夏目漱石「三四郎」本文と解説6-11 よし子「絶壁ね。サツフオーでも飛び込みさうな所ぢやありませんか」 美禰子「あなたも飛び込んで御覧なさい」 よし子「私? 飛び込みませうか。でも余り水が汚ないわね」
◇本文
三四郎は上から、二人を見下ろしてゐた。二人は枝の隙から明らかな日向へ出て来た。黙つてゐると、前を通り抜けて仕舞ふ。三四郎は声を掛けやうかと考へた。距離があまり遠過ぎる。急いで二三歩芝の上を裾の方へ下りた。下り出すと好い具合に女の一人が此方を向いて呉れた。三四郎はそれで留まつた。実は此方からあまり御機嫌を取りたくない。運動会が少し癪に障つてゐる。
「あんな所に……」とよし子が云ひ出した。驚ろいて笑つてゐる。この女はどんな陳腐なものを見ても珍しさうな眼付きをする様に思はれる。其代り、如何な珍らしいものに出逢つても、やはり待ち受けてゐた様な眼付きで迎へるかと想像される。だから此女に逢ふと重苦しい所が少しもなくつて、しかも落ち付いた感じが起る。三四郎は立つた儘、これは全く、この大きな、常に濡れてゐる、黒い眸の御蔭だと考へた。
美禰子も留まつた。三四郎を見た。然し其眼は此時に限つて何物をも訴へてゐなかつた。丸で高い木を眺める様な眼であつた。三四郎は心の裡で、火の消えた洋燈を見る心持がした。元の所に立ちすくんでゐる。美禰子も動かない。
「何故競技を御覧にならないの」とよし子が下から聞いた。
「今迄見てゐたんですが、詰らないから已めて来たのです」
よし子は美禰子を顧みた。美禰子はやはり顔色を動かさない。三四郎は、
「夫れより、あなた方こそ何故出て来たんです。大変熱心に見て居たぢやありませんか」と当てた様な当てない様な事を大きな声で云つた。美禰子は此時始めて、少し笑つた。三四郎には其笑ひの意味が能く分からない。二歩ばかり女の方に近付いた。
「もう家へ帰るんですか」
女は二人とも答へなかつた。三四郎は又二歩ばかり女の方へ近付いた。
「何所かへ行くんですか」
「えゝ、一寸」と美禰子が小さな声で云ふ。よく聞こえない。三四郎はとう/\女の前迄下りて来た。しかし何所へ行くとも追窮もしないで立つてゐる。会場の方で喝采の声が聞える。
「高飛びよ」とよし子が云ふ。「今度は何メートルになつたでせう」
美禰子は軽く笑つた許である。三四郎も黙つてゐる。三四郎は高飛びに口を出すのを屑としない積である。すると美禰子が聞いた。
「此上には何か面白いものが有つて?」
此上には石があつて、崖がある許である。面白いものがあり様筈がない。
「何にもないです」
「さう」と疑ひを残した様に云つた。
「一寸と上がつて見ませうか」とよし子が、快く云ふ。
「あなた、まだ此所(こゝ)を御存じないの」と相手の女は落ち付いて出た。
「宜いから入らつしやいよ」
よし子は先へ上る。二人は又 跟いて行つた。よし子は足を芝生の端迄出して、振り向きながら、
「絶壁ね」と大袈裟な言葉を使つた。「サツフオーでも飛び込みさうな所ぢやありませんか」
美禰子と三四郎は声を出して笑つた。其癖三四郎はサツフオーがどんな所から飛び込んだか能く知らなかつた。
「あなたも飛び込んで御覧なさい」と美禰子が云ふ。
「私? 飛び込みませうか。でも余り水が汚ないわね」と云ひながら、此方へ帰つて来た。
やがて女二人の間に用談が始つた。
「あなた、入らしつて」と美禰子がいふ。
「えゝ。あなたは」とよし子がいふ。
「何うしませう」
「どうでも。なんなら私一寸行つてくるから、此所(こゝ)に待つて入らつしやい」
「さうね」
中々片付かない。三四郎が聞いて見ると、よし子が病院の看護婦の所へ、序だから、一寸礼に行つてくるんだと云ふ。美禰子は此夏自分の親戚が入院してゐた時近付きになつた看護婦を訪ねれば訪ねるのだが、是は必要でも何でもないのださうだ。
(青空文庫より)
◇解説
当時の東京大学の運動場の画像が、国立国会図書館デジタルコレクション「東京帝国大学 明33 著者 小川一真 編 出版者 小川写真製版所 出版年月日 明33」にあるのでご覧下さい。
「三四郎は上から、二人を見下ろしてゐた。二人は枝の隙から明らかな日向へ出て来た。黙つてゐると、前を通り抜けて仕舞ふ。三四郎は声を掛けやうかと考へた。距離があまり遠過ぎる」
…いかに「距離があまり遠過ぎ」ても、彼は二人を見つけることができる。それに反して彼女たちの関心は、三四郎には無いことが分かる。このまま「黙つてゐると、前を通り抜けて仕舞ふ」。
