夏目漱石「三四郎」本文と解説6-12 三四郎「よし子さんは兄さんと一所に帰らないんですか」 美禰子「一所に帰らうつたつて帰れないわ。よし子さんは、昨日から私の家にゐるんですもの」 三四郎「(!!)」
◇本文
よし子は、素直に気の軽い女だから、仕舞にすぐ帰つて来ますと云ひ捨てゝ、早足に一人丘を下りて行つた。止める程の必要もなし、一所に行く程の事件でもないから、二人は自然後に遺る訳になつた。二人の消極な態度から云へば、遺るといふより、遺されたかたちにもなる。
三四郎は又石に腰を掛けた。女は立つてゐる。秋の日は鏡の様に濁つた池の上に落ちた。中に小さな島がある。島にはたゞ二本の樹が生えてゐる。青い松と薄い紅葉が具合よく枝を交はし合つて、箱庭の趣がある。島を越して向側の突き当りが蓊鬱とどす黒く光つてゐる。女は丘の上から其暗い木蔭を指した。
「あの木を知つて入らしつて」といふ。
「あれは椎」
女は笑ひ出した。
「能く覚えて入らつしやる事」
「あの時の看護婦ですか、あなたが今訪ねやうと云つたのは」
「えゝ」
「よし子さんの看護婦とは違ふんですか」
「違ひます。是れは椎――といつた看護婦です」
今度は三四郎が笑ひ出した。
「彼所ですね。あなたがあの看護婦と一所に団扇を持つて立つてゐたのは」
二人のゐる所は高く池の中に突き出してゐる。此丘とは丸で縁のない小山が一段低く、右側を走つてゐる。大きな松と、御殿の一角と、運動会の幕の一部と、なだらな芝生が見える。
「熱い日でしたね。病院があんまり暑いものだから、とう/\ 堪へ切れないで出て来たの。――あなたは又何であんな所に跼んで入らしつたの」
「熱いからです。あの日は始めて野々宮さんに逢つて、それから、彼所へ来てぼんやりして居たのです。何だか心細くなつて」
「野々宮さんに御逢ひになつてから、心細く御成りになつたの」
「いゝえ、左う云ふ訳ぢやない」と云ひ掛けて、美禰子の顔を見たが、急に話頭を転じた。
「野々宮さんと云へば、今日は大変働らいてゐますね」
「えゝ、珍らしくフロツクコートを御着になつて――随分御迷惑でせう。朝から晩迄ですから」
「だつて大分得意の様ぢやありませんか」
「誰が。野々宮さんが。――あなたも随分ね」
「何故ですか」
「だつて、真逆運動会の計測掛になつて得意になる様な方でもないでせう」
三四郎は又話頭を転じた。
「先刻あなたの所へ来て何か話してゐましたね」
「会場で?」
「えゝ、運動場の柵の所で」と云つたが、三四郎は此問を急に撤回したくなつた。女は「えゝ」と云つた儘男の顔を凝と見てゐる。少し下唇を反らして笑ひ掛けてゐる。三四郎は堪らなくなつた。何か云つて紛らかさうとした時に、女は口を開いた。
「あなたは未だ此間の絵端書の返事を下さらないのね」
三四郎は迷付ながら「上げます」と答へた。女は呉れとも何とも云はない。
「あなた、原口さんといふ画工を御存じ?」と聞き直した。
「知りません」
「さう」
「何うかしましたか」
「なに、その原口さんが、今日見に来て入らしつてね。みんなを写生してゐるから、私達も用心しないと、ポンチに画ゝれるからつて、野々宮さんがわざ/\注意して下すつたんです」
美禰子は傍へ来て腰を掛けた。三四郎は自分が如何にも愚物の様な気がした。
「よし子さんは兄さんと一所に帰らないんですか」
「一所に帰らうつたつて帰れないわ。よし子さんは、昨日から私の家にゐるんですもの」
(青空文庫より)
◇解説
運動会を途中で抜け出した三四郎は、美禰子とよし子と出会う。「よし子が病院の看護婦の所へ、序だから、一寸礼に行つてくるんだと云ふ」ことだった。あとに残された三四郎と美禰子。
「よし子は、素直に気の軽い女だから、仕舞にすぐ帰つて来ますと云ひ捨てゝ、早足に一人丘を下りて行つた」
…素直なよし子が丘を降りていく後ろ姿が見えるようだ。
「止める程の必要もなし、一所に行く程の事件でもないから、二人は自然後に遺る訳になつた。二人の消極な態度から云へば、遺るといふより、遺されたかたちにもなる」
…なにげなくも簡潔明瞭な表現に感心する。一人走っていく「子ども」。自然あとに残された、わだかまりを胸に抱く二人。
「三四郎は又石に腰を掛けた」
…この石は、三四郎を慰める心の居場所になっている。
