夏目漱石「三四郎」本文と解説1-6「髭のある人は、二人の間に水蜜桃を置いて、「食べませんか」と云つた」
◇本文
男はしきりに烟草をふかしてゐる。長い烟りを鼻の穴から吹き出して、腕組をした所は大変悠長に見える。さうかと思ふと無暗に便所か何かに立つ。立つ時にうんと伸びをする事がある。さも退屈さうである。隣に乗り合せた人が、新聞の読み殻を傍に置くのに借りて看る気も出さない。三四郎は自ら妙になつて、ベーコンの論文集を伏せて仕舞つた。外の小説でも出して、本気に読んで見様とも考へたが面倒だから、已めにした。それよりは前にゐる人の新聞を借りたくなつた。生憎前の人はぐう/\寐てゐる。三四郎は手を延ばして新聞に手を掛けながら、わざと「御 明きですか」と髭のある男に聞いた。男は平気な顔で「明いてるでせう。御読みなさい」と云つた。新聞を手に取つた三四郎の方は却つて平気でなかつた。
開けて見ると新聞には別に見る程の事も載つてゐない。一二分で通読して仕舞つた。律義に畳んで元の場所へ返しながら、一寸会釈すると、向ふでも軽く挨拶をして、
「君は高等学校の生徒ですか」と聞いた。
三四郎は、被つてゐる古帽子の徽章の痕が、此男の眼に映つたのを嬉しく感じた。
「えゝ」と答へた。
「東京の?」と聞き返した時、始めて、
「いえ、熊本です。……然し……」と云つたなり黙つて仕舞つた。大学生だと云ひたかつたけれども、云ふ程の必要がないからと思つて遠慮した。相手も「はあ、さう」と云つたなり烟草を吹かしてゐる。何故熊本の生徒が今頃東京へ行くんだとも何とも聞いて呉れない。熊本の生徒には興味がないらしい。此時三四郎の前に寐てゐた男が「うん、成程」と云つた。それでゐて慥かに寐てゐる。独言でも何でもない。髭のある人は三四郎を見てにや/\と笑つた。三四郎はそれを機会に、
「あなたは何方へ」と聞いた。
「東京」とゆつくり云つた限である。何だか中学校の先生らしく無くなつて来た。けれども三等へ乗つてゐる位だから大したものでない事は明らかである。三四郎はそれで談話を切り上げた。髭のある男は腕組をした儘、時々下駄の前歯で、拍子を取つて、床を鳴らしたりしてゐる。余程退屈に見える。然し此男の退屈は話したがらない退屈である。
汽車が豊橋へ着いた時、寐てゐた男がむつくり起きて眼を擦りながら下りて行つた。よくあんなに都合よく眼を覚ます事が出来るものだと思つた。ことによると寐ぼけて停車場を間違へたんだらうと気遣ひながら、窓から眺めてゐると、決してさうでない。無事に改札場を通過して、正気の人間の様に出て行つた。三四郎は安心して席を向ふ側へ移した。是で髭のある人と隣り合はせになつた。髭のある人は入れ換つて、窓から首を出して、水蜜桃を買つてゐる。
やがて二人の間に果物を置いて、
「食べませんか」と云つた。
三四郎は礼を云つて、一つ食べた。髭のある人は好きと見えて、無暗に食べた。三四郎にもつと食べろと云ふ。三四郎は又一つ食べた。二人が水蜜桃を食べてゐるうちに大分親密になつて色々な話を始めた。 (青空文庫より)
◇解説
「男はしきりに烟草をふかしてゐる。長い烟りを鼻の穴から吹き出して、腕組をした所は大変悠長に見える。さうかと思ふと無暗に便所か何かに立つ。立つ時にうんと伸びをする事がある。さも退屈さうである。隣に乗り合せた人が、新聞の読み殻を傍に置くのに借りて看る気も出さない」
…広田先生がどこへ何のためにはるばる行ったのかが気になるところだ。その帰路はとても「退屈さうである」。「無暗に便所か何かに立つ。立つ時にうんと伸びをする事がある」からは、広田の年齢が感じられる。高齢ではないが、若くもない。「新聞の読み殻を傍に置くのに借りて看る気も出さない」からは、社会への興味の無さがうかがわれる。
「三四郎は自ら妙になつて、ベーコンの論文集を伏せて仕舞つた。外の小説でも出して、本気に読んで見様とも考へたが面倒だから、已めにした」
