夏目漱石「三四郎」本文と解説6-6 佐々木「君、女に惚れた事があるか? 女は恐ろしいものだよ」 三四郎「恐ろしいものだ、僕も知つてゐる」 佐々木「知りもしない癖にw」 三四郎「(憮然)」
◇本文
与次郎の用事といふのは斯うである。――今夜の会で自分達の科の不振の事をしきりに慨嘆するから、三四郎も一所に慨嘆しなくつては不可いんださうだ。不振は事実であるから外のものも慨嘆するに極つてゐる。それから、大勢一所に挽回策を講ずる事となる。何しろ適当な日本人を一人大学へ入れるのが急務だと云ひ出す。みんなが賛成する。当然だから賛成するのは無論だ。次に誰が好からうといふ相談に移る。其時広田先生の名を持ち出す。其時三四郎は与次郎に口を添えて極力先生を賞賛しろと云ふ話である。さうしないと、与次郎が広田の食客だといふ事を知つてゐるものが疑ひを起さないとも限らない。自分は現に食客なんだから、どう思はれても構はないが、万一煩ひが広田先生に及ぶ様では済ん事になる。尤も外に同志が三四人はゐるから、大丈夫だが、一人でも味方は多い方が便利だから、三四郎も成るべくしやべるに若くはないとの意見である。偖愈衆議一決の暁には、総代を撰んで学長の所へ行く、又総長の所へ行く。尤も今夜中に其所迄は運ばないかも知れない。又運ぶ必要もない。其辺は臨機応変である。……
与次郎は頗る能弁である。惜しい事に其能弁がつる/\してゐるので重みがない。ある所へ行くと冗談を真面目に講釈してゐるかと疑はれる。けれども本来が性質の好い運動だから、三四郎も大体の上に於て賛成の意を表した。たゞ其方法が少しく細工に落ちて面白くないと云つた。其時与次郎は往来の真中へ立ち留つた。二人は丁度森川町の神社の鳥居の前にゐる。
「細工に落ちると云ふが、僕のやる事は、自然の手順が狂はない様にあらかじめ人力で装置をする丈だ。自然に背いた没分暁の事を企てるのとは質が違ふ。細工だつて構はん。細工が悪いのではない。悪い細工が悪いのだ」
三四郎はぐうの音も出なかつた。何だか文句がある様だけれども、口へ出て来ない。与次郎の言草のうちで、自分がいまだ考へてゐなかつた部分丈が判然頭へ映つてゐる。三四郎は寧ろ其方に感服した。
「それもさうだ」と頗る曖昧な返事をして、又肩を並べて歩き出した。正門を這入ると、急に眼の前が広くなる。大きな建物が所々に黒く立つてゐる。其屋根が判然尽きる所から明らかな空になる。星が夥しく多い。
「うつくしい空だ」と三四郎が云つた。与次郎も空を見ながら、一間 許歩いた。突然、
「おい、君」と三四郎を呼んだ。三四郎は又さつきの話しの続きかと思つて、「なんだ」と答へた。
「君、かう云ふ空を見て何んな感じを起す」
与次郎に似合はぬ事を云つた。無限とか永久とかいふ持ち合せの答へはいくらでもあるが、そんな事を云ふと与次郎に笑はれると思つて、三四郎は黙つてゐた。
「詰らんなあ我々は。あしたから、斯んな運動をするのはもう已めにしやうか知ら。偉大なる暗闇を書いても何の役にも立ちさうにもない」
「何故急にそんな事を云ひ出したのか」
「此空を見ると、さう云ふ考になる。――君、女に惚れた事があるか」
三四郎は即答が出来なかつた。
「女は恐ろしいものだよ」と与次郎が云つた。
「恐ろしいものだ、僕も知つてゐる」と三四郎も云つた。すると与次郎が大きな声で笑ひ出した。静かな夜の中で大変高く聞える。
「知りもしない癖に。知りもしない癖に」
三四郎は憮然としてゐた。
「明日も好い天気だ。運動会は仕合せだ。奇麗な女が沢山来る。是非見にくるがいゝ」
暗い中を二人は学生集会所の前迄来た。中には電燈が輝やいてゐる。 (青空文庫より)
◇解説
大学生男子二人の夜の道行きは、学生時代を過ごした者には懐かしい。
「与次郎の用事」は、「今夜の会で自分達の科の不振の事をしきりに慨嘆するから、三四郎も一所に慨嘆しなくつては不可い」。自分が「適当な日本人を一人大学へ入れるのが急務だと云ひ出」し、「広田先生の名を持ち出す」から、「其時三四郎は与次郎に口を添えて極力先生を賞賛しろと云ふ話」だった。
「当然だから賛成するのは無論だ」とは循環論法になってしまっている。三四郎を説得するために、佐々木が気負う様子。
佐々木の説明は続く。
三四郎の応援・賛同がないと、「与次郎が広田の食客だといふ事を知つてゐるものが疑ひを起さないとも限らない」。「尤も外に同志が三四人はゐるから、大丈夫だが、一人でも味方は多い方が便利だから、三四郎も成るべくしやべるに若くはないとの意見である」。
「愈衆議一決の暁には、総代を撰んで学長の所へ行く、又総長の所へ行く」。
「自分は現に食客なんだから、どう思はれても構はないが、万一煩ひが広田先生に及ぶ様では済ん事になる」ことまでは慮るが、そもそもこの活動自体がどのような影響と結果を広田にもたらすかまでは、佐々木は予測できない。
佐々木の「能弁」は、「惜しい事に」「つる/\してゐるので重みがない。ある所へ行くと冗談を真面目に講釈してゐるかと疑はれる」と三四郎は批判的に捉える。自分の考えを通そうと気ばかり焦って誠実さに欠けるが、「本来が性質の好い運動だから、三四郎も大体の上に於て賛成の意を表した。たゞ其方法が少しく細工に落ちて面白くないと云つた」。策を弄して不出来な結果に落ちる気配が漂う。