「女は立つてゐる」
…相手の「腰を掛け」るという動作に対する立ったままという動作は、心理的距離を表す。
「秋の日は鏡の様に濁つた池の上に落ちた」
…心が「濁」っているにもかかわらず「鏡の様」に美しい美禰子。
「中に小さな島がある。島にはたゞ二本の樹が生えてゐる。青い松と薄い紅葉が具合よく枝を交はし合つて、箱庭の趣がある」
…「二本の樹」は、美禰子と将来の夫。彼女と彼はやがて「具合よく枝を交はし合つて、箱庭の趣」を醸し出すのだろうか。
美禰子「(暗い木蔭を指し)あの木を知つて入らしつて」
三四郎「あれは椎」
美禰子「(笑ひ出し) 能く覚えて入らつしやる事」
三四郎「あの時の看護婦ですか、あなたが今訪ねやうと云つたのは」
美禰子「えゝ」
三四郎「よし子さんの看護婦とは違ふんですか」
美禰子「違ひます。是れは椎――といつた看護婦です」
三四郎「(笑ひ出し) 彼所ですね。あなたがあの看護婦と一所に団扇を持つて立つてゐたのは」
三四郎は、遠くに見える木を指していったので、「あれは椎」となったが、正確には美禰子の言う通り「是れは椎」だった。
「「是は椎」と看護婦が云つた。丸で子供に物を教へる様であつた」(2-4)
だから、美禰子は当時のことを、よく覚えていたことになる。それでわざわざ彼女は言い直した。
これに対し三四郎も、「あなたがあの看護婦と一所に団扇を持つて立つてゐた」ことは自分もよく覚えていますと示した。
ところで、ふたりのやり取りが、遠く、もう終わってしまったことを懐かしむように述べ合っているのが気になる。変化の後の会話。ふたりの恋は既に終了してしまったかのようだ。
「熱い日でしたね。病院があんまり暑いものだから、とう/\ 堪へ切れないで出て来たの。――あなたは又何であんな所に跼んで入らしつたの」
…これはその時に聞けなかった問。
「「熱いからです。あの日は始めて野々宮さんに逢つて、それから、彼所へ来てぼんやりして居たのです。何だか心細くなつて」
…このことについて、当時を振り返りたい。引用の本文はすべて2-1より。
「三四郎は全く驚ろいた。要するに普通の田舎者が始めて都の真中に立つて驚ろくと同じ程度に、又同じ性質に於て大いに驚ろいて仕舞つた。今迄の学問は此驚ろきを預防する上に於て、売薬程の効能もなかつた。三四郎の自信は此驚ろきと共に四割方 減却した。不愉快でたまらない」
九州にいたころは、エリートとしての自負とプライドを持っていた三四郎だったが、しょせん彼も「普通の田舎者」に過ぎず、「始めて都の真中に立つて」「大いに驚ろいて仕舞つた」。「今迄の学問は此驚ろきを預防する上に於て、売薬程の効能もなかつた」ことに気づき、「三四郎の自信は此驚ろきと共に四割方 減却した」。そうして、「不愉快」だけが後に残る。「不愉快」の後には「不安」が三四郎を襲う。
「自分は今活動の中心に立つてゐる」はずであり、「自分の世界と、現実の世界は一つ平面に並んで居りながら、どこも接触してゐない」。激烈な現実世界と自分の世界は、確かに同じ場所にあるはずなのに、そこに自己の存在を感じられない。自己存在の浮遊性や存在認識の希薄さを、この時三四郎は強く感じている。自分で自分の存在が感じられないことは、自己否定にもつながりかねない危険な状態だ。
さらに三四郎は、「さうして現実の世界は、かやうに動揺して、自分を置き去りにして行つて仕舞ふ」という。現実世界からの疎外感・仲間外れにされてしまっている認識は、彼を強く「不安」にさせる。現実世界から取り残され、一人ぽっちになってしまったかのような感覚。
人がたくさん往来しているはずの「東京の真中に立つて、電車と、汽車と、白い着物を着た人と、黒い着物を着た人との活動を見て」、三四郎は孤独と不安を感じる。
これらを振り返ると、三四郎が「何だか心細くなつて」と言ったのは、激烈な現実世界と自分の世界は、確かに同じ場所にあるはずなのに、そこに自己の存在を感じられない自己存在の浮遊感や存在認識の希薄さ、疎外感から感じる孤独や不安だ。
「野々宮さんに御逢ひになつてから、心細く御成りになつたの」
「いゝえ、左う云ふ訳ぢやない」と云ひ掛けて、美禰子の顔を見たが、急に話頭を転じた」
