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夏目漱石「三四郎」本文と解説6-10 決勝点は美禰子とよし子が坐つてゐる鼻の先だった。若者が息をはずませてゐる様子を、彼女たちは熱心に見ていた。

◇本文

 三四郎は眼の()け所が漸く解つたので、先づ一段落告げた様な気で、安心してゐると、(たちま)ち五六人の男が眼の前に飛んで出た。二百メートルの競走が済んだのである。決勝点は美禰子とよし子が坐つてゐる真正面で、しかも鼻の先だから、二人を見詰めてゐた三四郎の視線のうちには是非共 是等(これら)壮漢(そうかん)が這入つて来る。五六人はやがて十二三人に殖えた。みんな呼吸(いき)(はず)ませてゐる様に見える。三四郎は是等の学生の態度と自分の態度とを比べて見て、其相違に驚ろいた。どうして、あゝ無分別に()ける気になれたものだらうと思つた。然し婦人連は悉く熱心に見てゐる。そのうちでも美禰子とよし子は尤も熱心らしい。三四郎は自分も無分別に()けて見たくなつた。一番に到着したものが、紫の猿股(さるまた)穿()いて婦人席の方を向いて立つてゐる。能く見ると昨夜の親睦会で演説をした学生に似てゐる。あゝ(せい)が高くては一番になる筈である。計測掛が黒板に二十五秒七四と書いた。書き終つて、余りの白墨を向ふへ()げて、此方(こつち)をむいた所を見ると野々宮さんであつた。野々宮さんは何時(いつ)になく真黒なフロツクを着て、胸に掛(かゝ)り員の徽章を付けて、大分人品が()い。手帛(ハンケチ)を出して、洋服の袖を二三度はたいたが、やがて黒板を離れて、芝生の上を横切つて来た。丁度美禰子とよし子の坐つてゐる真前(まんまへ)の所へ出た。低い柵の向側から首を婦人席の中へ()ばして、何か云つてゐる。美禰子は立つた。野々宮さんの所迄歩いて行く。柵の向ふと此方(こちら)で話しを始めた様に見える。美禰子は急に振り返つた。嬉しさうな笑ひに充ちた顔である。三四郎は遠くから一生懸命に二人を見守つてゐた。すると、よし子が立つた。又柵の傍へ寄つて行く。二人が三人になつた。芝生の中では砲丸 ()げが始つた。

 砲丸抛程腕の力の()るものはなからう。力の要る割に是程面白くないものも沢山(たん)とない。たゞ文字通り砲丸を抛げるのである。芸でも何でもない。野々宮さんは柵の所で、一寸(ちよつと)此様子を見て笑つてゐた。けれども見物の邪魔になると悪いと思つたのであらう。柵を離れて芝生の中へ引き取つた。二人の女も元の席へ(ふく)した。砲丸は時々 ()げられてゐる。第一どの位遠く迄行くんだか殆んど三四郎には分からない。三四郎は馬鹿々々しくなつた。それでも我慢して立つてゐた。漸やくの事で(かた)が付いたと見えて、野々宮さんは又黒板へ十一メートル三八と書いた。

 それから又競走があつて、長飛(ながとび)があつて、其次には(つち)抛げが始まつた。三四郎は此槌抛に至つて、とう/\辛抱が仕切れなくなつた。運動会は各自(めい/\)勝手に開くべきものである。人に見せべきものではない。あんなものを熱心に見物する女は悉く間違つてゐると迄思ひ込んで、会場を抜け出して、裏の築山の所迄来た。幕が張つてあつて通れない。引き返して砂利の敷いてある所を少し来ると、会場から逃げた人がちらほら歩いてゐる。盛装した婦人も見える。三四郎は又右へ折れて、爪先上(つまさきのぼり)を岡の頂点(てつぺん)迄来た。路は頂点で尽きてゐる。大きな石がある。三四郎は其上へ腰を掛けて、高い崖の下にある池を眺めた。下の運動会場でわあといふ多勢の声がする。

 三四郎はおよそ五分 (ばかり)石へ腰を掛けた儘ぼんやりしてゐた。やがて又動く気になつたので腰を上げて、立ちながら、靴の踵(かゝと)を向け直すと、岡の(のぼ)り際の、薄く色づいた紅葉の間に、先刻(さつき)の女の影が見えた。並んで岡の(すそ)を通る。 (青空文庫より)


◇解説

前話で、競技会に出かけた三四郎が、美禰子とよし子の居場所を探していた場面。「注意したら、何所かにゐるだらうと思つて、能く見渡すと、果して前列の一番柵に近い所に二人並んでゐた」。