…自分の周囲と社会に何の感興も催さない広田先生を前に、気取って「ベーコンの論文集」などを広げている自分の行動が馬鹿らしく思われた三四郎は、「学問」の世界から離れる。
「それよりは前にゐる人の新聞を借りたくなつた。生憎前の人はぐう/\寐てゐる。三四郎は手を延ばして新聞に手を掛けながら、わざと「御 明きですか」と髭のある男に聞いた。男は平気な顔で「明いてるでせう。御読みなさい」と云つた。新聞を手に取つた三四郎の方は却つて平気でなかつた」
…新聞を解して広田と言葉を交わし、次第に関係性を深めていく三四郎。「 開けて見ると新聞には別に見る程の事も載つて」おらず、「一二分で通読して仕舞つた」。高校で学んだ者として社会でのたしなみを心得ている彼は、「律義に畳んで元の場所へ返しながら、一寸会釈する」。すると、「向ふでも軽く挨拶をして、「君は高等学校の生徒ですか」と聞いた」。「三四郎は、被つてゐる古帽子の徽章の痕が、此男の眼に映つたのを嬉しく感じ、「えゝ」と答える。旅の途上で高校について触れてくれた初めての人が、広田先生だった。
「「東京の?」と聞き返した時、始めて、「いえ、熊本です。……然し……」と云つたなり黙つて仕舞つた。大学生だと云ひたかつたけれども、云ふ程の必要がないからと思つて遠慮した。相手も「はあ、さう」と云つたなり烟草を吹かしてゐる。何故熊本の生徒が今頃東京へ行くんだとも何とも聞いて呉れない。熊本の生徒には興味がないらしい」
…三四郎は我知らず自分の学歴・身分を自慢しようとする。しかしその一歩手前で「遠慮」するたしなみがある。これに対し「相手も「はあ、さう」と云つたなり烟草を吹かしてゐる」という冷めた対応。だから三四郎は、「何故熊本の生徒が今頃東京へ行くんだとも何とも聞いて呉れない。熊本の生徒には興味がないらしい」と若干の淋しさ・残念さを感じている。
「三四郎の前に寐てゐた男が「うん、成程」と云つた。それでゐて慥かに寐てゐる。独言でも何でもない。髭のある人は三四郎を見てにや/\と笑つた。三四郎はそれを機会に、「あなたは何方へ」と聞いた。」
…これを「機会」(きっかけ)にふたりは親しく話すようになるのだが、そのきっかけが笑いであるところが巧みだ。一つの現象に同じおかしさを感じる共感性が、三四郎と広田をつなぐ。しかし相手はなかなか心を開かない。「「東京」とゆつくり云つた限である」。
「何だか中学校の先生らしく無くなつて来た。けれども三等へ乗つてゐる位だから大したものでない事は明らかである。三四郎はそれで談話を切り上げた」
…「中学校の先生」ならば、若者の扱いにも慣れているだろうし、もう少し親しげに話しかけてくれてもよさそうなものだと三四郎は考えている。「三等」は汽車の等級として最下等。だから謎の女や爺さん、三四郎が乗れるのだ。だから男はそれらの者と同等の人物だと判断する。
「髭のある男は腕組をした儘、時々下駄の前歯で、拍子を取つて、床を鳴らしたりしてゐる。余程退屈に見える。然し此男の退屈は話したがらない退屈である」
…「退屈」な様が分かりやすい。また、「此男の退屈は話したがらない退屈である」というのが面白い。漱石独特の表現。
「汽車が豊橋へ着いた時、寐てゐた男がむつくり起きて眼を擦りながら下りて行つた。よくあんなに都合よく眼を覚ます事が出来るものだと思つた。ことによると寐ぼけて停車場を間違へたんだらうと気遣ひながら、窓から眺めてゐると、決してさうでない。無事に改札場を通過して、正気の人間の様に出て行つた」
…一般庶民の何気ない一場面が描かれる。誰もが経験したことのあることだ。男の退場により、座席には三四郎と広田が残り、「三四郎は安心して席を向ふ側へ移し」、「是で髭のある人と隣り合はせになつた」。
〇「豊橋」について
・名古屋~豊橋はJRで70㎞・JR東海道本線 新快速で約1時間