…先ほどの考えを美禰子にそのまま打ち明けてみても、うまく伝わるかわからない。また、言ってもしようのないことかもしれない。それで三四郎は「急に話頭を転じた」。「美禰子の顔を見」て、気持ちは伝わらないだろうと思い、「先刻あなたの所へ来て何か話してゐましたね」という冗談でごまかそうとする。
「「会場で?」
「えゝ、運動場の柵の所で」と云つたが、三四郎は此問を急に撤回したくなつた」
…自分の心細さを説明したところで理解してはもらえないだろうと思い、野々宮をダシに使って冗談を言ったつもりが、相手の美禰子がそれを真面目に受け止め、「会場で(野々宮が得意そうだったなどと、あなたは本当に思っているの? バカなの)?」と答えたので、そんなごまかしの言葉を言って失敗したと後悔している三四郎。
「女は「えゝ」と云つた儘男の顔を凝と見てゐる。少し下唇を反らして笑ひ掛けてゐる。三四郎は堪らなくなつた」
…美禰子は決して相手を逃がさない。自分への言葉や行為の責任を確実にとらせる女だ。こんな女に「凝と見」つめられ、おまけに「少し下唇を反らして笑ひ掛け」られた日には、背筋が凍るだろう。三四郎でなくても、これでは「堪らな」い。「反っ歯」+「少し下唇を反らして」+「笑ひ掛け」られる=恐怖。美禰子はエスだ。
三四郎が再び「何か云つて紛らかさうとした時に、女は口を開いた」。美禰子によって彼は、余計な言葉を発せずに済んだ。ぎりぎりセーフ。どうせろくなセリフも言えない男だ。その意味では、美禰子グッジョブ。
「あなたは未だ此間の絵端書の返事を下さらないのね」
…この拗ねるような詰問のようなじゃれつくような、猫女。関わらないに限る。よくそんなことを覚えているものだ。しかもそれをいま引き合いに出して批判するか? 三四郎は完全におびえている。完全敗者となった彼のセリフは既に決まっている。「三四郎はまごつきながら「上げます」と答へた」。白旗を上げる男に、「女は呉れとも何とも云はない」。ふつう、「未だ」も「下さらないのね」も、「早く返事をよこせ」の意味だ。それなのに、「上げます」に対して「呉れとも何とも云はない」のは反則だ。こういうのを、イジメという。じゃあ、どうすればいいのだと、三四郎は内心思っているが、ここは黙っておとなしく控えるしかない。
やや粘着質な美禰子。彼女はまた、意外な事を次に言う。
美禰子「あなた、原口さんといふ画工を御存じ?」
三四郎「(突然こんどは何を言い出すんだ?)知りません」
美禰子「さう」
三四郎「(怖い。対応を間違えると、ケガをする)何うかしましたか」
美禰子「なに、その原口さんが、今日見に来て入らしつてね。みんなを写生してゐるから、私達も用心しないと、ポンチに画ゝれるからつて、野々宮さんがわざ/\注意して下すつたんです」(傍へ来て腰を掛ける)
…女王と下僕の会話。
野々宮との他愛もない会話を邪推・嫉妬した自分が情けなくなり、「三四郎は自分が如何にも愚物の様な気がした」。
しかし美禰子のこの説明は、眉唾物だ。本当にそうだったのかは、美禰子にしかわからない。だから彼女がうそをついている可能性もある。うまくごまかしたような内容だ。「田舎者」の三四郎は、まったくそんなことを疑わない。
運動会で野々宮と会話する美禰子の「笑いに満ちた顔」は、「うれしそう」だった。彼女はおかしくで笑ったのではなく、恋の幸せから笑ったのだ。三四郎は騙せても、私は騙されない。
次に三度美禰子は意外な事を言う。
「よし子さんは兄さんと一所に帰らないんですか」
「一所に帰らうつたつて帰れないわ。よし子さんは、昨日から私の家にゐるんですもの」
…三四郎は驚いただろう。自分だけが何も知らされていない疎外感。自分はもう広田グループの一員だと思っていたことの期待外れ。しかもその内容がショッキングだった。これでは野々宮と美禰子の関係が、さらに容易に深くなってしまう。
美禰子の言葉には、いちいちトゲがある。ここで「一所に帰らうつたつて帰れないわ」という表現は不要だ。「まあ、あなた。そんなことも知らないの? 仲間外れにされたおバカさんね」という意味。そんなに突っ掛かられても困る。
「社会」に居場所がない「心細」さだけでなく、友人だと思っていた人たちから仲間外れにされ、しかもそれを好意を持つ相手から揶揄されてしまった三四郎。ノックダウンです。