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夏目漱石「三四郎」本文と解説6-7 与次郎「ダーター、フアブラ我々新時代の青年は……」 三四郎の筋向に坐つてゐた色の白い品の好い学生「イル アル デイアブル オー コル(悪魔が乗り移つてゐる)w」

◇本文

 木造の廊下を回つて、部屋へ這入ると、早く来たものは、もう(かたま)つてゐる。其 (かたまり)が大きいのと小さいのと合はせて三つ程ある。中には無言で備付けの雑誌や新聞を見ながら、わざと列を離れてゐるのもある。話は方々に聞える。話の数は塊の数より多い様に思はれる。然し割合に落付いて静かである。烟草の(けむり)の方が猛烈に立ち(のぼ)る。

 其中(そのうち)だん/\寄つて来る。黒い影が闇の中から吹き(さら)しの廊下の上へ、ぽつりと現はれると、それが一人々々に明るくなつて、部屋の中へ這入つて来る。時には五六人続けて、明るくなる事もある。やがて人数は略(ほゞ)揃つた。

 与次郎は、さつきから、烟草の烟の中を、しきりに彼方此方(あちこち)と往来してゐた。行く所で何か小声に話してゐる。三四郎は、そろ/\運動を始めたなと思つて眺めて居た。

 しばらくすると幹事が大きな声で、みんなに席へ着けと云ふ。食卓は無論前から用意が出来てゐた。みんな、ごた/\に席へ着いた。順序も何もない。食事は始まつた。

 三四郎は熊本で赤酒許(あかざけばかり)飲んでゐた。赤酒といふのは、(ところ)で出来る下等な酒である。熊本の学生はみんな赤酒を呑む。それが当然と心得てゐる。たま/\飲食店へ上がれば牛肉屋である。その牛肉屋の牛が馬肉かも知れないといふ嫌疑がある。学生は皿に盛つた肉を手攫(てづか)みにして、座敷の壁へ抛(たゝ)き付ける。落ちれば牛肉で、貼付(ひつつ)けば馬肉だといふ。丸で(まじなひ)見た様な事をしてゐた。其三四郎に取つて、かう云ふ紳士的な学生親睦会は珍らしい。(よろこ)んで肉刀(ナイフ)肉叉(フオーク)を動かしてゐた。其間には麦酒(ビール)をさかんに飲んだ。

「学生集会所の料理は不味(まづい)ですね」と三四郎の隣りに坐つた男が話しかけた。此男は頭を坊主に刈つて、金縁の眼鏡を掛けた大人しい学生であつた。

「さうですな」と三四郎は生返事をした。相手が与次郎なら、僕の様な田舎者には非常に旨いと正直な所をいふ筈であつたが、其正直が却つて皮肉に聞えると悪いと思つて已めにした。すると其男が、

「君は何所の高等学校ですか」と聞き出した。

「熊本です」

「熊本ですか。熊本には僕の従弟も居たが、随分ひどい所ださうですね」

「野蛮な所です」

 二人が話してゐると、向ふの方で、急に高い声がし出した。見ると与次郎が隣席の二三人を相手に、しきりに何か弁じてゐる。時々ダーター、フアブラと云ふ。何の事だか分らない。然し与次郎の相手は、此言葉を聞くたびに笑ひ出だす。与次郎は益得意になつて、ダーター、フアブラ我々新時代の青年は……とやつてゐる。三四郎の筋向に坐つてゐた色の白い品の好い学生が、しばらく肉刀の手を休めて、与次郎の連中を眺めてゐたが、やがて笑ひながら、Ilイル aア leル diableデイアブル auオー corpsコル(悪魔が乗り移つてゐる)と冗談半分に仏蘭西(フランス)語を使つた。向ふの連中には全く聞えなかつたと見えて、此時麦酒の洋盃(コツプ)が四つ(ばかり)一度に高く上がつた。得意さうに祝盃を挙げてゐる。

「あの人は大変賑やかな人ですね」と三四郎の隣の金縁眼鏡を掛けた学生が云つた。

「えゝ。よくしやべります」

「僕はいつか、あの人に淀見軒でライスカレーを御馳走になつた。丸で知らないのに、突然来て君淀見軒へ行かうつて、とう/\引張つて行つて……」

 学生はハヽヽと笑つた。三四郎は、淀見軒で与次郎からライスカレーを御馳走になつたものは自分ばかりではないんだなと悟つた。

(青空文庫より)


◇解説

「烟草の(けむり)の方が猛烈に立ち(のぼ)る」

…当時の大学生は、ずいぶんタバコを吸っていたものだ。


其中(そのうち)だん/\寄つて来る。黒い影が闇の中から吹き(さら)しの廊下の上へ、ぽつりと現はれると、それが一人々々に明るくなつて、部屋の中へ這入つて来る。時には五六人続けて、明るくなる事もある」

…影絵や人形アニメをイメージさせる幻想的な表現の仕方。


「食卓は無論前から用意が出来てゐた」

…大学内の「学生集会所」での懇親会の様子。「肉刀(ナイフ)肉叉(フオーク)」、「麦酒(ビール)」とあるから、西洋料理と酒が振る舞われた。

それに比べ熊本での高校時代は、「赤酒許(あかざけばかり)飲んでゐた」。「下等な酒」だが、「熊本の学生はみんな赤酒を呑む。それが当然と心得てゐる」。「牛肉屋の牛が馬肉かも知れないといふ嫌疑がある」。

だから「三四郎に取つて、かう云ふ紳士的な学生親睦会は珍らしい。(よろこ)んで肉刀(ナイフ)肉叉(フオーク)を動かしてゐた。其間には麦酒(ビール)をさかんに飲んだ」。


すると、「「学生集会所の料理は不味(まづい)ですね」と隣りに坐つた男が話しかけた。此男は頭を坊主に刈つて、金縁の眼鏡を掛けた大人しい学生であつた」

…まずいと言うからには、もっとうまい西洋料理を食べたことがあるのだ。東京出身の学生か。


「「さうですな」と三四郎は生返事をした。相手が与次郎なら、僕の様な田舎者には非常に旨いと正直な所をいふ筈であつたが、其正直が却つて皮肉に聞えると悪いと思つて已めにした」

…このような気遣いができるようになった三四郎。


「「君は何所の高等学校ですか」と聞き出した。

「熊本です」

「熊本ですか。熊本には僕の従弟も居たが、随分ひどい所ださうですね」

「野蛮な所です」」

…先ほどは相手への気遣いから余計な事を言わなかったのに、かえってその相手から、自分の母校を侮蔑されてしまった。


「ダーター、フアブラ」

…ローマの詩人、ホラティウスの「諷刺詩」の句。他人事(ひとごと)ではない、の意。(角川文庫解説より)


「Ilイル aア leル diableデイアブル auオー corpsコル(悪魔が乗り移つてゐる)と冗談半分に仏蘭西(フランス)語」で佐々木を揶揄した学生は、「僕はいつか、あの人に淀見軒でライスカレーを御馳走になつた。丸で知らないのに、突然来て君淀見軒へ行かうつて、とう/\引張つて行つて……」と「笑つた」。「淀見軒で与次郎からライスカレーを御馳走になつたものは自分ばかりではない」と悟る三四郎。交際範囲を限りなく広げるのが、佐々木の性分のようだ。


この場面での佐々木の行動・様子は、やや派手すぎであり、何か良からぬことを企んでいるのではないかと訝られてもしようがないものだ。その様子は実際に、「三四郎の筋向に坐つてゐた色の白い品の好い学生」から揶揄される。佐々木の計画は頓挫する未来が見える。

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