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夏目漱石「三四郎」本文と解説6-13 美禰子「宗八さんの様な方は、我々の考ぢや分かりませんよ。ずつと高い所に居て、大きな事を考へて居らつしやるんだから」

◇本文

 三四郎は其時始めて美禰子から野々宮の御母さんが国へ帰つたと云ふ事を聞いた。御母さんが帰ると同時に、大久保を引払つて、野々宮さんは下宿をする、よし子は当分美禰子の(うち)から学校へ通ふ事に、相談が極つたんださうである。

 三四郎は寧ろ野々宮さんの気楽なのに驚ろいた。さう容易(たやす)く下宿生活に戻る位なら、始めから家を持たない方が()からう。第一鍋、釜、手桶抔といふ世帯道具の始末はどう付けたらうと余計な事迄考へたが、口に出して云ふ程の事でもないから、別段の批評は加へなかつた。其上、野々宮さんが一家の主人(あるじ)から、後戻りをして、再び純書生と同様な生活状態に復するのは、取りも直さず家族制度から一歩遠退いたと同じ事で、自分に取つては、目前の疑惑を少し長距離へ引き移した様な好都合にもなる。其代りよし子が美禰子の家へ同居して仕舞つた。此兄妹は絶えず往来してゐないと(おさ)まらない様に出来上がつてゐる。絶えず往来してゐるうちには野々宮さんと美禰子との関係も次第次第に移つて来る。すると野々宮さんが又いつ何時下宿生活を永久に()める時機が来ないとも限らない。

 三四郎は頭の中に、かう云ふ疑ひある未来を、描きながら、美禰子と応対をしてゐる。一向に気が乗らない。それを外部の態度丈でも普通の如く繕ふとすると苦痛になつて来る。其所(そこ)へ旨い具合によし子が帰つて来て呉れた。女同志の間には、もう一遍競技を見に行かうかと云ふ相談があつたが、短くなりかけた秋の日が大分回つたのと、回るに連れて、広い戸外の肌寒(はださむ)が漸く増してくるので、帰る事に話が極まる。

 三四郎も女 (れん)に別れて下宿へ戻らうと思つたが、三人が話しながら、ずる/\べつたりに歩き出したものだから、際立つて、挨拶をする機会がない。二人は自分を引張つて行く様に見える。自分も(また)引張られて行きたい様な気がする。それで二人に食つ付いて池の(はた)を図書館の横から、方角違ひの赤門の方へ向いて来た。其時三四郎は、よし子に向つて、

「御兄さんは下宿をなすつたさうですね」と聞いたら、よし子は、すぐ、

「えゝ。とう/\。(ひと)を美禰子さんの所へ押し付けて置いて。(ひど)いでせう」と同意を求める様に云つた。三四郎は何か返事をしやうとした。其前に美禰子が口を開いた。

「宗八さんの様な方は、我々の考ぢや分かりませんよ。ずつと高い所に居て、大きな事を考へて居らつしやるんだから」と大いに野々宮さんを()め出した。よし子は黙つて聞いてゐる。

 学問をする人が煩瑣(うるさい)(ぞく)用を避けて、成るべく単純な生活に我慢するのは、みんな研究の為め(やむ)を得ないんだから仕方がない。野々宮の様な外国に迄聞える程の仕事をする人が、普通の学生同様な下宿に這入つてゐるのも必竟(ひっきょう)野々宮が偉いからの事で、下宿が汚ければ汚い程尊敬しなくつてはならない。――美禰子の野々宮に対する讃辞のつゞきは、ざつと()うである。

 三四郎は赤門の所で二人に別れた。追分の方へ足を向けながら考へ出した。――成程美禰子の云つた通である。自分と野々宮を比較して見ると大分段が違ふ。自分は田舎から出て大学へ這入つた許りである。学問といふ学問もなければ、見識と云ふ見識もない。自分が、野々宮に対する程な尊敬を美禰子から受け得ないのは当然である。さう云へば何だか、あの女から馬鹿にされてゐる様でもある。先刻(さつき)、運動会はつまらないから、此所(こゝ)にゐると、丘の上で答へた時に、美禰子は真面目な顔をして、此上(このうへ)には何か面白いものがありますかと聞いた。あの時は気が付かなかつたが、今解釈して見ると、故意に自分を愚弄した言葉かも知れない。――三四郎は気が付いて、今日迄美禰子の自分に対する態度や言語を一々繰り返して見ると、どれも是もみんな悪い意味が付けられる。三四郎は往来の真中で真赤になつて俯向(うつむ)いた。不図(ふと)、顔を上げると向ふから、与次郎と昨夕の会で演説をした学生が並んで来た。与次郎は首を竪に振つたぎり黙つてゐる。学生は帽子を()つて礼をしながら、

「昨夜は。()うですか。(とら)はれちや不可(いけ)ませんよ」と笑つて行き過ぎた。

(青空文庫より)


◇解説

前話で突然美禰子から、「帰らうつたつて帰れないわ。よし子さんは、昨日から私の家にゐるんですもの」と言われ、三四郎が驚いた場面。

さらに「三四郎は其時始めて美禰子から野々宮の御母さんが国へ帰つたと云ふ事を聞いた」。

野々宮の母の帰省

→大久保を引払う

→宗八は下宿

→よし子は当分美禰子の(うち)から学校へ通ふ

これらのことを三四郎は全く知らなかった。


三四郎はまず、「寧ろ野々宮さんの気楽なのに驚ろ」く。「さう容易(たやす)く下宿生活に戻る位なら、始めから家を持たない方が()からう。第一鍋、釜、手桶抔といふ世帯道具の始末はどう付けたらう」。これらは彼自身が思うとおり「余計な」お世話だし、そんなことを考えても三四郎には何の得にもならない。

