐるんだから仕方がない。三四郎は話を外らして仕舞つた。 (青空文庫より)
◇解説
上京の折に広田から掛けられた「囚われちゃだめだ」と同じ言葉を学生からも偶然に掛けられた三四郎が、そのこともあって広田宅を訪れた場面。初めは、広田宅の「婆さん」(下女)との会話。
「裏から回つて婆さんに聞くと、婆さんが小さな声で、与次郎さんは昨日から御帰りなさらないと云ふ。三四郎は勝手口に立つて考へた。婆さんは気を利かして、まあ御這入りなさい。先生は書斎に御出ですからと云ひながら、手を休めずに、膳椀を洗つてゐる。今 晩食が済んだ許の所らしい」
…下女部屋か廊下に、勝手口がある。三四郎は往来から家の右外を回ってそこまでたどり着いた。
「三四郎は茶の間を通り抜けて、廊下伝ひに書斎の入口迄来た。戸が開いてゐる。中から「おい」と人を呼ぶ声がする」
…すぐ後にあるように、広田は三四郎を佐々木と間違えた。これは、三四郎の動線にもよる。
なおこの説明によると、座敷が書斎となっている。
「三四郎は敷居のうちへ這入つた。先生は机に向つてゐる。机の上には何があるか分からない。高い脊が研究を隠してゐる」
…野々宮も広田も、「三四郎」に登場する「学問の世界」の人は背が高い。
「先生は何か書いてゐた。与次郎の話に、うちの先生は時々何か書いてゐる。然し何を書いてゐるんだか、他の者が読んでも些とも分からない。生きてゐるうちに、大著述にでも纏められゝば結構だが、あれで死んで仕舞つちやあ、反古が積る許だ。実に詰らない。と嘆息してゐた事がある」
…佐々木は、本人がいない所では広田を辛辣に批評する。
「いや、帰つてもらふ程邪魔でもありません。此方の用事も別段の事でもないんだから。さう急に片付ける性質のものを遣つてゐたんぢやない」
…「此人の様な気分になれたら、勉強も楽に出来て好からう」と思う三四郎。学問との付き合い方の良い例を、広田は三四郎に示している。同じ学問の世界にいる宗八とは違う研究の仕方だ。
広田の佐々木評が面白い。「用事は決して出来る男ぢやない。たゞ用事を拵る男でね。あゝ云ふ馬鹿は少ない」とは言い得て妙だ。
友人への鋭い批評に「三四郎は仕方がないから、「中々気楽ですな」と云つた」。
広田の批評は続く。「与次郎のは気楽なのぢや」なくて、「気が移る」のだ。次の「田の中を流れてゐる小川」の喩えが分かりやすい。「浅くて狭い。しかし水丈は始終変つてゐる。だから、する事が、ちつとも締りがない」。綿密さや計画性が苦手な佐々木。
ところで、三四郎の名字は「小川」であり、彼も佐々木と同様、浅く狭く締まりがないことを暗示している。
これまでの広田の説明に、三四郎はドキッとする。「実を云ふと三四郎は此間与次郎に弐十円借した」からだ。単純に当時の1円を現在の1万円に換算すると、友人に20万円も貸してしまったことになる。「二週間後には文芸時評社から原稿料が取れる筈だから、それ迄立替てくれろと云ふ」。佐々木の「筈」は信用ならないと広田から言われたことになり、「事理を聞いて見ると、気の毒であつたから」という、あの時掛けた情けは無用だった。冷静に考えると、佐々木の原稿がそれほどの金額になるはずもない。しかもその金は、「国から送つて来た許の為替」から支出したことから、もし返してもらえなければ、毎月高い仕送りをしてくれている親にも申し訳が立たない。「五円引いて、余りは悉く借して仕舞つた」あさはかさ。「まだ返す期限ではないが、広田の話を聞いて見ると少々心配になる」。
三四郎は、自分の生活費をよそに、友人を援助しようとした。
「でも佐々木君は、大いに先生に敬服して、蔭では先生の為に中々尽力してゐます」。佐々木が「用事を拵」、「気が移る」のは、広田のためを思うゆえだと言う三四郎。
佐々木を信用しない「先生は真面目になつて、「どんな尽力をしてゐるんですか」と聞き出した」。口が滑ったことに気づき、三四郎はなんとかうまく「話を外らして仕舞つた」。
広田を東大教授に就けるという野望はまだ途上にある。その計画が今本人に漏れるわけにはいかぬ。だからぎりぎりセーフだった。
しかしこれは後で騒動となる。