夏目漱石「三四郎」本文と解説5-6 美禰子は首を延ばして、野々宮のゐる方を見た。野々宮は何か熱心に説明してゐる。美禰子は見物に押されて、さつさと出口の方へ行く。三四郎は美禰子のあとを追つて行つた。
◇本文
行くに従つて人が多くなる。しばらくすると一人の迷子に出逢つた。七つ許りの女の子である。泣きながら、人の袖の下を右へ行つたり、左りへ行つたりうろ/\してゐる。御婆さん、御婆さんと無暗に云ふ。是には往来の人もみんな心を動かしてゐる様に見える。立ち留るものもある。可哀想だといふものもある。然し誰も手を付けない。小供は凡ての人の注意と同情を惹きつゝ、しきりに泣き号んで御婆さんを探してゐる。不可思議の現象である。
「これも場所が悪い所為ぢやないか」と野々宮君が小供の影を見送りながら云つた。
「今に巡査が始末をつけるに極つてるから、みんな責任を逃れるんだね」と広田先生が説明した。
「私の傍迄来れば交番迄送つてやるわ」とよし子が云ふ。
「ぢや、追掛けて行つて、連れて行くがいゝ」と兄が注意した。
「追掛けるのは厭」
「何故」
「何故つて――こんなに大勢人がゐるんですもの。私に限つた事はないわ」
「矢っ張り責任を逃れるんだ」と広田がいふ。
「矢っ張り場所が悪いんだ」と野々宮がいふ。男は二人で笑つた。団子坂の上迄来ると、交番の前へ人が黒山の様に集つてゐる。迷子はとう/\巡査の手に渡つたのである。
「もう安心大丈夫です」と美禰子が、よし子を顧みて云つた。よし子は「まあ可かつた」といふ。
坂の上から見ると、坂は曲つてゐる。刀の切先の様である。幅は無論狭い。右側の二階建てが左側の高い小屋の前を半分遮ぎつてゐる。其後には又高い幟が何本となく立ててある。人は急に谷底へ落ち込む様に思はれる。其落ち込むものが、這い上がるものと入り乱れて、路一杯に塞がつてゐるから、谷の底にあたる所は幅(はゞ)をつくして異様に動く。見てゐると眼が疲れるほど不規則に蠢いてゐる。広田先生は此坂の上に立つて、
「是は大変だ」と、さも帰りたさうである。四人はあとから先生を押す様にして、谷へ這入つた。其谷が途中からだら/\と向かふへ廻り込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛の小屋を、狭い両側から高く構へたので、空さへ存外窮屈に見える。往来は暗くなる迄込み合つてゐる。其中で木戸番が出来る丈大きな声を出す。「人間から出る声ぢやない。菊人形から出る声だ」と広田先生が評した。それ程彼等の声は尋常を離れてゐる。
一行は左りの小屋へ這入つた。曾我の討入がある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物を着てゐる。たゞし顔や手足は悉く木彫りである。其次は雪が降つてゐる。若い女が癪を起してゐる。是も人形の心に、菊を一面に這はせて、花と葉が平らに隙間なく衣装の恰好となる様に作つたものである。
よし子は余念なく眺めてゐる。広田先生と野々宮君はしきりに話しを始めた。菊の培養法が違ふとか何とかいふ所で、三四郎は外の見物に隔てられて、一間ばかり離れた。美禰子はもう三四郎より先にゐる。見物は概して町家のものである。教育のありさうなものは極めて少ない。美禰子は其間に立つて、振り返つた。首を延ばして、野々宮のゐる方を見た。野々宮は右の手を竹の手欄から出して、菊の根を指しながら、何か熱心に説明してゐる。美禰子は又向ふをむいた。見物に押されて、さつさと出口の方へ行く。三四郎は群集を押し分けながら、三人を棄てゝ、美禰子の後を追つて行つた。 (青空文庫より)
◇解説
団子坂の菊人形見物の場面。
「行くに従つて人が多くなる。しばらくすると一人の迷子に出逢つた」
・「七つ許りの女の子」
・「泣きながら、人の袖の下を右へ行つたり、左りへ行つたりうろ/\してゐる。御婆さん、御婆さんと無暗に云ふ」
その様子を見た人たちの対応をまとめると、
・「往来の人」…「みんな心を動かしてゐる様に見える。立ち留るものもある。可哀想だといふものもある。然し誰も手を付けない。小供は凡ての人の注意と同情を惹きつゝ、しきりに泣き号んで御婆さんを探してゐる」。この様子を語り手は、「不可思議の現象である」と評する。
・野々宮「これも場所が悪い所為ぢやないか」と小供の影を見送る。
・広田「今に巡査が始末をつけるに極つてるから、みんな責任を逃れるんだね」と説明。
・よし子「私の傍迄来れば交番迄送つてやるわ」
宗八「ぢや、追掛けて行つて、連れて行くがいゝ」と注意
よし子「追掛けるのは厭」「こんなに大勢人がゐるんですもの。私に限つた事はないわ」
広田「矢っ張り責任を逃れるんだ」
宗八「矢っ張り場所が悪いんだ」。男は二人で笑つた。
ここまで、美禰子と三四郎は何も言を発しないでいる。特に美禰子は何を思いつつこれらの会話を聞いているかが気になるところだ。
以上をまとめると、