・豊橋~東京はJRで300㎞。まだまだ遠い旅が続く。
「髭のある人は入れ換つて、窓から首を出して、水蜜桃を買つてゐる。
やがて二人の間に果物を置いて、「食べませんか」と云つた。
三四郎は礼を云つて、一つ食べた。髭のある人は好きと見えて、無暗に食べた。三四郎にもつと食べろと云ふ。三四郎は又一つ食べた」
…広田は三四郎に水蜜桃を誘う。食べ物の誘いや同じものを食べることは、人と人とをつないでくれる。だからふたりは、「水蜜桃を食べてゐるうちに大分親密になつて色々な話を始めた」のだった。
三四郎と広田は、新聞や水蜜桃を媒介として、次第に懇意になっていく。
〇「水蜜桃」…白桃のこと。特に甘い桃のこと。
〇当時の教員の給与について調べてみました
「明治30年には市町村立小学校教員俸給が、次のように定められた。
第三条 市町村立尋常小学校本科正教員月俸ノ平均額ハ人口十万以上ノ市ニ在リテハ十六円其ノ他ノ市ニ在リテハ十四円トシ町村ニ在リテハ十二円トス
市町村立高等小学校本科正教員月俸ノ平均額ハ人口十万以上ノ市ニ在リテハ二十円其ノ他ノ市ニ在リテハ十八円トシ町村ニ在リテハ十六円トス
明治27年から32年までに、日用品の物価は、平均71パーセントあまりも騰貴していた。低賃金ゆえに教職につくものが少なく、いったん教職についてもすぐ他へ転職するといった状態があり、教員不足はきわめて深刻であった。
このころの物価を調べると、東京での大工手間賃1人1日あたり66銭、白米10キログラム1円12銭、自転車(アメリカ製)200円という時代であった。」
(港区教育史 【教員の給料[図11][図12][注釈10]】 より)
「1.政治的圧迫と教員の待遇
日清戦争を契機として近代産業が勃興し,学校教育の普及が進んだ。(中略)明治 30年代は,教員の需要が増える一方で,教師の賃金は低く,明治初期の尊敬される職業としての教師観は一変することとなったという。教師への眼差しは蔑視的になり,教師自身も自らを卑下するようになったという。(中略) 教師の待遇については,明治初期から決して裕福ではなく,貧しい生活が続いていた。(中略)
日清戦争後の近代産業の勃興と日露戦争後の好景気時代においても改善されない教員の待遇は,教員から転職させる要因となり,「学制」以来続
く教員不足に拍車がかかった。また,1900(明治33)年の第三次小学校令にて,授業料が徴収されないことになり,就学率が急激に伸びていくこととなった.教員需要の高まりが教員不足の深刻さをより際立たせることとなった。」(帝京科学大学教育・教職研究第6巻第2号「明治30年代における教師の待遇向上への声」より )
「40歳で専業作家になるまでの漱石は、教師として生計を立てていました。帝国大学(現在の東京大学)卒のエリートであったからか、新人教師の時点でもかなりの厚遇を受けています。
約2年間の東京高等師範学校の嘱託教師を経て、漱石は明治28年(1895年)、愛媛県松山中学の教員になります。この時の月給は、校長が60円、漱石が80円でした。翌年には早くも熊本県の第五高等学校教授に転任、この時の月給は100円。当時の1円=現代の1万円とした場合、月給100万円です」(夏目漱石「朝日新聞社長よりもスゴい」高年収ぶり その年収は現在の価値でなんと3000万円以上! | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン)
「白米10キログラム」は、現在7000円くらい。従って、「1円12銭」で換算すると、1か月の給与を20円で、現在の125,000円になる。安すぎますね。漱石の給与80円では、現在の50万円。
明治時代の貨幣価値は、ごく大雑把に【1円=今の1万円】と考えれば、20円は20万円、80円は80万円となる。