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夏目漱石「三四郎」本文と解説6-3 絵端書は、小川を描いて、草をもぢや/\生やして、其縁に羊を二匹 寐かして、其向ふ側に大きな男がステツキを持つて立つてゐる。

◇本文

 講義が終るや否や、与次郎は三四郎に向つて、

「どうだ」と聞いた。実はまだ善く読まないと答へると、時間の経済を知らない男だといつて非難した。是非読めといふ。三四郎は家へ帰つて是非読むと約束した。やがて(ひる)になつた。二人は連れ立つて門を出た。

「今晩出席するだらうな」と与次郎が西片町へ這入(はい)る横町の(かど)で立ち(どま)つた。今夜は同級生の懇親会がある。三四郎は忘れてゐた。漸く思ひ出して、行く積りだと答へると、与次郎は、

「出る前に一寸誘つて呉れ。君に話す事がある」と云ふ。耳の後へ洋筆軸(ペンじく)を挟んでゐる。何となく得意である。三四郎は承知した。

 下宿へ帰つて、湯に入つて、好い心持になつて上がつて見ると、机の上に絵端書がある。小川を()いて、草をもぢや/\生やして、其縁(そのふち)に羊を二匹 ()かして、其向ふ側に大きな男が洋杖(ステツキ)を持つて立つてゐる所を写したものである。男の顔が甚だ獰猛に出来てゐる。全く西洋の絵にある悪魔(デヰ゛ル)を()したもので、念の為め、(そば)にちやんとデヰ゛ルと仮名が振つてある。表は三四郎の宛名の下に、迷へる子と小さく書いた許である。三四郎は迷へる子の何者かをすぐ悟つた。のみならず、端書の裏に、迷へる子を二匹描いて、其一匹を暗に自分に見立てゝ呉れたのを甚だ嬉しく思つた。迷へる子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとより這入つてゐたのである。それが美禰子の思はくであつたと見える。美禰子の使つた stray(ストレイ) sheep(シープ) の意味が是れで漸く判然した。

 与次郎に約束した「偉大なる暗闇」を読まうと思ふが、一寸読む気にならない。しきりに絵端書を眺めて考へた。イソツプにもない様な滑稽趣味がある。無邪気にも見える。洒落でもある。さうして凡ての下に、三四郎の心を動かすあるものがある。

 手際から云つても敬服の至である。諸事明瞭に出来上てゐる。よし子の描いた柿の木の比ではない。――と三四郎には思はれた。

 しばらくしてから、三四郎は漸く「偉大なる暗闇」を読み出した。実はふわ/\して読み出したのであるが、二三頁来ると、次第に釣り込まれる様に気が乗つてきて、知らず/\の間に、五頁六頁と進んで、ついに二十七頁の長論文を苦もなく片付けた。最後の一句を読了した時、始めて是で仕舞だなと気が付いた。眼を雑誌から離して、あゝ読んだなと思つた。

 然し次の瞬間に、何を読んだかと考へて見ると、何にもない。可笑(おかし)い位何にもない。たゞ大いに()(さか)んに読んだ気がする。三四郎は与次郎の技倆に感服した。

 論文は現今の文学者の攻撃に始まつて、広田先生の讃辞に終つてゐる。ことに大学文科の西洋人を手痛く罵倒してゐる。早く適当の日本人を招聘して、大学相当の講義を開かなくつては、学問の最高府たる大学も昔の寺小屋同然の有様になつて、錬瓦石のミイラと撰ぶ所がない様になる。尤も人がなければ仕方がないが、こゝに広田先生がある。先生は十年一日の如く高等学校に教鞭を執つて、薄給と無名に甘んじて居る。然し真正の学者である。学海の新気運に貢献して、日本の活社会と交渉のある教授を担任すべき人物である。――煎じ詰めると是丈であるが、其是丈が、非常に尤もらしい口吻(こうふん)と、燦爛たる警句とによつて前後二十七頁に延長してゐる。

 その中には「禿(はげ)を自慢にするものは老人に限る」とか「ヰ゛ーナスは波から生れたが、活眼の士は大学から生れない」とか「博士を学界の名産と心得るのは、海月(くらげ)を田子の浦の名産と考へる様なものだ」とか色々面白い句が沢山ある。然しそれより外に何にもない。殊に妙なのは、広田先生を偉大なる暗闇に(たと)へた序に、他の学者を丸行燈に比較して、たか/″\方二尺位の所をぼんやり照らすに過ぎない抔と、自分が広田から云はれた通りを書いてゐる。さうして、丸行燈だの雁首抔は凡て旧時代の遺物で吾々青年には全く無用であると、此間の通りわざ/\断わつてある。 (青空文庫より)