乞食と子供と対象は異なるが、誰も助けようとしない理由は、野々宮は「これも場所が悪い所為」と考え、広田も「今に巡査が始末をつけるに極つてるから、みんな責任を逃れるんだね」と説明する。他者の存在が自分の行動を妨げる・しなくてよいという考えだ。
よし子も、「私の傍迄来れば交番迄送つてやるわ」と、自分が助けないことを泣いている子供のせいにし、それを「ぢや、追掛けて行つて、連れて行くがいゝ」と注意する兄に対しては、自分から積極的に「追掛けるのは厭」という。「こんなに大勢人がゐるんですもの。私に限つた事はないわ」。彼女も他者のせいにする。
広田の「矢っ張り責任を逃れるんだ」も、宗八の「矢っ張り場所が悪いんだ」も同じことを言っており、自己の行動抑制を他者の存在を理由にしている。確かに彼らの責任ではないのだが、泣く女の子を前にこのような会話を交わすこの人たちの人間性・倫理観をやや疑いたくなる。厳しく言うと、この人たちは、他者のせいにする事で自分の罪を免れようとしている。「男は二人で笑つた」とあるが、ここは笑う場面ではない。明治のインテリのうさん臭さを感じる。
現代人の方が、このような場面に遭遇した時に手を差し伸べる人は必ずいる。明治時代の都会人の非情さが表れたエピソードだ。
幸いなことに、「迷子はとう/\巡査の手に渡つた」。
それまで黙っていた美禰子は、「もう安心大丈夫です」と、よし子を顧みて言う。美禰子は子どもを助けないよし子の心情を理解している。それまで何も言わず、事が解決した後のこのようによし子に言うということは、美禰子もよし子の意見と同じということになる。美禰子も何の行動も起こさなかった。
再度確認すると、よし子は「私の傍迄来れば交番迄送つてやるわ」と、自分が助けないことを泣いている子供のせいにし、「こんなに大勢人がゐる」から自分から積極的に「追掛けるのは厭」、「私に限つた事はないわ」と、彼女も他者のせいにする。
よし子の「まあ可かつた」という発言は、厳しく言うと、第三者の気ままで無責任な感想だ。
ところで、この迷子のエピソードは、登場人物たち自身の今後を暗示している。みな「ストレイシープ」であり、泣く子を笑う彼らに救いの手を差し伸べる者はいない。泣く子を看過する者は、自らも他者に捨て去られる。
「坂の上から見ると」以降の描写は、人間社会そのものを模している。「曲つて」おり、「刀の切先」のような危険があり、「幅は無論狭い」。人の進行を「遮ぎ」る。「急に谷底へ落ち込む様に思はれ」、「落ち込むものが、這い上がるものと入り乱れて、路一杯に塞がつて」「異様に」「不規則に蠢いてゐる」。そこで生きていくことは「大変」で、「帰りた」くなるが、誰かに「押」される「様にして」「這入」るしかない。谷は「だら/\と向かふへ廻り込む」ように続き、希望の「空さへ存外窮屈に見える」。人生の「往来は暗くなる迄込み合つてゐる」。中には突然「大きな」「尋常を離れ」た声を出す者もいて・こともあって、驚かされる。
「曾我の討入がある」以降の部分も同じで、菊で作られた人形たちと実際の人間に、さほど違いは無い。どっらも同じようにぎこちなく「作つたもの」だ。
菊人形見物の一行の様子。
・よし子…「余念なく眺めてゐる」。
・広田と宗八…「しきりに」「菊の培養法が違ふとか何とかいふ」「話しを始めた」。
・三四郎…初めは広田と宗八の話を聞いていたが、「外の見物に隔てられて、一間ばかり離れた」。
・美禰子…「もう三四郎より先にゐる」。「町家の」「教育のありさうなものは極めて少ない」「間に立つて、振り返」る。初めは「首を延ばして、野々宮のゐる方を見た」が、「野々宮は右の手を竹の手欄から出して、菊の根を指しながら、何か熱心に説明してゐる」。「美禰子は又向ふを」向き、「見物に押されて、さつさと出口の方へ行く」。
・三四郎…「群集を押し分けながら、三人を棄てゝ、美禰子の後を追つて行つた」。
この場面からわかることは、宗八と美禰子の、興味・関心の対象の違いだ。宗八の関心は、「菊の培養法」や「菊の根」の科学的観点だ。この物語には、ふたりの関心や考え方のすれ違いが、何度も描かれる。
また、美禰子の説明の部分からは、菊人形とつまらぬ人間に囲まれて退屈している彼女が、人の流れに押されて移動する様子が分かる。彼女は「詩」を語る相手を求めているのに、そのような人はいない。これは、彼女の現在置かれた状況・人生を暗示している。彼女はだから、三四郎と同様に、三四郎と「三人を棄て」て、「さつさと出口の方へ行く」のだ。
それを見た三四郎も、ここで文字通り「三人を棄て」て、「詩」の人・美禰子の後を追う。
三四郎に美禰子の心のものたらなさを満たし、隙間・欠落を埋めることはできるのだろうか。
美禰子はいつも三四郎の先を行く。それは彼女の、人生・人としての成熟の度合いを表す。
発展途上の三四郎には、彼女の相手はまだ無理ですね。そうしてそれは永遠に。