「急いで二三歩芝の上を裾の方へ下りた。下り出すと好い具合に女の一人が此方を向いて呉れた」
…この後を読むと、「好い具合に」「此方を向いて呉れた」「女の一人」は、よし子の方だ。三四郎を見つけたよし子は、彼が来ていないかと少しは思っていたのだ。それに対して先ほど野々宮に朗らかな笑顔を向けた美禰子は、三四郎への関心が薄いことになる。
だから三四郎は、「実は此方からあまり御機嫌を取りたくない」のだ。これには、「運動会が少し癪に障つてゐる」こともある。若い男たちの溌剌とした競技風景に目を奪われていた二人の女性。三四郎は運動音痴なのかもしれない。
「「あんな所に……」とよし子が云ひ出した。驚ろいて笑つてゐる」
…やっと自分に注目してくれたのはよし子だった。三四郎はうれしかったに違いない。
「この女はどんな陳腐なものを見ても珍しさうな眼付きをする様に思はれる」
…感受性と表現の豊かな女性は、男性から好かれる。しかし、「如何な珍らしいものに出逢つても、やはり待ち受けてゐた様な眼付きで迎へるかと想像される」のでは、注目と感動は自分だけに向けられるのではないと感じ、男性は寂しい。しかし三四郎は後ろ向きに捉えない。「だから此女に逢ふと重苦しい所が少しもなくつて、しかも落ち付いた感じが起る」。三四郎はそれを、「この大きな、常に濡れてゐる、黒い眸の御蔭だと考へた」。
よし子に対する三四郎の印象・感想は、比較的良い場合が多い。今回も、「驚ろいて笑つてゐる」、「珍しさうな眼付き」、「待ち受けてゐた様な眼付き」、「重苦しい所が少しもなくつて、しかも落ち付いた感じが起る」などのように好印象だ。そうして彼にそれらの感興を抱かせるのは、「大きな、常に濡れてゐる、黒い眸の御蔭」だ。
よし子の天真爛漫さに比べ、美禰子の目に力はない。
「三四郎を見た」美禰子の眼は、
・「何物をも訴へてゐなかつた」
・「丸で高い木を眺める様な眼であつた」
・「火の消えた洋燈を見る心持がした」
ひとみに命が宿っていない、無感動・無関心な目。このような視線を向けられた者は、「この人は自分に興味も関心も全くない、縁なき衆生だ」と思うだろう。赤の他人の冷たいまなざしは、見られた側の心も冷やす。
「何故競技を御覧にならないの」とのよし子の質問は素直だが、その答えとしての、「今迄見てゐたんですが、詰らないから已めて来たのです」という三四郎の返事も素直だ。「夫れより、あなた方こそ何故出て来たんです。大変熱心に見て居たぢやありませんか」という皮肉に、「美禰子は此時始めて、少し笑つた」。この笑いの裏には、「この男は自分たちを注目して見ていたのだ。そうして楽しそうにしている自分たちを、うらやましいと思っていたのだ。自分だけが仲間はずれにでもされたように感じていたのだろう」という思いがある。しかし単純な「三四郎には其笑ひの意味が能く分からない」。それで、「二歩ばかり女の方に近付」き、「もう家へ帰るんですか」と追い打ちをかける。まるで自分たちを責めるかのような問いかけに、「女は二人とも答へなかつた」。「何をそんなにいら立っているの? 一人で怒ってる。私たちは何も悪いことはしていないわ」という気持ちから、答えようがない。「三四郎は又二歩ばかり女の方へ近付いた」。「何所かへ行くんですか」。行動・行先は、プライバシーにかかわる。個人情報を安易に若い男に知らせるわけにはいかない。三四郎はその柵を超えている。
だから美禰子は「えゝ、一寸」と「小さな声で」答えるしかない。「よく聞こえない」には、戸惑いも含まれる。
そのような相手の様子であるにもかかわらず、なおも「三四郎はとう/\女の前迄下りて来た」。女性二人は多少の違和感を感じているだろう。全く知らない男であれば、それは恐怖となっただろう。コミュニケーション能力の低い三四郎は、自分の心に浮かんだ言葉をそのまま吐き出すように相手にぶつけ、それによって女性から反感を買ってしまった。さらに彼は、「しかし何所へ行くとも追窮もしないで立つてゐる」。これではストーカーと疑われるか、不審者と認定されるだろう。
気まずい雰囲気の中、「会場の方で喝采の声が聞える」。三四郎をほったらかしにし、女性たちだけで会話を始める。
よし子「高飛びよ、今度は何メートルになつたでせう」。
美禰子「(軽く笑う)」
三四郎「(黙つてゐる。高飛びに口を出すのを屑としない積)」