◇解説

雑誌に佐々木が書いた広田推薦の文を三四郎が講義の合間に読んだ場面。


「時間の経済」が面白い表現。今なら、タイパということ。


「「今晩出席するだらうな」と与次郎が西片町へ這入(はい)る横町の(かど)で立ち(どま)つた。今夜は同級生の懇親会がある。三四郎は忘れてゐた」

…「西片町」には、広田の家がある。また、「同級生の懇親会」への導入が巧みだ。


「漸く思ひ出して、行く積りだと答へると、与次郎は、「出る前に一寸誘つて呉れ。君に話す事がある」と云ふ。耳の後へ洋筆軸(ペンじく)を挟んでゐる。何となく得意である」

…「話す事がある」なら、今話せばいい。おまけに、「何となく得意」なようすが読者は気になる。文筆家気取りの佐々木。


下宿に、美禰子からの手紙が届く。

「小川を()いて、草をもぢや/\生やして、其縁(そのふち)に羊を二匹 ()かして、其向ふ側に大きな男が洋杖(ステツキ)を持つて立つてゐる所を写したもの」

…先日の菊人形見物の折の情景を描いたものだ。

「男の顔が甚だ獰猛に出来てゐる。全く西洋の絵にある悪魔(デヰ゛ル)を()したもので、念の為め、(そば)にちやんとデヰ゛ルと仮名が振つてある」

…この男は、美禰子にとっても強い印象が残っている。自分たちの世界を壊した悪魔の象徴。

「表は三四郎の宛名の下に、迷へる子と小さく書いた許である。三四郎は迷へる子の何者かをすぐ悟つた」

…美禰子のこと。

「のみならず、端書の裏に、迷へる子を二匹描いて、其一匹を暗に自分に見立てゝ呉れたのを甚だ嬉しく思つた。迷へる子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとより這入つてゐたのである。それが美禰子の思はくであつたと見える。美禰子の使つた stray(ストレイ) sheep(シープ) の意味が是れで漸く判然した」

…「判然」するのが遅すぎるよ。あの時すぐに気づかなきゃ。また、「お前もストレイシープだ」といわれているのに、それに対する反感や疑問はないものか。気になる相手からハガキをもらえて心が浮つく三四郎。「偉大なる暗闇」も「一寸読む気になら」ず、「しきりに絵端書を眺めて考へた」。滑稽趣味、無邪気、洒落。「さうして凡ての下に、三四郎の心を動かすあるものがある」。「手際から云つても敬服の至である。諸事明瞭に出来上てゐる」。賛辞を繰り返す三四郎。

「よし子の描いた柿の木の比ではない。――と三四郎には思はれた」

…ここで突然登場させられたよし子がかわいそうだ。外見ではなく、その趣味の良さのによって、ふたりの女性が比較された場面。


話題は「偉大なる暗闇」に移る。

「二三頁来ると、次第に釣り込まれる様に気が乗つてきて、知らず/\の間に、五頁六頁と進んで、ついに二十七頁の長論文を苦もなく片付けた。最後の一句を読了した時、始めて是で仕舞だなと気が付いた。眼を雑誌から離して、あゝ読んだなと思つた」。それは確かに読んだ感はあるが、「然し次の瞬間に、何を読んだかと考へて見ると、何にもない。可笑(おかし)い位何にもない。たゞ大いに()(さか)んに読んだ気がする」。感動はあるが中身はない。読後に自分の中に何も残らない、まさに空論。しかし「三四郎は与次郎の技倆に感服した」。(そこ、敬服するところ?)


〇論文の内容

・「現今の文学者の攻撃に始まつて、広田先生の讃辞に終つてゐる」

・「ことに大学文科の西洋人を手痛く罵倒し」、「早く適当の日本人を招聘して、大学相当の講義を開かなくつては、学問の最高府たる大学も昔の寺小屋同然の有様になつて、錬瓦石のミイラと撰ぶ所がない様になる」

という。

・「こゝに広田先生がある」。「真正の学者である。学海の新気運に貢献して、日本の活社会と交渉のある教授を担任すべき人物である」。

・「煎じ詰めると是丈であるが、其是丈が、非常に尤もらしい口吻(こうふん)と、燦爛たる警句とによつて前後二十七頁に延長してゐる」。


都都逸を得意とする佐々木の筆は止まらない。「色々面白い句が沢山ある。然しそれより外に何にもない」。「自分が広田から云はれた通りを書」き、「丸行燈だの雁首抔は凡て旧時代の遺物で吾々青年には全く無用であると、此間の通りわざ/\断わつてある」。

広田を押す熱意はあるが、説得力は伴わない佐々木の文章は、この後事件を巻き起こす。

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