「三四郎は眼の()け所が漸く解つたので、先づ一段落告げた様な気で、安心してゐると」

…まさに獲物を狙う狼。美の快感の中に彼はいる。しかしそれは瞬時に雲散霧消する。ムクツケキ男どもがその視界の中に侵入するからだ。邪魔以外の何ものでもない、美の破壊者たち。「(たちま)ち五六人の男が眼の前に飛んで出た。二百メートルの競走が済んだのである。決勝点は美禰子とよし子が坐つてゐる真正面で、しかも鼻の先だから、二人を見詰めてゐた三四郎の視線のうちには是非共 是等(これら)壮漢(そうかん)が這入つて来る」


「五六人はやがて十二三人に殖えた。みんな呼吸(いき)(はず)ませてゐる様に見える。三四郎は是等の学生の態度と自分の態度とを比べて見て、其相違に驚ろいた。どうして、あゝ無分別に()ける気になれたものだらうと思つた。然し婦人連は悉く熱心に見てゐる。そのうちでも美禰子とよし子は尤も熱心らしい」

…青春の躍動を体現した若い男たち。それに見とれる気になる女二人。「三四郎は自分も無分別に()けて見たくなつた」。

ところで、三四郎は、「呼吸(いき)(はず)ませて」走る者たちを「無分別」と評価する人物として描かれる。


「一番に到着したものが、紫の猿股(さるまた)穿()いて婦人席の方を向いて立つてゐる。能く見ると昨夜の親睦会で演説をした学生に似てゐる。あゝ(せい)が高くては一番になる筈である」

…「猿股(さるまた)」、しかも「紫」。強烈だ。男の目にも悪い。ましてや女の目には刺激が強すぎるだろう。しかしそれを女二人は「尤も熱心」に見ている。気が気でない三四郎。

「昨夜の親睦会で演説をした学生」は、「(せい)が高く」、とても目立つ存在だ。しかも彼は競走で「一番」になった。走力の高さは、高身長に由来すると分析する(羨む)三四郎。すぐ後に登場する野々宮宗八も身長が高い。三四郎の身長は、これらの男たちと比べると低い。


「計測掛が黒板に二十五秒七四と書いた」

…この秒数からすると、200m走か。


「書き終つて、余りの白墨を向ふへ()げて、此方(こつち)をむいた所を見ると野々宮さんであつた。野々宮さんは何時(いつ)になく真黒なフロツクを着て、胸に掛(かゝ)り員の徽章を付けて、大分人品が()い」

…この野々宮のいでたちは、競技会という皆が集まる場で係として働く自分の姿を、美禰子に見せるためだ。


手帛(ハンケチ)を出して、洋服の袖を二三度はたいたが」以降の部分から、特に三四郎の観察が細かいことが分かる。美禰子と野々宮の様子が、とても気になるのだ。

「美禰子は立つた。野々宮さんの所迄歩いて行く。柵の向ふと此方(こちら)で話しを始めた様に見える。美禰子は急に振り返つた。嬉しさうな笑ひに充ちた顔である」。何を話しているのだろう。あんなに「嬉しさう」に「笑」っている。「三四郎は遠くから一生懸命に二人を見守つてゐた」。


「砲丸抛程腕の力の()るものはなからう。力の要る割に是程面白くないものも沢山(たん)とない。たゞ文字通り砲丸を抛げるのである。芸でも何でもない」

…この感想は、三四郎のものなのか語り手のものなのかがはっきりせず、渾然一体となっている。三四郎の感想を、語り手が代わりに説明している形。

つづく、「野々宮さんは柵の所で、一寸(ちよつと)此様子を見て笑つてゐた」というのは、野々宮も三四郎と同意見だということ。

ところで、「砲丸は時々 ()げられてゐる。第一どの位遠く迄行くんだか殆んど三四郎には分からない。三四郎は馬鹿々々しくなつた」とあるが、「芸でも何でもない」のは徒競走も一緒で、それは人の趣味の問題だ。三四郎は、疾走感を好む。


「三四郎は此槌抛に至つて、とう/\辛抱が仕切れなくなつた」。投擲競技が嫌いな三四郎は、とうとう「運動会は各自(めい/\)勝手に開くべきものである。人に見せべきものではない」と断じ、さらに、「あんなものを熱心に見物する女は悉く間違つてゐると迄思ひ込んで」しまう。女たちの注目が自分に集まらないことから、運動会への逆恨みをする彼は、「会場を抜け出」す。


「岡の頂点(てつぺん)」の「大きな石」に「腰を掛けて、高い崖の下にある池を眺めた。下の運動会場でわあといふ多勢の声がする」。「およそ五分 (ばかり)石へ腰を掛けた儘ぼんやりしてゐた。やがて又動く気になつたので腰を上げて、立ちながら、靴の踵(かゝと)を向け直すと、岡の(のぼ)り際の、薄く色づいた紅葉の間に、先刻(さつき)の女の影が見えた。並んで岡の(すそ)を通る」。彼は当然そちらへと向かう。


競技会の人々の様子をこれほどまでに細かく観察する三四郎。初めて見る景色ということもあるが、彼の関心はやはり女二人にある。

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