美禰子「(この人、何か怒ってるみたいだから、仕方がない、会話に入れてあげるか) 此上には何か面白いものが有つて?」
三四郎「(此上には石があつて、崖がある許である。面白いものがあり様筈がない) 何にもないです」
美禰子「さう(疑ひを残した様)」
よし子「(快く) 一寸と上がつて見ませうか」
美禰子「(落ち着いて) あなた、まだ此所(こゝ)を御存じないの」
よし子「宜いから入らつしやいよ」
まるで心理ゲームのような緊張感。特に三四郎と美禰子のやり取りは一触即発の雰囲気を漂わせる。その間に呑気な存在としてよし子がよいキャラを出している。丘の上に何があろうが、そう目くじらを立てることでもない。それなのに三四郎は謎の怒りを発し、今日の美禰子は冷たくあしらう。三四郎にしてみれば、美禰子から為される初めての冷たい扱いに困惑している部分もあるだろう。三四郎は思っている。「どうして今日はこんなにそっけないのか。野々宮にはあんなに愛らしい笑みをこぼしていた。彼との関係が進んだのか」。
無邪気な「よし子は先へ上る」。二人は仕方なくその後を「跟いて行つた」。
よし子「(足を芝生の端迄出して、振り向きながら) 絶壁ね。サツフオーでも飛び込みさうな所ぢやありませんか」
美禰子と三四郎「www」
三四郎「(サツフオーって、どんな所から飛び込んだ?)」
美禰子「あなたも飛び込んで御覧なさい」
よし子「私? 飛び込みませうか。でも余り水が汚ないわね(と云ひながら、此方へ帰つて来る)」
美禰子「あなた、入らしつて」
よし子「えゝ。あなたは」
美禰子「何うしませう」
よし子「どうでも。なんなら私一寸行つてくるから、此所(こゝ)に待つて入らつしやい」
美禰子「さうね」
三四郎「(? 仕方がない、素直に聞いてみるか) どこに行くの?」
よし子「病院の看護婦の所へ、序だから、一寸礼に行つてくるの」
美禰子「此夏自分の親戚が入院してゐた時近付きになつた看護婦を訪ねれば訪ねるのだけれど、必要でも何でもないの」
まるで映画の一シーンのようだ。一人ひとりのキャラが立ち、それぞれの隠された心情が、行動や表情・言葉となって現れる。
この答えから考えると、女性たちが行き先を伝えることを渋っていたのは、言うことがはばかられる・秘密にすべき行先だからではなくて、やはり三四郎がなぜか怒っていたからだろう。変に刺激すると、面倒なことになりかねないと察知したからだ。三四郎の怒りへのとまどいが、行き先の通知を渋らせた。
ところで、美禰子が池の端に立っていた事情が、今話に至って初めて明かされた。彼女自身が病気等でそこにいたのではなくて、「親戚が入院してゐた」という事情のようだ。ずいぶん遠い伏線が、やっと回収されたことになる。
サッフォー(Sapphō)
[前612ころ~?]ギリシャの女流詩人。レスボス島生まれ。率直で簡明な作風の叙情詩・恋歌などは、後世まで永く愛好された。貴族の娘たちに詩や音楽を教えていたことから、同性愛、失恋による自殺などの伝説が生じた。「アフロディテ頌歌」など完全な作品2編のほか、多くの断片が残存。(デジタル大辞泉より)
彼女の詩には、同性愛やその充足が表現されるため、女性の同性愛をサッフィズムといったり、レズビアニズム(彼女がレスボス島出身による)という。
サッフォーを話題にふたりが会話しているところから、美禰子とよし子の同性愛を疑う考えも出てくるだろうが、女性は同性愛者でなくとも密接に寄り添ったり交際したりすることが普通にある。また、ふたりのこれまでの関係や様子を見て、そこに愛を感じるまでには至らない。個性の違うふたりがなぜかつなかる関係。
それにしても、よし子が「足を芝生の端迄出して」、「サツフオーでも飛び込みさうな所ぢやありませんか」と言い、それに対して美禰子が、「あなたも飛び込んで御覧なさい」と物騒な事を言うのは、ふたりがそのようなことを言い合える関係であることとともに、命や人生・青春時代に対する考え方を、意外に素直に表していると言える。決して命を粗末にしようというのではない。しかしふたりにはまだ、命の実感が無い。それを大切に扱わなければならないと、真に思うことができないでいる。それは、ふたりが自分の進路・将来像を確かに描くことができていないからだ。
「飛び込みませうか。でも余り水が汚ないわね」と冗談にするよし子の賢明さ。
「サツフオーがどんな所から飛び込んだか能く知らな」い三四郎の不明。