「其時与次郎は往来の真中へ立ち留つた。二人は丁度森川町の神社の鳥居の前にゐる」
…「本郷森川町」は、現在の文京区弥生一丁目、西片二丁目、本郷六・七丁目あたりで、東大の西側にあたる。ここに現在ある「神社」には、福狩稲荷神、藤之森稲荷神社がある。
佐々木は、まるで神の前で宣誓するかのように、これから自分がやろうとしていることの正当性を主張する。
「細工に落ちると云ふが、僕のやる事は、自然の手順が狂はない様にあらかじめ人力で装置をする丈だ。自然に背いた没分暁の事を企てるのとは質が違ふ。細工だつて構はん。細工が悪いのではない。悪い細工が悪いのだ」
…佐々木は自分のたくらみを正当なものだと確信している。それが自分が私淑する広田のためだと疑わない。だから、これからやろうとしていることは神に誓って真面目なものであり、恥じることはない。それがうまくいくように図ることも正当だという論理。
だから「三四郎はぐうの音も出」ず、「自分がいまだ考へてゐなかつた部分丈が判然頭へ映つて」来たため、「感服した」。
しかしどこか納得できない部分・「何だか文句がある様」だが、「「それもさうだ」と頗る曖昧な返事をして、又肩を並べて歩き出した」。
「正門を這入ると、急に眼の前が広くなる。大きな建物が所々に黒く立つてゐる。其屋根が判然尽きる所から明らかな空になる。星が夥しく多い」
…「三四郎」には、東大の建物や自然が、物語の所々に挿入されて描かれる。それらは、東京、都会、登場人物の心情の反映、人間関係とその変化、今後の予感などを暗示する。
「空」や「星」は、詩人である美禰子が好むものたちだ。
続くふたりの会話。
三四郎「うつくしい空だ」…三四郎がこのように感得することができるようになったのは、美禰子の影響。
与次郎(空を見ながら一間 許歩き)「君、かう云ふ空を見て何んな感じを起す」
三四郎(「与次郎に似合はぬ事を云」うなあ。急に何を言い出すのだろう。「無限とか永久とかいふ持ち合せの答へ」「を云ふと与次郎に笑はれると思つて、三四郎は黙つてゐた」)
佐々木「詰らんなあ我々は。あしたから、斯んな運動をするのはもう已めにしやうか知ら。偉大なる暗闇を書いても何の役にも立ちさうにもない」
三四郎「何故急にそんな事を云ひ出したのか」
佐々木「此空を見ると、さう云ふ考になる。――君、女に惚れた事があるか」
三四郎「(即答が出来ない)」
佐々木「女は恐ろしいものだよ」
三四郎「恐ろしいものだ、僕も知つてゐる」
与次郎(大きな声で笑ひ出し)「知りもしない癖に。知りもしない癖に」
三四郎「(憮然)」
佐々木「明日も好い天気だ。運動会は仕合せだ。奇麗な女が沢山来る。是非見にくるがいゝ」
夜道をふたり歩く男子大学生。その雰囲気からか、佐々木も普段とは違うことを言い出す。
大学の校舎が空を区切る。夜空に輝くたくさんの星。それらを眺めていると、広田の大学教授推薦運動など些末なことに思えてくる。
さらに続けて佐々木は、ふだんめったにしない恋の話を始める。しかもその内容は、「女は恐ろしいものだよ」というものだった。佐々木は、美禰子を「乱暴」だと言った。しかしそれは女に限らず、「現代社会」に生きる者の宿命だとした。だから彼が言う「女は怖ろしい」の意味は、これとはまた別の事柄を指している。彼の女性観は何に由来するのかが読者は気になるところだ。
一方、三四郎も、「恐ろしいものだ、僕も知つてゐる」と答えた。上京途中で出会った女。人として追いつけない美禰子。よし子の天真爛漫さと意外にしっかりしている様子。自分を魅惑すると同時に、とてもかなわないという気にさせる周りの女性たち。引力と反発・突き放される感じを、三四郎は感じている。
「女は恐い」と言いながら、「運動会は仕合せだ。奇麗な女が沢山来る。是非見にくるがいゝ」と誘い、三四郎をさらなる恐怖へと導く佐々木。
「暗い中を二人は学生集会所の前迄来た。中には電燈が輝やいてゐる」
…佐々木も「ストレイシープ」のひとりだ。進もうとする道の行く末が見えない「暗い中」を、今、ふたりは歩いている。
「学生集会所」には、若さがあふれている。その明るさや活気が、外に漏れている。
〇「女は恐ろしいものだよ」について
「こころ」の先生も、同様の事を言っていた。
・上先生と私-12
「君は今あの男と女を見て、冷評ましたね。あの冷評のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交じっていましょう」
「そんな風に聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか」
・上先生と私-13
「とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
「こころ」において「恋は罪悪」と規定される。それにもかかわらず人は、恋の引力に抗うことができない。「女」の「恐ろし」さは、そこにも表れる。