「口に出して云ふ程の事でもないから、別段の批評は加へなかつた」とあるが、むしろ言わないで正解だった。


「野々宮さんが一家の主人(あるじ)から、後戻りをして、再び純書生と同様な生活状態に復するのは、取りも直さず家族制度から一歩遠退いたと同じ事で、自分に取つては、目前の疑惑を少し長距離へ引き移した様な好都合にもなる」

…家があればそこに一緒に住めば良く、結婚しやすくなると三四郎は考える。家がなくなれば、その心配は遠のく。


「其代りよし子が美禰子の家へ同居して仕舞つた。此兄妹は絶えず往来してゐないと(おさ)まらない様に出来上がつてゐる。絶えず往来してゐるうちには野々宮さんと美禰子との関係も次第次第に移つて来る。すると野々宮さんが又いつ何時下宿生活を永久に()める時機が来ないとも限らない」

…これが三四郎の一番心配していることだ。美禰子の家に妹が同居すれば、美禰子と宗八の関係がより近くなり深まるいう危惧。


「三四郎も女 (れん)に別れて下宿へ戻らうと思つたが、三人が話しながら、ずる/\べつたりに歩き出したものだから、際立つて、挨拶をする機会がない。二人は自分を引張つて行く様に見える」

…これは、三四郎の勝手な希望的観測だ。それほど害のある男でもないので、女性二人は彼がいてもいなくてもいいと思っている。三四郎はうやむやな形で勝手に一緒について歩いているだけ。だから、「自分も(また)引張られて行きたい様な気がする」というのが本音であり本当のところだ。


三四郎「(思い切って)御兄さんは下宿をなすつたさうですね」

よし子「(同意を求める様に)えゝ。とう/\。(ひと)を美禰子さんの所へ押し付けて置いて。(ひど)いでせう」…ブラコン全開

三四郎「(何か返事をしやうとする)」…とっさに言葉が浮かばない人

美禰子「(三四郎が話し出す前に)宗八さんの様な方は、我々の考ぢや分かりませんよ。ずつと高い所に居て、大きな事を考へて居らつしやるんだから」

三四郎「(ずいぶん野々宮さんを()め出したなぁ)」

よし子、黙つて聞いてゐる。

美禰子「学問をする人が煩瑣(うるさい)(ぞく)用を避けて、成るべく単純な生活に我慢するのは、みんな研究の為め(やむ)を得ないんだから仕方がない。宗八さんの様な外国に迄聞える程の仕事をする人が、普通の学生同様な下宿に這入つてゐるのも必竟(ひっきょう)宗八さんが偉いからの事で、下宿が汚ければ汚い程尊敬しなくつてはならない」…美禰子には珍しい長ゼリフ。美禰子が宗八をどのように認めているかが分かる内容だ。よし子に対しては、兄という立場から離れた宗八の良さを、三四郎に対しては、学問の世界で立派な功績を残し世界からも認められている宗八の価値を、それぞれ説く内容になっている。

「美禰子の野々宮に対する讃辞」に対し、三四郎はやはり何も言えずに「赤門の所で二人に別れた」。


下宿のある「追分の方へ足を向けながら考へ出した。成程美禰子の云つた通である」。

・「自分と野々宮を比較して見ると大分段が違ふ。自分は田舎から出て大学へ這入つた許り」であり、「学問といふ学問もなければ、見識と云ふ見識もない」。そんな「自分が、野々宮に対する程な尊敬を美禰子から受け得ないのは当然」だ。

・「何だか、あの女から馬鹿にされてゐる様でもある」。「真面目な顔」の美禰子から、「此上(このうへ)には何か面白いものがありますかと」聞かれたが、「今解釈して見ると、故意に自分を愚弄した言葉かも知れない」。三四郎、赤面。


不図(ふと)、顔を上げると向ふから、与次郎と昨夕の会で演説をした学生が並んで来た」。「学生は帽子を()つて礼をしながら、「昨夜は。()うですか。(とら)はれちや不可(いけ)ませんよ」と笑つて行き過ぎた」

…他人にも心情が把握され警句を述べられてしまう三四郎。確かにこの時の三四郎は、美禰子・女性で頭がいっぱいだ。

(とら)はれちや不可(いけ)ません」という懐かしい言葉。三四郎は、上京する汽車での出来事を思い出す。


「「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」で一寸と切つたが、三四郎の顔を見ると耳を傾けてゐる。

「日本より頭の中の方が広いでせう」と云つた。「囚はれちや駄目だ。いくら日本の為めを思つたつて贔負(ひいき)の引き倒しになる許りだ」

 此言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出た様な心持ちがした。同時に熊本に居た時の自分は非常に卑怯であつたと悟つた」(1-8)


「日本」を「美禰子・女性」に置き換えると面白い。

「(そんなに女性に)囚はれちや駄目だ。いくら(女性)を思つたつて贔負(ひいき)の引き倒しになる許りだ」

この時の三四郎は、「第三の世界」(4-8)にいる女性に、すっかり心を奪われている。彼は再び、「卑怯であつた」と自戒する。美禰子への執心に自ら気づき、その顔はさらに「真赤」になっただろう。



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